第6話

 十一月半ば、休日。特に予定もなかったが、あまりにも晴れていたため散歩に行くことにした。隣駅まで歩いてみることにした。

 寮の玄関を出ると風が少しあり肌寒さを感じた。歩けば温まるだろう。

 国道を進む。『夢幻』や寮は山の中腹にあるのだが、目指す隣駅はそこからさらに上にある。この道もゆるやかな坂が続いている。道の端にある白線の内側、細い部分をひたすら歩く。頻繁にではないが、たまに横を通りすぎていく車はかなりぎりぎりの位置で怖いし、うるさかった。基本的に車しか通らないような道なので、僕が悪いのだろう。運転手たちからするといい迷惑だろうと思った。

 道の両脇はひたすら草木で覆われている。しかしあまり草の香りはせず、排気ガスの臭いが強いため深呼吸する気にはなれなかった。

 ぽつんぽつんと古い家が点在する。昭和に建てられたであろう一軒家の庭で、老婆が洗濯物を干していた。

 十分ほど歩くと、割と家が増えてきた。このあたりには初めて来たので知らなかったが、コンビニもある。

 大きな敷地を持つ施設が見えてきた。表門までまわって確かめなかったが、どうやら中学校のようで、学生たちが野球をしていた。

 ここまでくると、歩道も整備されている。すれ違うためにはどちらかが車道に出る必要がある程度に細いが、あるだけましだ。

 少し歩き、民家が減ってきたところに、またしても大きな施設があった。最初、ホテルかと思ったが、表札を見ると某大企業の保養所だった。人影は見えない。保養所というのは利用したことがなかったが、ホテルとも違う無機質な魅力を感じた。入ってみたいなと思った。

 しかし、そういった福利厚生に惹かれて大企業に就職してみたいかと自問すると、否だった。自分が大企業に入れるとうぬぼれているわけではない。頑張っても入れないだろう。しかし、仮に入れる能力を持っていたとしても嫌だった。正しく振舞える自信がない。大企業というのは、地味で正しい行動を積み重ね続けても発狂しない人が所属する場所だという印象があった。僕には無理だろう。積み重ねるとすぐに壊したくなる。ゲームでも終わりが見えると飽きて中途半端にやめてしまう。本でも終わりが見えると途中で読むのをやめてしまう。人間関係でも距離が近づけば近づくほど逃げたくなる。何かが完了すること、完成することが嫌いなのだろう。

 そうこうしているうちに、目的地の駅にたどり着いた。ここも観光地として有名で、駅周辺には観光客がたくさんいた。団子屋、蕎麦屋、甘酒屋。方々から良い香りが漂う。僕も何か食べようかなと店を覗くと、どこも満員だった。店にいたのは、当たり前だが、ほとんどが家族連れやカップルだった。そのことに気付いた途端に、目の下の筋肉が二度痙攣した。自分が何か悪いことをしているような気分になってきた。間違いをおかしている気がした。

 店で何か買うのはやめて、自動販売機に売っているお汁粉を買った。ガシャンとうるさい音がした。周りにいるみんながその音で振り向いたのではないかと恐怖した。

お汁粉を少しずつすすりながら、僕は来た道を戻った。散歩は一時間程度で終わった。寮の部屋に戻り、ベッドに腰かけると、足の筋肉が痙攣し始めた。それが収まるのを待って、風呂に入り、すぐに眠った。

 十一月も末、冬である。秋はいつも短く、秋だと認識した時には冬になりかけていて、後ろ髪も掴めない。枯葉の音が寒かった。

 しかし、洗い場は暑い。温水を出すために稼働するボイラーの熱気、食器にお湯を叩きつけ続ける食洗器から漏れる蒸気、限界まで速度をあげて生ゴミや食器をさばき続ける僕達。なにもかもが熱かった。この季節でも変わらず、汗だくになりながら今日も皿を洗い続けている。

 そんな僕らの元に女神がやってきた。

「今日はいちごミルクでーす」

 ウェイトレスの一人――姉さんと呼ばれている――がそう言いながら、洗い場に突入してくる。手に持ったお盆には四つのグラスが乗っており、その中にはピンク色の液体が入っている。

