第9話

 二月に入った。

 繁忙期を過ぎ、霧島さんと椎名さんが契約期間の満了で辞めていった。二人ともこの箱根に特別な思い入れがあるわけでもなく、あっさりと去っていた。霧島さんの彼女はまだ残っているが、二人の関係がどうなったのかは知らない。

 李さんはまだいる。僕と同じで二月いっぱいの契約だと聞いた。ここでの仕事が終わったら中国に帰るという。


 ある休日、僕はまた小田原にいた。

 古くから宿場町として盛えていたという印象だが、その頃の趣を感じることはない。駅ビルは巨大で新しい。下手な地方都市の駅よりも綺麗だった。

 小田原駅の東口から出ると、バスのロータリーがあり、そこから大通りが伸びている。通りの脇には商店街のように店が連なっている。ここも古くは名産品などを扱う店が多かったのではないかと思われるが、今現在、半数以上はチェーン店に入れ替わっている。駅周りは観光地というより繁華街にしか見えない。冷かしながら百メートルほど歩くと、チェーン店の看板が途切れてくる。建ててから五十年ほど残っていそうな、経営が成り立っているのか怪しい商店がちらほらと見える。服屋の中にいた老婆と目が合った。売り物は老人しか着ないようなセンスの洋服ばかりだった。こういう店は老人用の服をあえて揃えているのか、それとも昔は実際にこういう服が流行っていて、そのままセンスがとまっているのか。店のセンスがとまっているだけでなく、客のセンスも止まっているからこういう服が売れるのか。よくわからなかった。店の中にあるテレビでは相撲が流れていた。

 これ以上見回っても面白いものはないだろうと判断し、次は駅を通り抜け逆側の西出口へ向かった。駅の外には東側よりも大きなロータリーがあり、タクシーとバスが数台停車していた。白髪の運転手が車外で煙草を吸っていた。

 ロータリーの真ん中に大きな銅像が建てられている。騎乗した武将が右手で采配を振り上げている。馬は前足を持ち上げており、馬の横では三匹の牛が突進していた。牛の角には松明がくくりつけてある。火牛の計をあらわしているのだろう。台座には『北条早雲公』と書かれていた。

 ロータリーから離れるようにして少し歩いたが、こちら側にチェーン店や飲食店はほとんど見えなかった。チケット屋、クリーニング屋、花屋……どれもすたれているようだった。何も発展せずに、古くからあるそのままの街並みが残っている。と言っても、昭和から平成初期にかけての街並みであり、観光地になるような風情はなかった。ただのふるぼけた住宅街がどこまでも広がっていた。

 すれ違うのは老人ばかりだった。日本全体が老人ばかりなので、ここが特別ではないのかもしれない。

 また駅を通り抜け東側へ戻り、いつも利用しているカフェ『エリカ』へ向かった。これで何度目になるのかは忘れてしまったが、小田原に来るたびにここを利用している。

 ホットコーヒーを飲み一息ついた。暇が出来て脳が緩み始めると、未来のことを考え始める。

 僕はこれからどうするのだろうか。今月末で契約が終了し、また宙ぶらりんになる。まだ何も決めていない。実家に戻るのか、このまま関東で家を探し契約するのか。契約したとして、仕事は? やりたいことは? 未だに何もなかった。

 そうか、僕には、もうやりたいことがないのか。

 この時、初めて、自分のなかで既にバンドや音楽というものはどうでもいいものになっていると気が付いた。あれだけ熱中していたのに、完全に熱が冷めていた。ただの風邪のようなものだった。これは運命だとすら感じていたのに、運命ではなかった。人生すべてだと思ったものは、ほんの一部にしかすぎなかった。好きだ。まだ音楽は好きだ。しかし、それに人生を託すことはないだろうと思う。諦めていいのか。諦めていいのだ。好きであっても、それだけに命を使う必要はないのだ。自分の中にあったひっかかりがいつの間にかなくなっていた。病み上がりのような精神は、妙にこざっぱりとしてはいるが、空っぽだった。本当に自分の中には何もなくなってしまった。そして、次にやりたいこともない。このまま生き続ける必要もないのかもしれない。

