第5話
ある休日、午後二時。僕は寮のベッドに寝ころび天井を眺めていた。
天井には模様が描かれている。長細くてギザギザした葉やカールした蔦が同じリズムで並んでいる。ありとあらゆるところで見る、アカンサスをモチーフとした模様だった。何の説明もなく日本人の生活に溶け込み、誰も気に留めない柄であった。古代ギリシアの人々もさぞ喜んでいることだろう。
全開にした窓の外からはちょろちょろと水の流れる音がしている。部屋の外に川や溝などは無かったと思うが、どこに水があるのだろうか。
この部屋があるのは男性従業員用のフロアで、一つ上の階は女性従業員専用フロアとなっている。上の部屋でも窓を開けているのか、遠く小さく女性の声がした。会話の内容までは聞こえないし、声だけでは誰かわからなかった。集中して聞けばわかるかもしれないが、さすがにそれはしたくなかった。
いつの間にかまどろみ、半分夢をみていた。誰かが部屋の扉をノックする音で現実に戻された。
「高橋くーん、いるー? 高橋くーん」
借金の取り立てだろうか、と思わせるようなニュアンスで声を上げながらノックし続けているのは太田さんだった。
「いないっぽい。寝てんじゃね」
誰か他にもいるようだ。諦めて扉の前から離れていく足音が聞こえた。
時々、部屋に誘いに来てくれる良い人だ。だいたいは太田さんの部屋でお菓子でも食べながら雑談をするだけなのだが、参加すると割と楽しい時間を過ごせる。ただ、結構な頻度でやってくるので、時々こうして居留守を使った。今日は実際に寝ていたし、嘘ではないといってもいいだろう。
結局そのまま夕方まで寝てしまった。
起きて風呂に入ることにした。風呂は寮の一階にある。十分に広く、狭いと感じたことはない。箱根という立地だが、温泉ではなく普通のお湯だと聞いた。世知辛いなと思うが、毎日銭湯に入れると考えるなら十分満足だった。ただ風呂が大きい、それだけで心まで広くなる。
体を洗い、湯船につかって数分たったころ、
「高橋さん? あ、やっぱそうだ。お疲れ」
と言いながら、僕の横に人が座った。
フロアメンバーの椎名さんだった。お風呂なので眼鏡をかけていないのと、お手本のような坊ちゃん刈りが濡れてオールバックにされており一瞬だれかわからなかった。
「あぁ……お疲れ様です」
と慌てて返答しつつも、彼の顔から下に目をやると、そこには龍がいた。
「はは、やっぱ引くよね、こんな紋々入ってんの」
彼の腕から胸元にかけて、見事な龍の刺青が入っていた。まるで青黒い半袖シャツを着ているかのように、びっしりと描かれていた。
「いやぁ、かっこいいと思いますよ」
僕は本心でそう言った。
「そう? ちなみに後ろも入ってんの」
穏やかに笑いながら、背中をこちら側へ向けた。
業火を背負い、剣を片手にこちらを睨みつける不動明王がそこにいた。
一瞬で背骨まで焼き尽くされる。そんな幻覚が僕を襲った。呼吸が止まっている。死ぬ。そう思った次の瞬間、椎名さんは何事もなかったかのようにこちらに笑顔を向けた。
「若気の至りで、やっちゃったんだよねぇ」
地元で色々とヤンチャをしていたが、一念発起してイメチェン中なのだと教えてくれた。イメチェンという言葉が適切なのか、はなはだ疑問だった。
いい加減のぼせそうになっていた僕は少しの会話をした後、「お先に失礼します」と伝えて上がることにした。
風呂から出てすぐの談話室に入り、自販機でコーラを買った。僕の他には誰もいない。
談話室には今までの入居者が置いていった本がいくつか置いてある。ジャンルもバラバラで、古い純文学小説、旅行雑誌、中途半端な巻数が揃った漫画などがある。手に取って漁ってみたが特に興味のそそられるものはなかった。
ふらふらとした足取りで二階の自室に戻り、コーラを飲んだ。それだけでは足りず、腹いっぱいになるまで水を飲んだ。
その夜、ベッドに入ってからも体の火照りが取れず、なかなか寝付けなかった。目を閉じると暗闇の中に、あの火と目が浮かんでいた。ちりちりと、ぱちぱちと、僕の世界が焼けていく音がした。
十月が終わる日、朝の六時。
宴会場の横にある通路で、僕はひとり放心していた。
仕事には慣れが出始めていた。だいたいの動きは覚えた。それは先輩従業員にも伝わっているようで、指導が減った。その代わり、さらに効率よく動くことを求められた。処理スピードが速すぎて困ることはないのだ。もちろん丁寧さを引き換えにするわけにはいかなかったが。
洗い場の人員は増えない。もう一人いれば楽になるのだが、必要最低限の従業員しか雇わない方針らしい。どこもそういうものだろうか。
ズキリと指先が引きつるのを感じた。見ると、右手中指に巻いた絆創膏に血がにじんでいた。昨日の仕事中、割った皿で切ってしまった箇所だ。さすがに血が止まるまでは休憩を貰えたが、その後すぐに作業を再開した。切った指で生ゴミの処理をし続けるのは恐ろしく不快だった。
血を失ったせいか、今日の朝は起きるのが酷く辛かった。いや、今日だけではない。最近、ずっとかもしれない。体力的には余裕が出てきたはずだが、精神的にはまるで余裕がなかった。
ボイラーの裏に回り込み、スイッチを入れ、火をつけた。火をつけてすぐにお湯は出ず、冷たい水が出る。作業開始時点の洗い場でお湯を使用するためには、始業の数十分前にはこの点火作業をする必要があった。うまく火がついたようで、ゴーっという音が聞こえる。
