第7話

 ある日の休み、遊ぶ予定も特に決めていなかった。部屋にいると眠くもないのにベッドに横になり、一日中まどろみのなかですごすことになる。それはそれで心地よく好きではあるが、その場合、一日が終わる頃になって、「何も出来なかった」と自己嫌悪し焦燥感にかられることになる。それは避けたかった。少しでも、嘘でもいいから有意義な休日にしたかった。

 といってもやはり何もする気にはなれず、かろうじて「これならできる」と思えたのは近場を散歩することだった。

 寮を出ると空は曇っていて、朝から薄暗かった。

 あてもなく五分ほど歩いたところで、飲み物を持ってきていないことに気付いた。途端に喉が渇いてきた。

 目についた個人経営の酒屋兼雑貨屋に入った。あきらかに昭和からやっていそうなおもむきがある。こういう店はどこも似たような臭いがする。ほこりとカビの混じったような臭い。冷やかしに店内を見て回ると、食料品や雑貨の他に、箱根の民芸品として名高い寄木細工でできた小物入れがあった。艶のある表面には、赤茶色の長方形と黄色の長方形が互い違いになるように配置されている部分もあれば、薄茶色のダイヤ型と白色のダイヤ型が組みあわさっている部分もある。箱のどの面をとっても、一種類の模様で埋まることはなく、複数の模様の組み合わせとなっており、そのリズムを追うだけでも楽しいものだった。じっと見ていると少し目がちかちかし始めた。そういえば、子供の頃、夜に眠る時、目を閉じると瞼の裏に広がる闇の中で、この寄木細工のような幾何学模様が浮かんでは消えていったことを覚えている。サイケデリックな色彩で明滅していた。ここ最近は見なくなった。子供にだけ見える景色なのだろうか。

 作品の横に色紙があり、作者の名前が書かれている。この人は伝統工芸だけで生計を立てているのだろうかと疑問に思った。

 結局、お茶だけを買って店を出た。

 またあてどなく歩く。

 茶色の大きな建物を発見した。市民会館のようなものだった。二階に図書室があることがわかったので、中に入ってみることにした。図書室には同僚はいないだろうし、観光地のようにカップルがいたりもしないだろう。

 一階の入口を入ると受付に年配の女性がいた。会釈する。

 奥の階段へ向かう途中、壁面に地域の情報が掲載されたコーナーがあり、そこにはローカルな新聞記事の切り抜きが貼られていた。その隣には、地域の子供たちが描いた絵が十枚ほど飾られている。描いたのは小学生のようで、バランスはともかくとして勢いを感じさせる絵ばかりだった。そういえば僕も小学生の頃、写生大会で描いた馬の絵が何かの賞を取ったことがある。普段から絵を描いたりしないし好きでもないので、「人前で表彰されるのは嫌だな」としか思わなかった。大人になった今、趣味として絵を描いたりしないし、絵心もないと思う。あの時、自分の才能を信じて絵を描き続けていれば何か変わっただろうか。僕は自分の才能を捨ててしまったのだろうか。ほとんどの人が自分の才能を知らないまま死ぬのだろう。僕は、今後の人生で自分の才能に気付く機会があるだろうか。……そもそも僕には何の才能もないと言われるほうが納得できる気がした。

 二階へとあがると、思ったよりも立派な図書室があった。こんな辺鄙なところには不要なほどの蔵書数がありそうだった。書棚の間を適当に歩いて回ると、ニッチなジャンルの本もちらほらある。この棚に収められてから一度も手に取られたことがない本もあるのではなかろうか。

 僕以外に、子連れの母親が一組いたが、それ以外に人はいないようだった。

 母親は椅子に座って本を読みながら赤ちゃんをあやしていた。赤ちゃんの小さな足がぴこぴこと動いているので起きているようだが、泣かず、図書館の利用規約をまもっているようであった。

 僕は近くにあった適当な本を手に取り、親子とは離れた窓際の席に腰をかけた。

 本をめくる。ジャンルは哲学であり、あまり理解できなかった。翻訳のせいで余計に複雑になっている気がした。わざとわかりにくくしているのではないかと疑った。

読むのを諦めて、窓の外を見ると、雨が降り始めていた。

 かすかに聞こえる雨音。ゆっくりと一定のリズムで、庭木からしたたり落ちる雫が大きな岩の上ではじけている。濡れた草木は深刻な顔をしていた。普段は内面に留まっている声が、木々の表面にまとわりついた雨水に滲み出しているように見えた。光の加減で、庭の左半分に落ちる雨滴は透明であり、右半分の雨滴は白い線になっていた。雨滴の色は白と透明の間を行き来し、雨音もそれに呼応するように強くなったり弱くなったりしていた。