 死にたくもないけれど、生きたくもなかった。生きたくはなくても、死にたくないのであれば生き続ける必要がある。それだけしかわからなかった。

 コーヒーが空になって三十分たっていた。『エリカ』から出て、小田原駅に向かう。空には星が出始めているが夜ではなかった。地面に近い場所は、まだ夕陽の切れ端が残っていた。黄昏。これを見るために僕は生きているのだろうなと思った。

 

 ある日、休憩時間に太田さんが煙草をふかしながら一人でニヤニヤと笑っていた。何か言いたいのだろうなとは思ったが心当たりがなかった。僕の他には小林さんがいたが、彼は聞いてくれそうになかったので、しかたなく僕が聞いた。

「うーん、これ言っていいのかなぁ」

 明らかに言いたそうであり、言うことは彼の中で決まっているのだろうが、その点には触れず再度促した。

「このホテル来年に閉館らしいよ」

「え!」

 僕よりも先に小林さんが驚きを返した。太田さんより小林さんのほうが立場が上であり、歴も長いはずだが知らされていなかったようだ。僕はあまり驚かなかった。

「老朽化って聞いたけどね、知らないけど」

 すっきりした顔で太田さんが煙を吐いている。そうだろうなと、やはり驚きのない理由だった。

 ここにいる面子は特に影響がない。今年中には契約終了となるからだ。しかし、加藤さんはどうするのだろうか。今まで数年働いており、以前聞いた家庭の事情に鑑みても恐らく来年も働き続ける予定だったに違いない。今から新しい仕事を探すには厳しい年齢だろう。加藤さんがどういう道を選ぶか、その結末を僕が知るすべは持たない。


 次の日、洗い場には僕、小林さん、太田さんがいた。加藤さんは休みだった。少し安心した。少しがっかりもした。

 ボイラーに火が入り、フロアのメンバーも動きだした頃、異変に気付いた。

「来ませんなぁ」

 小林さんがぼやいた。そういえば坂井さんも出勤日だったはずだが、来ていない。もう始業時間となっているので完全に遅刻だった。仕事が出来るかどうかはともかく、真面目な人なので遅刻するということは今までなかった。

 小林さんが、嫌そうな顔をして、一分ほど悩み、結局加藤さんに電話をかけた。

「あ、おはようございます。申し訳ありません、お休みのところ。実は、坂井さんがまだ来てなくてですね……はい、はい……あ、お願いします」

 小林さんは電話中に何度もお辞儀をしながら申し訳なさそうにしていた。お辞儀は見えなくとも、声の乱れと風切り音は加藤さんに聞こえていそうだなと思った。

 人が足りなくても洗い物はどんどん下げられてくるので、僕達は作業を開始した。

 三十分後、洗い場に加藤さんがやってきた。みんなで目を丸くしていると、

「今日、俺が入るから。坂井さんはだめ」

 と厳しい声音でいった。そのまま作業に入る。誰も何も聞かなかった。

 休憩時間となり、皆で裏口から外に出た。

 太田さんと加藤さんが煙草を二口吸ったころ、答え合わせがはじまった。

「で、坂井さんどうだったんっすか?」

 相変わらず聞きにくいことを聞いてくれるのは太田さんであった。いつもより低い声で加藤さんが答える。

「うん、部屋にはいたよ。ノックして声かけても返事がなかったからさぁ、ドアノブ回したら普通に鍵開いたんで中入ったら、あいつ部屋の真ん中で正座してた。床の上で、パジャマで」

