第4話

 ある日、朝のシフトが終わり、寮に向かって一人山道を歩いていると、右側――川へ向かって下り坂となっている茂みからガサガサっという音がした。いつも聞いているような、枯葉が落ちる音や鳥が羽ばたく音ではなく、何か重さを感じる音がした。何かがいる。

 同僚と一緒であれば、「何かいるねぇ」と流すことができただろうが、今は一人。笑えなかった。

 気付かなかったふりをして、ペースを変えることなく歩き続けるのが最善であったかもしれないが、気付いたときには立ち止まってしまっていた。茂みの中の奴もこちらを警戒しているのか動きを止めたようで、音がしない。

 昼間にもかかわらず薄暗い木々のほうに目を凝らして見た。猟師ではないので、草木の中にある些細な違和感を拾えるはずもなかった。怖いとはいえ、「ここはいつも通っている道だぞ。今まで何もなかっただろう?」と思いなおし、僕は再び歩き出した。何もない、何もない。と心中で呟きながら数メートル進み、やはり何もなかった。と考えながら、ちらりと後ろを見ると、先程僕が立ち止まっていた地点で、イノシシがこちらを見つめていた。

 まだ大人ではないと思われるが、脅威を感じるほどには大きい体。見えているのか疑いそうになるほど小さな目。牙もある。

 勝てない、と思った。

 数瞬後、イノシシは軽い足音を立てて、また茂みに戻っていった。僕は息を止め、目を見開き、一分ほど茂みを眺め続けた。

 明日からはルートを変えるか、と考えた。一応、遠回りをすればこの山道以外にもホテルへ向かう道はあった。寮に着くまで歩きながら考えたが、根拠のないまま「まぁ大丈夫だろう」という結論を出し、明日からも同じ道を使うことにした。


 僕は、他人とご飯を一緒に食べるという行為があまり好きではない。会話をするとご飯の味がわからなくなるし、自分と他人の作法が気になるし、口の周りや歯に食べかすがついていないか気になるし……とにかく嫌だった。そのため食堂では基本的に一人でご飯を食べる。

 しかし、一緒のシフトに入っているのであれば、当然ご飯を食べるタイミングも同じになる。自然な流れで同僚と一緒にご飯を食べることはままある。さすがにそれを拒否するほどのこだわりは無いため、嫌だなと思いながらも付き合うのであった。

 今日の昼は小林さん、太田さんと食堂でご飯を食べることになった。僕はカレーうどん、二人は牛丼を選んだ。

「小林さんが貸してくれた本、全部読み切ったよ。次の巻とかあんの?」

 と、太田さんが言った。勝手に「本なんて読まないだろう」と思っていたので、意外だった。

「ぬふふっ。もちろんあります」

 小林さんが鳩のように何度もうなずきながら言った。僕はよく知らないタイトルの本だったが、ライトノベルに類するものだと教えてくれた。

「高橋さんも読みます?」

 と嬉しそうに小林さんが聞いてくれた。正直、僕も読みたいなと思ったが、読んだ後に感想を聞かれるのが嫌だったので、「また、読みたくなったらお願いするかもしれませんが、今は遠慮しておきます」と冷たい返答をしてしまった。こういうところがだめなのだろうなと思った。僕の人生が広がらない理由だ。

 その後、食べ終わるまで、頭の中で今のやり取りを反芻し続けていた。拒否しないパターンの会話を思い浮かべては消した。

いつの間にか会話も食事も終わっていた。カレーうどんの味を思い出そうとしたが、何も覚えていなかった。やはり食事は一人で取りたいなと思いながら食堂を出た。


 夜、太田さんと一緒にご飯を食べていると、李さんが近くにやってきた。

「李ちゃん、明日シフト入ってる?」

 太田さんが大きな声で呼びかけた。この人は誰に対してもいきなりタメ口で話しかけ、いつの間にか仲良くなっている。距離感がバグっている。少しうらやましかった。

 李さんはこちらに気付き、少しガニ股でのそのそ歩いてやってきた。口を真一文字にむすび少し困ったような顔をしている。

「うん、入ってるよー」

 彼女は少し声が低い。日本語が難しいためか、ゆっくりと話す。

「そうなんだ、今日忙しかったよねぇ」

「んー、そうだねー」

 目を少し見開きながら答える李さんの目元をちらと見る。大きくはなく黒くつぶらな瞳であった。そこには日本人にはないまっすぐさがあった。

「高橋は、明日、入ってる?」

 李さんは唐突に尋ねた。

 僕は目の下の筋肉が痙攣するのを感じながら、

「僕? 入ってますよ」と、そっけなく答えた。

「そっかー」

 特に続きは無かった。間を埋めるための、意味のない質問だった。

 李さんは給仕服を着たままだった。勤務中は第一ボタン上まで閉められているシャツのボタンが、今は第二ボタンまで開いていて、髪もいつものポニーテールではなく、そのまま無造作におろされている。

 鎖骨の下から胸元に広がる空間は、白磁の下に薄紅が透けているような色をしていた。汗ばんでいるのか、呼吸のたび、照明に反射してキラキラと瞬いていた。

 李さんが笑って前かがみになった。肩から黒髪が、さら、さら、と流れ落ちていった。先のほうだけゆるいクセがある髪が揺れ、光の加減で黒から白に変化した。その白さに目を焼かれ、僕は目を閉じた。

