第8話
十二月中旬、朝、目を覚ますと、世界から音が消えていた。
窓の外を見ると、堰を切ったように雪が降りはじめていた。はじめて雪という概念がこの世界に顕現したかのような唐突さだった。
静かすぎて耳が痛い。可聴領域の外で、高い音が鳴り続けているような感覚が続く。天使の大合唱を人間は聞くことができない。聞こえてしまえば、耳から血を流し絶命するだろう。
無音の恐怖に耐えられず窓を開けると、パサ、パサと確かに雪が落ちる音が耳に届いた。雪は質量を持っていた。
寮を出てホテルへ向かう山道はますます危うくなり、雪が道の堺を見えなくしていた。雲海の上を歩くような頼りなさだった。どこまでも雲は続いており、そちらへ足を踏み出せば戻って来られなくなりそうだった。
山道を何とか抜け、アスファルトの道――国道に出る。道には大きな電光掲示板があり、その日の気温が表示されている。現在、マイナス五度。
後方、遠くから何かが近づいてくる。霜柱の上でダンスしている。鎖。マシンガンのように連打されている。一台の車が通りすぎていった。冬用タイヤでなければ箱根の山は越えられないのだろう。
仕事中も雪の話ばかりだった。
「去年もこんな降ったんすか?」
太田さんが言った。彼は僕より先輩だが、前の冬はまだここにいなかった。さらに古株の小林さんが小気味よく答える。
「いや、こんなには降らなかったですね。結構降ってもなかなか積もらないもんなんですが、いやはやびっくり。今年はもうかなり積もってますね」
「雪のせいで客少なくなんねぇかな」
太田さんがニヤリと笑いながらぼやいた。ホテルとしては客が減ると困るが、しょせん下っ端の僕達からすれば客なんて少なければ少ないほどいいに決まっていた。僕も期待した。
「いやぁ、余計に来るかもしれませんねぇ。雪の箱根、キレーイとか言って」
変なモノマネのような口調で小林さんが答えた。嬉しそうな笑顔。少しイラっとした。
休憩時間、喫煙者である太田さんが煙草を吸うために裏口から外へ出た。僕も外にある自動販売機で飲み物を買おうと思い、ついていくことにした。小林さんもついてきた。
裏口から出ると、従業員用の駐車場になっており、その奥に灰皿だけが置かれた簡易喫煙所があった。その隣に自動販売機もある。太田さんは既にパイプ椅子に座り、煙草を吸い始めていた。
僕は自動販売機でホットココアを買って太田さんの横に座った。小林さんは何も買わず立っている。椅子はまだ余っているので進めたが、「イヤ、イヤ、イヤ」と小刻みに手を振りながら遠慮した。
駐車場は雪がとけて黒いアスファルトが見えている。駐車場のまわりは、土が露出した地面になっているせいか雪がしっかりと積もり、残っていた。濡れて黒々とした枯木が雪から突き出して数本生えている。ここが駐車場や喫煙所でなければ、枯山水の庭園のような、なかなかに風情のある景色が広がっていた。
白と黒の世界の中、僕達の羽織っている蛍光ピンクのジャンパーだけが目に痛く、邪魔だった。元は雪よりも白かったはずの作業用ズボンも、いまではみな茶色に汚れている。
建物から生えている銀色のダクトから出ている湯気と、太田さんの口から吐き出された煙草の煙が混じりあう。白いそれらが、機嫌の悪そうな空にのぼっていく。
あたりには僕達以外に誰もいない。客も従業員も姿が見えない。静かだった。あまりにも静かで、世界が滅んだ後に僕達だけが取り残されたような錯覚におちいった。
このメンバーで生き残るのは嫌だなと思った。
夜、僕は談話室へむかった。
この時間、いつも一人か二人くらい人がいるものだが今日は誰もいなかった。
自動販売機からジーという駆動音が聞こえる。
誰もいないならいないで、独り占めしようじゃないかと思い、ソファのど真ん中に勢いよく座った。背もたれに背中と頭をまかせて、深く長い息をついた。白色蛍光灯が眩しい。
たっぷり三分はそのままでいたように思う。部屋の外、廊下を誰かがこちらへ向かってくる足音が聞こえた。僕は姿勢を正して、ソファの左端に寄った。その時点で気付いたのだが、飲み物も持たず、雑誌も手に取らず、僕は何をしている人に見えるのだろう。
顔しか知らない人が部屋の前を通りすぎていった。