「はぁ? やべぇ。切腹でもすんのか」

 太田さんの突っ込みに小林さんが笑って、「いや、すみません」とごまかした。

「んで、話しかけてもね……なんか会話になんない。放心状態っつうか。ありゃもうだめだ」

「え! じゃあ明日から来ないんっすか?」

「多分ね」

 僕はあまり驚かなかった。なんとなく、彼は潰れると思っていた。

 煙草を吸い終わった二人は洗い場へ戻っていった。小林さんもいなくなり、僕もパイプ椅子から腰を上げた。はるか遠く、黒点が動いているのが目の端に映った。一羽の鳥が飛んでいる。遠すぎてなんの鳥かはわからない。鳥は山よりも高く飛んでいるように見えた。その山の八合目あたりには雲がかかっており、山頂は雲を突き抜けている。山が死んでいた。以前この山を見た時は、もう少し神聖さを感じたはずだった。近寄りがたく、神の気配を感じた。今日は神がいないように思えた。


 次の週、懐石料理店の洗い場で作業をしていた。太田さんが洗いを担当し、僕は洗い終わった食器を拭いていた。

 バイキング会場とは異なり、ここではほとんどが陶器の器なので慎重に作業を進める。バイキング会場では皿の形もそこまで多くなく、だいたい「この皿はこの持ち方で、こういう風に拭けばよい」と自分の中に感覚ができている。しかし、ここではその感覚が通用せず、一枚一枚に集中力が必要となる。どの皿も妙な形をしており、妙に重い気がした。それでもなんとか割らずに作業を進めている。

 全ての食器を拭き終わり、棚に片付けている途中、それは起きた。

 和え物や酢の物など、旬のものを少量盛り付けたりする時に使われる小鉢を、僕が片付けていた。直径五センチ程度の小さな器のため、大量に重ねて、引き出しの中にまとめて保管されている。黄色い小鉢を、五枚ほど重ねて、運んだ。引き出しの場所は既に覚えているので、そこへ向かった。小鉢を右手に持ち、左手で引き出しの取っ手を掴み、引いた。すると、思ったよりも引き出しが軽く、また奥行きが浅かった。そのため、引き出しごと棚からすっぽぬけ、そのまま落下した。酷い音が鳴った。世界中の器が割れる音がした。

 忙しくやりとりしていた女給さんの声も、軽快に響いていた板前さんの包丁の音も、すべてが止まった。食洗器の音だけがうるさく響いていた。

「ちょっとー、大丈夫?」

 板長さんが顔を出し、思いのほか優しい声音で尋ねる。

「大丈夫じゃないです、すみません」

 声が震えた。高い器ではないと思うが、とんでもない数の器が僕の足元で割れている。

「ケガしてない? ちょっとチリトリとほうき取ってくるから待ってな」

 そこからはほとんど覚えていないが、とにかくみんなが優しかった。

 昨日までに割った皿の枚数を、今日一日で割った枚数が上回ってしまった。なんなら一生分の皿を今日割った。

 それから二日後、仕事が終わってすぐに荷物をまとめ、またしても小田原に向かった。

 ネットカフェに入り、ドリンクバーのコーラをグラスに入れ、自席ブースに入った。漫画は別に読みたくなかった。持ち込んでいたテキーラをコーラで割ってメキシコーラを作り、一気に飲んだ。

 ネットで『関東 賃貸』というキーワードで検索し、一番上に出てきたサイトを開く。風呂トイレありの中でも一番安い賃貸を探した。深夜三時頃、ようやく候補を三つリストアップできたので、コピー機で印刷をした。正直に言ってどれもいまいちであったが、これ以上時間をかけても決まらないので諦めた。第一候補は破格の一月三万五千円だった。

 座ったまま、机にうつ伏せになり目を閉じる。妙に興奮している脳を自覚し、眠れないかもしれないと思った。過去と未来の色々なことが連想ゲームのように次々と思い浮かんでは消えていく。何も考えはまとまらず、玉つき事故を起こしていた。