 会話にひと段落ついたのか、

「おやすみー」

 と、李さんが去っていった。


 次の日の夜、僕は生ゴミが満杯に入ったゴミ袋を二つ抱えながら、ゴミ捨て場へ向かっていた。

 皿洗いをする時に、まだ皿に残飯が乗っていることはよくある。その場合、残飯は生ゴミ用のゴミ箱に入れる。ゴミ袋はすぐにいっぱいになる。いっぱいになったら、口を縛って、また新しい袋をセットする。燃えるゴミと違って、生ゴミというのはとにかく重い。水分などを含んでいる食べ物をそのままにどんどん入れていくので仕方がない。そんな大量に生ゴミが入った袋がまかり間違って破けたら大惨事だ。そうならないように、ゴミ袋は二重になっている。業務終了後にそのゴミ袋をゴミ捨て場へ持っていくのも僕達の役割だった。理不尽なほど重く、口を縛っていても袋を突き抜けてただよってくる悪臭にイライラしながら長い長い廊下を突き進む。このホテルは無駄に広い。バブルの時代ならいざ知らず、今となっては、このホテルにそこまでの客は来ないので、持て余し気味であるように思う。やっとこさゴミ捨て場の扉の前にたどり着くころには、汗だくになっていた。

 息を止めて、扉を開ける。コンクリート打ちっぱなしの小部屋の中には、既に大量のゴミ袋が鎮座していた。その中に二つの袋を投げ入れて、即座に扉を閉めた。呼吸を再開する。ゴミ袋の奥に、ゴキブリのような何かがいた気がしたが「あー、あー、あー」と声を出して記憶からかき消した。

 ゴミ捨て場の横にある簡易喫煙所――灰皿と水の入ったバケツだけが置いてある――に目をやると、ウェイトレスの中で幅を利かせているお局様が煙草を吸いながらこちらを見ていた。

「お疲れ様です」

 とだけ挨拶して、ゴミ捨て場のすぐ近くにある非常口から外に出た。

 ガシャンと重い音をたてて、扉が閉まる。夜の箱根が目の前に広がっている。といっても、黒い山がいくつも見えるだけで風情はない。何という名前の山かも知らなかった。

 何度か深呼吸して清浄な空気を胸に取り込んだ。

 指先の臭いを嗅いだ。頭痛をもたらすほどの甘い臭いがした。

 生ゴミは甘い。

 ホテルのバイキングであるから、生ゴミには色々な食材が混じっている。白米、納豆、肉、魚、野菜、デザートのケーキ。臭いの強そうなものはいくらでもあるが、何もかもを混ぜると、何故か最終的には甘い臭いが勝つ。最初それに気付いた時、「今日はたまたまデザートがたくさん余っていたのか?」と思ったが、デザートの多い少ないに関わらず、毎日毎日同じ臭いになる。絶対に甘くなる。

 この仕事を始めてから、僕は甘い匂いがすると生ゴミを連想するようになってしまった。甘い物が好きだったが、なんとなく苦手になってしまった。

 鼻の頭にしわを寄せ、自分自身の臭いを嗅ぐ。まだ鼻に臭いがこびりついていたが、これ以上どうしようもないため、戻ることにした。

 非常口から中に入ると、お局様はもういなかった。

 長い廊下を歩いていると、廊下の真ん中にしゃがみ込んでいるウェイトレスの姿が見えた。

 遠目でもわかる、李さんだった。普段より縮こまっているが、やはり大きかった。

 何やら困っているようなので、僕としては珍しくこちらから声をかけることにした。

「どうしたんですか? 何か困ってる?」

 その時になって初めて僕に気付いたのか、うつむいて何かをしていた李さんは、すごい勢いでこちらに顔をむけた。色白の顔が朱に染まっていた。

「あー、困ってるー。たすけてー」

 若干涙目になっている李さんの傍らには台車があり、台車の周辺には割れた酒瓶が転がっていた。まだ中身が入っていたようで、床には酒がこぼれている。近づくと、あたりには日本酒のきつい臭いが漂っていた。台車で運んでいるうちに落としてしまったようだ。

 素手で割れた瓶を触ろうとしていたので、慌てて止めた。あたりを見渡すと、近くに掃除用具入れがあったので、僕はそこからモップとチリトリを拝借した。モップで日本酒を拭きとりつつも、瓶のかけらをチリトリにかき集めた。かけらはゴミ捨て場へ持って行き、瓶専用の箱に入れておいた。その後、モップとチリトリは元の場所に戻した。この間、すべての作業は僕一人でやった。李さんは所在無げに横で立っていた。二人とも無言だった。ともあれ一件落着だ。

「やー、ありがとー。どうしようかと思った」

「いえいえ。じゃあ、もう大丈夫だよね」

 僕はそういいながら、李さんと別れた。こういう時に取るべき自然なふるまいがまるでわからなかった。我ながら異常に冷たい対応だと思った。何故もっとスマートに助けることが出来ないのだろう、何故だらだらと無駄な会話をすることが出来ないのだろう、と自己嫌悪しながら廊下を急いだ。

 寮の部屋について一息ついたところで、ふと気づいた。日本酒をたくさん吸ったモップをそのまま用具入れに入れたのはまずかったのではないか? 洗ってから戻すべきだった。

 次に使う人に、心の中で謝っておいた。

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