 いつの間にか眠っていた。喉が渇いていた。さきほど買ったお茶を飲み、席を立った。

 本を元に戻すときにあたりを見渡したが、既にあの親子はいなくなっていた。

 一階へ降りて、自動販売機でブラックの缶コーヒーを買った。玄関の近くにある黒い革張りの長椅子に座って、缶コーヒーを開ける。一口飲むと、缶独特の臭さが鼻についた。玄関は常時解放されていて冷えた空気が流れ込んできたが、図書室の暖房で少しのぼせ気味だったので丁度よかった。そのまま、ちびちびと缶コーヒーをすすりながら三十分ほど雨の箱根を眺めていた。昭和に建てられたと思しき民家が間を開けて点在している。建てようと思えばいくらでもスペースはある。放置され、背の高い雑草に覆われた空き地がいくつも見えた。家々の向こうには山が重くのしかかっている。山は鈴のようなノイズを鳴らしていた。入っている曲を再生しきったCDのように、無音のノイズを響かせていた。何年も前から鳴り続けているに違いないと思った。誰かに停止ボタンを押してもらうのをずっと待っているのだろうと思った。

 雨がやんだので建物を出て、寮へ向かう。

 雨上がりでぬかるんだ山道に気をつけながら歩く。ただでさえいつも薄暗い道が雨雲の下では夜のようで余計に見えにくかった。晴れて明るい日でも、大きめの石や木の根に足を取られて捻挫したりこけたりしそうになったことは一度や二度ではない。全神経を集中し下を向きながら進んでいたので、前方から人が来ていることに気付かなかった。

「おい」

 といきなり前から声がした。低く心地よい女性の声である。見ると、李さんだった。

「おぉ、びっくりした。すみません、前見てなくて。いまから仕事ですか?」

「うん、夜のシフト」

 シフトに入る前に風呂に入ったのだろうか、彼女からは石鹸のようないい匂いがした。雨に濡れて濃くなった草や土の臭いと混ざりあい、優しく、眠気をさそう匂いになった。

 李さんは両手をポケットに突っ込んで僕を見下ろしている。すべったら危ないと思うが、ここまでずっとポケットに手をいれて歩いてきたのだろうか? 既に給仕服に着替えているようで、アウターの下にはぴしっとしたシャツがのぞいている。下も仕事着で、黒いスカート、薄く透けた黒いストッキング、黒いパンプスだった。全体的に黒く、胸元のシャツと色白の顔がぼんやりと薄闇の中で光っていた。髪も一つに結ばれており、大きな体のわりに小さな頭がさらに小さく見えた。音楽を聴きながら歩いていたようで、イヤホンのコードが彼女の胸元で揺れている。

「音楽、なに聴いてるんですか?」

 嫌な質問をしてしまった。音楽に限らず、本でもなんでも、こういう質問の場合、自分の好みを素直に喋る人はあまりいないだろう。それに中国の歌手の名前を言われたところで僕にはわからない。

「ワイルダネス。知ってる? 日本のバンド」

 少し古いが有名なバンドだった。ジャンルとしてはヴィジュアル系に属するだろうか。本人たちはヴィジュアル系と呼ばれるのを嫌っていたはずだが。

「おぉ、知ってる。昔、バンドを組んでて、その曲をカバーしました」

「へぇー、すごーい」

 知っているバンドだったことが嬉しかったのか、聞かれてもいないのに自分のことを思わず喋ってしまった。ワイルダネスの『蓮華』という曲をコピーして演奏したことがある。

 李さんの好きな曲などについて少し会話した。業務用の会話よりも世間話のほうが難易度が高いらしく、時々「伝わってないな」と思うことがあった。お互いに笑ってごまかしあった。会話している間、暗くて李さんの顔はあまりよく見えなかった。それでも、口をあけて笑っているのはわかった。白い歯が綺麗に並んでいた。今まで、ここまで笑った顔をまじまじと見ることはなかった。おそらく蛍光灯の下ではここまで彼女の目を直視することは出来なかっただろう。暗くてよかった。

「あー、もう行かなきゃ」

「すみません、じゃあ、お気をつけて」

「うん、ばいばい」

 李さんが仕事に向かう途中だということをすっかり忘れて話しこんでしまった。間が悪い。もし時間があれば、この会話はどこへ向かっただろうかと口惜しく思った。

 暗い森の中を行く李さんの背を少しの間眺めていた。相変わらず猫背で、ガニ股で、ポケットに両手を突っ込んでいる。ハードボイルドな歩き方だなと思った。

 十二月に入り、いよいよ箱根の冬が深まってきた。雪は降っていないが、最低気温が氷点下になる日もでてきた。

 洗い場の制服である白の上下服は頑丈ではあるが薄く、防寒機能は皆無である。追加で支給された、これまた薄いジャンパーを羽織って僕は長い廊下を歩いていた。蛍光ピンクのジャンパーは着ているだけで恥ずかしいし、目に優しくない。