 目を開けると、朝の七時だった。考え事をしているうちに眠ったようだ。気持悪い夢を見た気がする。

 ネットカフェを出て、あまりにも眠いのでそのまま何もせずに帰ろうと思ったが、せめてコーヒーくらい飲むか、と考え『エリカ』へ向かった。

 店に近づくにつれ、何かがおかしいことに気付き始めた。『エリカ』の店の前が物々しい雰囲気に包まれている。

 野次馬が数人、警察官が二人いた。警察官は黄色いテープで『エリカ』の店の前の領域を囲んでいる最中だった。

 大通りに面している『エリカ』の入口のガラスが割れていた。地面にもガラスが飛び散っており、高くのぼりはじめた太陽の光をうけ、チカチカと反射している。血痕などはない。事故か、強盗でも入ったのか、わからないが、店は当然営業しないだろう。

 今日が『エリカ』でコーヒーを飲む最後の日になると思っていたが、その機会は奪われてしまった。

 他の店を利用する気にもなれず、十分ほどその場で店の様子を眺めたあと、駅に向かった。


 二月が終わり、僕の契約期間も無事終了した。

 最終日はシフトを入れずに、退寮の立ち合いや、貸与物の返却に時間を使った。そして、最後に洗い場に顔を出した。

「お、行くの?」

 太田さんが最初に気付いて声をかけてくれた。

「はい、お世話になりました」

 自然、笑顔で言う。この笑顔は悪くない笑顔だった。

 小林さんと加藤さんにも挨拶をし、洗い場を出る直前、李さんがフロアメンバーに挨拶をしている横を通った。

「中国に帰るの?」

「うん、帰る」

 という会話が聞こえた。残るフロアメンバーの女の子は泣いていたが、李さんはあっさりした顔で笑っていた。

 彼女は僕のほうに気付かなかったようで、こちらを見ない。僕もあえて声をかけることもなく、そのまま歩き続けた。

 駅に向かう道には誰もいなかった。空は冬の色をしていた。薄曇りだった。太陽は見えない。


 箱根登山鉄道にゆられ小田原に向かう。昼間なので、車窓からは箱根の山が良く見えた。この先、旅行で箱根に訪れることがあるだろうか? もしかしたら、この景色を見るのは最後かもしれない。そう思ったが、特に感慨深いものはなく、ただ寒々しい山々だった。

 

 小田原に到着し、『エリカ』を覗いてみたが、営業していなかった。張り紙があり、『改装中 営業再開日未定』と書かれていた。

 商店街をぶらつきながら駅に戻る途中、人込みの中に李さんがいた。数秒、その背中を見つめたが、遠いので見間違いかもしれないなと思った。どちらにせよ声をかけることはなかった。

 

 小田急線に乗り、新宿まで向かう。先日ネットカフェで調べた物件について相談するため、新宿の不動産屋に向かうつもりであった。

 新宿東口から外に出ると、よけるのが面倒臭いほど大量の人が道を行き交っていた。何故か、みんな急いでいるようだった。僕も早歩きで隙間を縫うようにして歩くべきだと理解はしていたが、拒否した。あえて、自分の、いつもの速度で歩いた。たくさんの人が僕を追い抜いていった。

 駅から少し離れ、奥まったところにあるビルの一室にその不動産屋がある。全国展開しているような仲介業者ではなく、個人で経営している店らしい。

 そのビルに向かう道すがら、大きな工事現場があった。まだ作り始めの行程で、地面を掘り起こして土台を築いている途中だった。土台の一部には、さび色の大きな鉄板が乗せられていた。前日に雨でも降ったのか、鉄板の上には水たまりが出来ていた。水たまりに映った太陽が僕の目を焼いた。空を見ると、厚い灰色の雲間から青空が見えており、雲の上部は純白になっていた。その純白には、確かに、小さな世界があった。そこに行きたいと思った。

 小さな世界から己を切り離すと、街の灰色と騒音が戻ってきた。体は重い。しかし、頭の中は、決して清々しくはないが、重くもなく、どこまでも静かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢幻 川野笹舟 @bamboo_l_boat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