飲み物は部屋に戻る直前に買いたかったので、自然な人間に擬態するため、仕方なく本を選ぶことにした。
闇鍋かゴミ捨て場か、善意の図書館か。何と呼べばいいのかわからないが、この部屋にある小さな本棚をのぞき込んだ。歴代の住人の忘れ形見が雑多に詰まっていた。
数年前の漫画雑誌、時刻表、小説……。小説を手に取ってあらすじを読むと、高級娼婦と青年の悲哀であった。タイトルは聞いたことがある。興味がわいたが、多分読み切れないだろうと思い元に戻した。その本の隣に、『一週間で話せる中国語日常会話』という本があった。李さんの顔を思い出した。誰がこれを持ってきたのだろうか。買ったのだろうか。ぱらぱらとめくってみたが、一週間で日常会話ができるとは思えなかった。そっと本棚に戻した。僕が知っている中国語は『谢谢』と『我爱你』だけだ。どちらも彼女の前で口にするつもりはなかった。
三十分ほど時間を潰したが、結局、誰も来なかった。
次の日、また同じような時間に談話室に行くと、五十歳くらいに見えるダンディなおじさま――小泉さんが一人でコーヒーを飲んでいた。
「あら、いらっしゃい」
小泉さんは薄っすらと笑いながらいつもの口調で答えた。
ここはあなたのお店なのか? と心の中で呟いた。
「どうも、お疲れ様です」
自動販売機で僕もコーヒーを買った。おつりを取り出す間に逡巡したが、結局、
「隣、いいですか?」
「いいわよ」
少し会話してみることにした。隣に座ると、彼の香水の匂いがほのかにした。お風呂に入る前なのか、入った後につけたのか、わからなかった。
年上として気をつかってくれたのか、小泉さんが主導になって色々と話をふってくれた。いつからここにいるのか、出身はどこか、ここ最近で忙しかった日の愚痴、雪のこと、色々と会話した。落語でも聞いているのかと思うほど、彼は語るのがうまかった。僕は何度も笑わされた。小泉さんもよく笑った。しかし、彼の目だけは疲れ果てていて、濁っていて、一度も笑うことはなかった。年のせいなのか、なんなのかはわからないが、怖かった。気軽に探りを入れられるものでもなく、それは僕にはどうしようもないことだと思った。
僕のコーヒーが空になったころ、さらっとしたトーンで小泉さんが聞いた。
「あなた彼女いないの?」
彼の口元はゆるく、左頬だけが笑っていた。しかし、やはり目は笑っていない。黄色い目をしていた。
「いやぁ、いませんね」
何故それを聞いたのだろうか、と思ったが、よくある会話だなという納得もあった。嘘をつく必要もなかったので、事実をそのまま話した。ここに来る前にもいなかったし、ここに来てからも彼女はいない。
「小泉さんは……どうなんです?」
聞くしかなかった。聞きたくはなかったが、聞かないのも逆に不自然な気遣いが伝わってしまうだろう。
「あたしは独身よ。この先もね」
目も、口も笑っていなかった。彼は右手で胸ポケットの煙草の箱を取り出し、開けて、また閉じた。ここが禁煙だと思い出したのか、そのまま胸ポケットへ戻して、言った。
「彼氏がいたことはあるのよ。でも、やっぱり難しいわね」
モテそうですね。と思ったが、口には出せなかった。
「あなたは大丈夫よ。ちゃんと楽しみなさいな」
そういいながら、小泉さんは席を立った。「おやすみー」とチャーミングに手を振りながら談話室から去っていった。
十二月二十四日、僕はシフトに入った。もちろん、明日も入る。特に予定がないので断る理由もない。
うちのホテルは商売繁盛しているようで、客の入りはピークを迎えていた。クリスマスになぜわざわざ箱根に来るのかよくわからなかったが、口実さえあればどこでもいいのだろう。
「客の入りヤバイね。昨日よりさらに多いし、明日もヤバそう」
椎名さんが苦笑いしながら洗い場に情報を持ってきた。太田さんが「うぇーい」とフラットなトーンで返事をした。全員顔がひきつっているが、救世主はやってこない。自分たちでやるしかないのだ。
誰もが無駄口を叩く余裕すらなく働いた。とにかく洗って、とにかく拭いた。
僕が生ゴミと食器を分離する。音ゲーでもやっているかのようなリズム感で仕分け続ける。綺麗、そのまま小林さんへ渡す、汚い、生ゴミをのける、小林さんに渡す。綺麗、汚い、汚い、汚い。汚い器が多い気がした。話に夢中でお腹一杯になったのだろうか?