僕にも誰か火をつけてくれないだろうか。ぼやけた生活には気付けが必要である。
宴会場の脇には酒瓶が並んでいる。そこからウィスキー――ホワイトホース――の瓶を手に取った。蓋を開け、口をつけないようにして一口飲む。喉が痛い。目をつむり、食道が焼けていくのを感じ取る。火は胃までたどり着いた。少し甘い香りが鼻に抜けていった。
もちろん勝手に飲んでいい物ではないが、知ったことか。こき使うほうが悪いのだ。
ゴーっという音が聞こえる。
朝日は既に登っているが、電気をつけていないため通路は暗い。窓の外は雪もないのに白くぼやけている。白い空にひびが入っている。ひびは枯れ木だった。黒い木の枝が揺れているようにも見えたが、本当に揺れているのかは自信がなかった。ガラスの質が悪いのか、景色が歪んでいる。
人一人しか通れない通路の両脇には食器棚がある。ガラス戸で閉じられた棚の中には大量の器が並んでいる。並んでいるというよりも、ギチギチに詰め込まれていた。僕が洗ったことのない、一度も見たことがない器がほとんどだった。使われなくなった器を無理やり一か所にまとめたのだろうか、詰め込みすぎて、器の塔は崩壊していた。しかし、その密度のおかげで、決定的な崩壊は免れている。絶妙のバランスで器のリズムが維持されている。右へ左へ倒れつつも、倒れ切ることなく斜めの姿勢を維持した器の列は、荒れ狂い身をよじる龍のようであった。今にも動きだしそうだが、静止している。いったい、いつからこの世界はとまっているのだろうか。
遠くから、ゴーっという音が聞こえた。しばし棚の中を見つめていたが、ついぞ器が崩れることはなかった。
十一月に入り、洗い場に新しい人員が増えた。
坂井という二十代の男性で、少しぽっちゃりとしている。顔と頭髪が脂ぎっていて、不潔感があった。
「……坂井です。……よろしく、おねがいします」
自己紹介の声は小さかった。うるさい洗い場の中で、かろうじて聞き取れる音量だった。僕の隣にいた太田さんは苦笑いをしながら、「声小せぇな」とぼやいた。
年末年始の繁忙期に向けて、みんなで坂井さんを育てていく必要があった。持ち回りで教育していくのだが、厳しいものがあった。挨拶をすれば挨拶を返してくれる。指示をすればその通り動こうとはしてくれる。ただ、なんとなくリズムが悪かった。返事も行動もワンテンポ遅い。それが何のための間なのかわからないが、必ずワンテンポ遅れるのだった。みんな何も言わないが、太田さんはその間が発生するたびにずっこける仕草をした。いつもずけずけと物を言う彼が直接的な文句は何も言わないので、彼なりには気をつかっているのかもしれない。僕がミスしたときも「しゃあねぇなぁ」と言いながらフォローしてくれるので、面倒見は良い人である。
坂井さんとは仕事以外でもコミュニケーションを取る努力をした。食事の時に、色々と会話を振ってみるが、あまり芳しくなかった。一応会話はなりたつが、目が合わなかった。小林さんもあまり目が合わない人だが、なんだかんだ時々は合うし、基本的に会話は上手で面白い人である。しかし、それとは異なり、坂井さんは徹底的に目が合わない。不機嫌さを表現しているわけではない、彼なりに頑張ってはいる、とわかるのだが、少し悲しい気持ちになった。
それでも何とか仕事はギリギリこなしているので、気長に見守っていくしかないのかなと思った。
ある日、僕は休憩時間に寮の部屋で一人パンを食べていた。焼いていないそのままの食パンに魚肉ソーセージを挟んで食べると美味いのだ。炭水化物とタンパク質を摂取できるので個人的には満足なのだが、他人にはいつも苦笑いされる。貧乏くさく見えるのだろうか。
一枚食べ終わり、二枚目に差し掛かったところで、窓の外から声がした。
「ちっちっちっちっ。おーい、おーい」
びくりとして、窓を見る。誰もいない。
お隣さんの声だ。彼も窓を開けていてこちらまで声が届いたということだろう。何をしているのだろうか。まさか僕に呼びかけているわけでもなし。お隣さんと話したことはないが、キッチンで働いているということだけ知っている。
怪訝な顔で窓を見つめていると、また声がする。
「ちっちっち……あー、おい」
そして、理由がわかった。猫だ。
窓の外、塀の上をお隣さんの部屋があるほうから、白猫がゆっくりと歩いて来た。白猫は僕のほうを見て立ち止まった。これで「ちっちっちっ」とでも言えば、お隣さんに聞こえて気まずくなることうけ合いだ。とっとと行けばいいのに、白猫はまだ立ち止まったまま動かない。
もしかして餌がほしいのか? 魚肉ソーセージか! そう思い至ったので、僕は急いで残っていたパンと魚肉ソーセージを口に突っ込んだ。一度に突っ込むには多すぎたようで、ほっぺたがハムスターみたいにパンパンになった。
白猫を見つめたまま、咀嚼する。多すぎて、飲み込むまでに大分時間がかかる。その間、白猫も僕のことを怪訝な顔で見つめていた。全て嚥下し終え、わざとらしく水を飲んだ。これで終わりですよというアピールのつもりだった。
白猫は僕をひと睨みして、去っていった。
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