「いちごジャムに牛乳まぜてみたんだけど、どう?」

「うまいよ、姉さん、神だわ。ありがとう」

 太田さんがグラスをかかげながら礼をいう。残りのメンバーも「あざまーす」と礼をいいながら飲む。そのまま小休憩となった。

 バイキング会場に出されてから、ある程度時間がたった食べ物や、会場が開いている時間内に処理されなかった食べ物はそのまま下げられてくる。それらは通常、廃棄処分される運命なのだが、ほとんど手をつけられていないものもあり、そういった食べ物や飲み物はウェイトレスや洗い場のおやつになる。もちろん、本来であれば手を付けてはいけないはずだが、社員の人達も気付いていながらお目こぼしをしている。モチベーション管理のために必要だと思っているのか、注意するのが面倒臭いだけなのかは知らない。

 会場から食事を下げるときには、食べ物が入った器を台車にのせて洗い場まで運んでくる。その時に、食べ物の上に別のお皿をのっけたりしてぐちゃぐちゃに積んでしまうと、折角まだ食べられるようなものも汚くなり、洗い場にたどり着くころにはとても食べられない状態になっていたりする。そこを上手く調整し運んでくれるかどうかは人による。全然考慮してくれない人もいるし、姉さんのように隙あらば良い餌を得ようとして丁寧に持ってきてくれる人もいる。姉さんは僕らの女神だった。

 美味しいものは人を元気にする。このつまみ食いと、社員食堂の安いわりに質の高い料理がなければ、僕も早々にへこたれていただろう。

 以前、びっくりしたのだが、リーダーの加藤さんは昼間からビールを飲んでいた。仕事中にである。

 さすがにビールサーバーがそのまま下げられてくるわけではなく、客のために注がれてグラスに入ったものがたまに下がってくるくらいである。加藤さんはグラスに満杯入ったビールを発見すると、口が付けられていないか入念にチェックした。そして、「よし」と嬉しそうな声音で呟くと、グイっと一口飲んだ。その後も、皿を洗う手を止めることなく、飲みながら仕事をしていた。完全にアウトだが、ここで働いている歴が長いため、絶妙のさじ加減でセーフとなっているのだろう。加藤さんはいつも朝から酒臭い。聞くと、毎晩寝落ちするまで日本酒を飲みまくるそうだ。それに加えて勤務中にもビールを飲む始末。完全にアル中だろうなと思う。しかし、仕事が出来るので何とも言えなかった。この人から皿洗いを取ったら何が残るのだろうと考えてしまうが、どうでもよかった。

 そんなある日、珍しく李さんが洗い場に差し入れ――残飯を持ってきた。

 李さんがそういうことをするのは今まで見たことがなかったので、僕も他のメンバーも少し戸惑った。

「李ちゃん、これ大丈夫なやつ? お客さんが食べたやつとかじゃないよね?」

 太田さんが確認をとる。

「大丈夫、わたしが入れた」

 得意げな顔で僕達を見下ろす彼女は、ガラスの器に入ったソフトクリームを僕らに向かって差し出していた。ソフトクリームは美しいらせんを描いてそそり立っているということはなく、助けを求める重症人みたいにうなだれていた。味に変わりはないだろう。「俺パス」といいながら太田さんは仕事に戻った。獲物を見つけたウーパールーパーみたいな顔で、李さんが僕を見ていた。

 食べるしかないなと決心したが、またしても戸惑う。

「あれ、スプーンは?」

 器とソフトクリームだけしかなく、スプーンも箸もなかった。犬のように食べるか?

 彼女は、

「もー、面倒臭いやつだなー」

 と、理不尽なことを言う。太田さんが、「ほらよ」と今まさに拭き終わったスプーンを差し出してくれた。それを受け取りソフトクリームを食べた。

 甘く濃厚で美味しいが、逆に喉が渇いてしまった。しかし、飲み物までリクエストするとまた「面倒臭いやつだなー」と言われそうだったので「美味しかったです。ありがとうございます」とだけ伝えた。「ふふん」と得意げに笑いながら李さんはフロアへ戻っていった。

 僕も仕事を再開する。が、その後、その日の仕事が終わるまでずっと「面倒臭いやつだなー」という李さんの声が頭の中でリフレインしていた。

 次の日の朝、起きてもまだ同じ台詞が頭の中に残っていた。思いのほかショックだったようだ。

 ベッドの上で少しの間、その台詞を味わっていると、ふと昔のことを思い出した。

 数年前、学校の先輩と二人で会話していた時のことだ。先輩は「のど渇いたな」と言いながら自動販売機でジュースを買った。そのあと、僕に対して「何飲む? おごるよ」と言った。こういう時、僕は遠慮してしまう人間である。素直に貰っておけばいいのに、何故か負い目を感じてしまい、それを乗り越えられずに、