 基本的に洗い場の人間は客の前に出ないように言われている。見た目が悪いし汚いため異論はない。しかし、作業の内容によってはどうしても宿泊客が利用する廊下を通る必要があった。今の僕が歩いている場所もそれにあたる。途中で客に遭遇した時には「失礼いたします」と言いながら会釈をする。何が失礼なのかは深く考えない。存在が失礼なのだろう。

 目的地まではまだ遠い。道程の半ばあたりで足をとめた。廊下の側面がガラス張りになっており、廊下の外には寒々しい中庭が見えた。真ん中には水の抜かれたプールがある。屋外プールのため、真冬の今、当然閉鎖されている。

 風で飛ばされてきたのか枯葉があちらこちらに散らばっていた。白を基調としたプールサイドに点在する黒い枯葉は、汚い印象を与えていた。閉鎖しているとはいえ客からも見える場所なのに掃除しないのだろうか。パラソルと椅子も白一色に統一されている。ここだけ雪が積もっているような幻視をした。雪の箱根を想像しながら廊下を歩いた。

 やっと目的地のレストランにたどり着いた。このホテルで一番高級な鉄板焼きの店である。客の目の前でシェフが調理をし、それを見て楽しむ。高級牛肉のステーキがメインとなっている。

 この店の皿も宴会場の洗い場で洗っている。使用済みの食器は、夜のうちに店から洗い場まで運ばれているので、朝に僕達が洗う。洗い終わったら、店まで運ぶ。今日、洗い終わった皿を店に運ぶ担当が僕となっていた。

 開店前の店は電気が消されている。店内には大きな窓があるため、ぼんやりと明るかった。

 店に入ってすぐ、一面に広がる箱根の山々が目に飛び込んできた。

 店の真ん中には大きな鉄板がある。鉄板の入口側の側面に客席があり、奥には調理スペース。そしてさらに奥の壁は一面ガラス張りとなっている。そこから見える山を眺めながら、そしてシェフの調理する姿を見ながら、客は食事をするのだろう。

 なだらかな傾斜を描く山々はいくつも連なり、薄青の空に浮いていた。紅葉のシーズンは過ぎているが、枯れているというわけでもなく、黒に近い緑に覆われている。夏の濃緑とはまた違い、重い緑だった。山は、それほど高くないように見えるが実際の高さはいかほどかわからない。ずっと眺めていると遠近感が狂いだし、すぐ手が届く位置にあるような気がしてきた。しかし、遠いこともわかっていた。

 おかしくなった目をぎゅっとつむり、瞼の上から指で押さえる。

 自分は今何をしている?

 皿を、片づけに来たのだった。

 自分の仕事を思い出し、黒々と冷えた鉄板に近づいた。鉄板の下にある引き出しを開ける。淵に金色の線が引かれた白い皿を丁寧に入れていく。しっかりとした陶器で出来ており、一枚一枚が重かった。


 夜、その日の勤務が終わり一人で部屋にいると喉が渇いた。水ならあるが何かジュースを飲みたくなり、寮の一階にある自動販売機へ向かった。

 自動販売機が設置されている談話室へ入ると、太田さんと李さんがソファに座って会話していた。

「あ、おつかれー」

 太田さんが僕に気付いて声をかけた。李さんは口を弾き結んだ変な顔をしながら小さく会釈した。

「お疲れ様です。ジュースをね、買いに来ました」

 僕はそう言いながら、邪魔するつもりはないというアピールをした。自動販売機に小銭を入れる。何も考えずに、無意識のうちにボタンを押していた。押した後に、しまったと思った。ガシャコンと騒がしい音を立てて、何かしらの飲み物が取り出し口に落ちてきた。談話室はいやに静かだった。

 出てきたのはコーラだった。悪くないチョイスで安心した。

 ふと思い立ったのか、これまた無意識だったのかわからないが、

「太田さんも何かいります?」

 と僕は尋ねた。

「え、いいの? さっすがー。じゃあ、俺コーラで」

 こういうとき遠慮しない彼がうらやましかった。僕は再び小銭を入れ、今度はちゃんと目視したうえでコーラのボタンを押した。

 いつの間にか僕の背後まで来ていた太田さんに手渡した。

「サンキュー。でもなんで?」

 わからない。

「んー、いつもお世話になってるんで」

 何もわからないときでも、口は勝手に動くようだった。

 そして、顔も勝手に笑うようだった。遅ればせながら、目尻と頬の筋肉を意識して動かした。適切な量の笑顔を提供することができた。

「じゃあ、おやすみなさい」と二人に声をかけて僕は談話室を出た。

 階段をのぼりながら、李さんに飲み物をおごらなかったことに気付いた。一歩だけ、踏み出す足がスローになったが、再び同じリズムで階段をのぼった。またしても僕の顔には笑顔が浮かんでいた。失敗した時にも笑うのか、という誰かの台詞が頭によぎった。誰に言われたのか思い出せなかった。

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