小林さんが洗う。水しぶきをとばしながら、時に激しく、時になめらかに洗う姿は拳法の達人のようだった。水しぶきがこちらまで飛んできて少し嫌だったが、この状況で文句を言う気にはなれなかった。
太田さんが食器を拭いている。一度に複数のプレートを掴みバンバンバンと音を鳴らしながら拭く。タンバリン奏者のようだった。一度に複数のスプーンを掴み、ジャラジャラと拭く。棒を使う占い師のように見えた。
坂井さんは固定の役割がなく、その都度ボトルネックになっている人のヘルプに入る。相変わらず仕事っぷりがいまいちで、どこか一か所を任せるには不安があった。
今はちょうど太田さんの拭き作業が一人ではきつくなってきており、そこのヘルプをしている。僕は目の前の作業に全力を注ぎながらも、太田さんの声を聞いていた。
「ちょ、邪魔」「いや、それ俺が拭くっつったじゃん」「遅い」
普段は雑でありながらも気を遣う太田さんでも、今日のこの忙しさでは少し余裕をなくしていた。坂井さんは終始無言で、彼なりに必死に対応しているようだった。そして、
「もー、頭使って」
「……す、ません」
小声で謝りつづけていた。
バイキング会場の営業時間が終わり、通常であれば僕達の勤務が終わっている時間になってもまだ作業が終わらなかった。明日も朝一から客が大量に入ることを考えると、今日の洗い物は今日中に片付ける必要があった。ひたすらに洗い、拭き続けていた。
洗い終わった食器の片付けなどはフロアのメンバーも手伝ってくれた。
李さんもいつものゆったりとした動きより少し速い動きであちらこちらへ動き回っていた。太田さんが吹き終わった食器を受け取る時に、李さんが小さな声で歌いだした。
「終わらない歌を歌おうー」
「歌うんじゃねぇよ。終わらせる歌を歌ってくれ」
太田さんが突っ込んだ。
十二月二十五日、クリスマスはイブよりも少し客が少なく、前日の修羅場に比べれば楽ではあった。どちらにしても忙しいのに変わりはないので、一日が終わる頃には体中のエネルギーが枯渇していた。体も頭も動かしたくなかった。
仕事が終わった後、余り物のクリスマスケーキをこっそり貰って、洗い場のみんなで食べた。苺のショートケーキ。苺の酸味と生クリームの甘味が、疲労でひび割れた体に沁み込んでいった。その一方で、少し気分が悪くなった。僕は甘い匂いを嗅ぐと、どうしても生ゴミに結びつけてしまう職業病にかかってしまっていて、それは日に日に悪化していた。
大晦日。やはり忙しかった。
この日、僕は懐石料理店の洗い場に回された。
ここで扱う皿は高い物が多いので、仕事に慣れてからでないと任されない。僕はつい最近任せてもらえるようになった。霧島さんが洗い、僕が拭く。そこまで大量の食器が流れてくることはないので、丁寧さを重視して作業を進める。
拭き終わった食器を戸棚へ返すときに、ふと厨房を見ると、銀色の大きな調理台の上に重箱が大量に並んでいた。黒い重箱には、金で松と鶴の模様が描かれている。板前の一人が繊細な手つきで重箱の中に料理を詰めていた。明日から始まるお正月に、おせちを出すということだろう。
仕事終わりまで後一時間というところで、ワイングラスを一つ割ってしまった。厨房のほうから「霧島ー!」と板長の声が聞こえた。何故か僕の代わりに霧島さんが「すんませーん」と謝ってくれた。僕は霧島さんに謝った。幸いこのグラスは高くないものだった。中には何万もする皿があるらしいが、滅多に使わないと聞いた。僕が在籍する間に使われないことを祈った。