「いえ、結構です」

 と返してしまうのだ。

 それを聞いて、先輩が言った台詞が、

「面倒臭いやつだなー」

 だった。その時も、ひどくショックだった気がする。

 僕は面倒臭いやつなのだろうか。僕は面倒臭いと思われるのがことさら悲しいらしい。何故だろうか。それは失敗だからだ。八方美人として生きてきたアイデンティティが崩壊するからだ。真正面からぶつかることなく、無難に、本質的ではない戯言を駆使し、隙間を泳ぐ。そんな生き方をしてきた。それすら出来なくなった時、僕には何の価値もなくなるような気がしてしまうのだった。誰にとっても都合の良い人間。僕が無意識のうちに目指しているのはそれだった。しかし、改めて考えると、そういう存在になれたとして、僕は何も嬉しくないということに気付いた。いつのまにこの演技をするようになったのかは、やはり思い出すことが出来なかった。

 

 ある夜、風呂場の湯船で椎名さんと一緒になった。彼は少し湯につかり過ぎたようで、湯船の縁に座り、足だけを湯につけて涼んでいた。湯につかっていた体が赤く火照っており、刺青の火がさらに色を濃くしていた。二言三言ほど言葉を交わし、二人とも沈黙した。

 その後、椎名さんの隣にもう一人の人が座り椎名さんと話し始めた。

 その人の名前は知らないが、僕は勝手にあだ名をつけて『バブルさん』と心の中で呼んでいる。バブルさんはウェイターとして働いている。身長一八〇センチほどで、鍛えているのか体は筋肉質。日焼けサロンにでも通っているのかかなり日焼けしている。妙に若作りをしているのでわかりにくいが四十歳はこえているように見える。もしかしたら五十くらいかもしれない。風呂の中でも金のネックレスをつけている。髪型といい表情といい、すべてがバブルの時代を感じさせるものだった。

「なんかだめだなぁ」

 とバブルさんがいった。椎名さんが返す。

「何がですか?」

「張り合いがないね、ここ。結構有名じゃん、このホテル。だから来たんだけど」

 ここでわざとらしくまわりを見渡し、小声で続けた。演技派だなと思った。

「ただ古いだけで、客も従業員も覇気がないね。昔、バブルの頃はさぁ、こんなもんじゃなかったと思うのよ」

 バブルと自分で言った! 僕は盗み聞きしながら一人で興奮した。

 その後は、昔の羽振りがよかった時代のホテル業界について延々と一人で喋り続けていた。椎名さんがキレたら面白いのにな、と思いながら僕も聞いていた。

 バブルの頃の『夢幻』がどのようなものだったか、それは僕も見てみたかった。似たような光景をいつか見ることができるだろうか、とも考えたが、もう日本にバブルは来ないだろう。少なくとも僕が生きている間は。


 風呂から出て、誰もいない談話室で少しのぼせ気味の頭を冷やしていると、太田さんが顔を出した。

「今から俺の部屋で飲むから来なよ」

「あ、わかりました。いきます」

 何も考えず返事をしてしまったが、言った後に後悔した。彼らは喫煙者なので折角洗った髪が臭くなる。どうせなら風呂に入る前に誘ってくれればよかったのにと、勝手ながらそう思った。

 太田さんの部屋には霧島さんと椎名さんがいた。椎名さんにバブルさんのことを聞いてみたかったが、やめておいた。

 テレビではニュース番組が垂れ流されており、この時、ちょうどスポーツコーナーが始まったところだった。プロ野球の投手が年俸三億円の契約を結んだという。ここ一、二年の成績が良く注目の選手である。

「太田じゃん。こいつ俺と同姓同名で、しかも年も一緒なんだよね」

 と、太田さんがいった。たしかに、同じ名前だった。

「太田さんも頑張んなきゃ」

 と椎名さんがいった。

「ね、俺なにやってんだろうって思うわ。こんなとこで皿洗ってさ」

 太田さんがそういった途端みんな大声で笑った。僕も笑った。目じりと頬の筋肉が痛んだ。

 テレビの中では太田選手がバッターを三振に打ち取り、ガッツポーズをしながら雄叫びをあげていた。

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