仕事が終わるころ、板長が「二人で分けて食いな」と言って、おせちの入った重箱を持ってきた。僕と霧島さんで分けながら食べた。
ニシンの昆布巻き。ニシンも昆布も味が濃く、頬が痛くなった。日本酒が欲しくなる。
黒豆。ほくほくして甘い。横にちょろぎが添えてあった。初めて食べたがあまり好きな味ではなかった。正月以外にちょろぎの出番がないのも納得だった。
その他、数の子、田作り、かまぼこなどなど。
最後にデザート代わりに伊達巻を食べて、終わり。どれも繊細で贅沢な味だった。
明けて元日。
「明けましておめでとうございます」と、そこかしこでやり合う。この時ばかりは何かが始まる高揚感があり、新鮮な空気が僕の胸にも流れ込んできているのを感じた。
ただし、仕事が始まると普段通りで、気付けば胸の空気もよどんでいた。
いくら忙しくても休憩時間は確保される。そこだけはよかった。客の切れ間に休憩を取ることになり、ぞろぞろと洗い場のメンバーで裏口から外へ出た。薄曇りだった。そういえば初日の出は見えたのだろうか。
この日は珍しくリーダーの加藤さんもいた。加藤さんがセブンスター、太田さんがラッキーストライク、それぞれ煙草に火を着けた。小林さんと僕はココアを買って飲んだ。
太田さんが加藤さんのほうを向いて、目を細めながら言った。
「いやぁ、今日楽っすわ」
加藤さんも目を細め、煙を吐いた後、「なんで?」と返した。
「坂井さん……今日いないからね。クリスマスとか、ひどかったんすから。全然動いてくんない」
「あぁ、彼ね」
今日は坂井さんが休みの日だ。彼のことは加藤さんも気にかけているようだった。
「なんかいまいちだね。うん、頑張ってもらわないと」
しかし、特に声をかけてみたり、対策をするわけでもなさそうだ。
沈黙の後、加藤さんが何かを凝視していることに気付いた。酒瓶を入れるプラスチック製のラックだった。居酒屋に酒を運び入れるときなどに使われているのを見たことがある。そういえば、李さんが酒瓶を割ってしまったあの日も、このラックが台車に乗っていた。
「酒飲みたくなってきたなぁ」
加藤さんがそうぼやいた。太田さんは最初何のことかわからなかったようだが、目線の先にあるラックをみて感づいたようだった。
「へ? あぁ、あのラック。日本酒用ですかね?」
「うん。俺もあれで酒発注してる」
「は? いや、業者じゃないんだから……個人でそんなん出来るんっすか?」
「出来る出来る。寮の俺の部屋にあのラックあるよ。一升瓶入ってて、毎晩一本ずつ飲む」
「いやいや、死んじゃうでしょ! そんな飲む人だったんすね」
「飲むしかないでしょ」
そこからは加藤さんの愚痴を太田さんが聞く流れになり、僕と小林さんは苦笑いしながら黙ってココアを飲んでいた。太田さんの合いの手が上手いからか、正月の空気に当てられたのか、今まで知らなかった加藤さんの事実が次々とあらわになっていく。
「実家が近くにあって、親がそこに住んでるんだわ。介護が必要だからさぁ、いつでも行けるように近場で働くしかなくてここにいるんだよ」
加藤さんは二本目の煙草に火をつけた。
「時間に融通が利く仕事で、まあまあ稼げて、って色々条件考えるとここ以外なかったんだよね。で、ずるずるもう何年もここにいるわ」
それは飲むしかない、と僕も思った。正月からする話ではないだろうと思ったが、そういえば僕も「この正月は両親の顔を見ることができなかったな」と考えていた。自然に選択される話題だったのかもしれない。
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