第3話
数日後、ある程度自分の仕事にも慣れてくると、フロア担当の人員の顔も覚える余裕が出てきた。
僕達洗い場の人間は完全に裏方で、客から見える場所には出ない。それとは異なり、フロア担当の人達は客のいるバイキング会場と厨房、そして洗い場をいったり来たりしている。
フロアのリーダーを務める小泉さんが洗い場に顔を出し、
「またスプーン足りなくなってきたから優先して洗ってくれる?」
と声をかける。太田さんが「あいよー!」と大きな声で返事をした。
基本的に食器類は十分な数が揃っている。しかし、客が使用中のものや、使用済みで洗浄前の食器が溜まってくると、新しく客に回すための綺麗な食器が足りなくなる状況が発生する。そういう状況にならないように、絶えずテンポよく洗い続ける必要があった。
「ちょっと、あんたまた社員さんに怒られるわよ」
小泉さんが苦笑いしながら太田さんにいった。昨日、「声が大きすぎて客席まで聞こえるからやめろ」と注意を受けたのだ。
「デカい声でも出さないとやってらんないんっすよ」
太田さんは悪びれる様子はない。
詳しくは知らないが、小泉さんは既に数年ここで働いているらしい。ウェイターでありながら洗い場の様子も把握しており、視野が広く頼りになる人だった。五十歳くらいに見えるダンディなおじさまなのだが、オネエ口調なので少し謎だ。
入りたての僕のフォローもしてくれるので、僕は小泉さんのことは素直に好きなのだが、時々、目が怖いなと思う瞬間があった。こちらを見る目ではない。誰を見るでもなく、どこか遠くを見る瞬間があるのだ。その目が怖かった。その怖さが何なのかはよくわからなかった。
せっせと皿と生ゴミをさばきつつも、ちらりと通路に目をやると、ウェイトレスの姿が目に入った。李さんだ。ウェイトレスは数人いる。まだ誰とも会話したことがないのだが、ウェイトレスの中で、李さんの顔と名前を最初に覚えた。
どたばたと複数のウェイトレスが行き来する中で、彼女だけがいつもまっさきに視界に入り、印象に残った。
何故だろうか?
ウェイトレスは全員、白黒のシンプルな給仕服を着ている。髪が長い場合は一つにまとめている。ファッションで差がつくことはない。李さんも黒髪をポニーテールにしている。では、彼女が特別美人なのかというと、そうでもない。彼女は、何というかシンプルな顔をしている。最初に近くで顔を見た時は、ウーパールーパーに似ている、と思った。もちろん口に出すことはなかった。
では、何が目を引き付けるのか? それは大きさだった。
遠目で見ているとわからなかったのだが、初めて彼女が僕のそばを通ったとき、その背の高さに驚いた。僕の身長は一六五センチと平均より小さいが、それを差し引いても彼女は大きかった。おそらく一八〇センチ近くあるだろう。
彼女は中国出身で、ワーキングホリデーを利用して日本にきている。大半は日本人だが、彼女のほかにも中国や韓国から働きにきているウェイトレスがいる。
ともかく、彼女は大きい。そのため、普通に歩いているだけで目につく。背の高い女性にありがちなひょろひょろとした印象はなく、少し骨太で、太っているわけではないが、安定感のあるしっかりとした体つきをしている。スポーツでもやっていたのだろうか。その体でもって、のしのしと恐竜のように歩く。所作も含めて余計に大きく見えるのだった。
仕事が始まって一週間経ったころ、唐突に、
「今日は宴会場いってみますか」
とニヤけ顔の小林さんに告げられた。
宴会場はホテルの離れのような場所にあった。
百人はゆうに入る大宴会場であり、その脇にある通路の先に洗い場があった。バイキング会場よりもかなり広い洗い場で、そこには既に加藤さん、太田さんがいた。
「では、私はこれにて」
小林さんは案内だけをしにきたようで、敬礼をしながら去っていった。
宴会場も基本的な仕事の流れは変わらない。強いていうのであれば器の種類が異なることくらいであろうか。
加藤さんと仕事をするのは初めてだった。作業をする中で少しずつ見えてきたのは、さすがリーダーともいうべきか、仕事のはやさだった。持てる最大のスピードで手を動かしつつも、決して器を割らないように丁寧に扱っている。加藤さんがかなり痩せ型なのは、素早く動き続けているせいではないだろうか。
その仕事っぷりはすごいと思ったし、僕が契約を結んだ半年という期間内であそこまでは出来ないだろうなとも感じた。
しかし、あまり好きになれなかった。とにかく指示が細かい。
「それ絶対だめ。その持ち方」「なんでそこに置いた? 絶対だめ。皿、落ちちゃうからもっと奥に」「遅い。溜まってる。そんなんじゃ間に合わないから絶対だめ」と、ことあるごとにメンバーに注意する。それがリーダーの仕事だと理解はできるが、僕以外もみんな辟易しているようだった。そして、繰り返される「絶対だめ」という口癖。やる気を失くさせるための呪文のように、その言葉が洗い場に響き続けた。
この人は皿洗いに人生をかけているのだろうか。以前、僕のために開かれた歓迎会の席でちらりと聞いたが、加藤さんは数年単位でこのホテルの洗い場にて働いているという。それだけ働けば完璧な仕事が出来るだろう。同じものを僕達に求めるのは止めてほしいと思ったが、この程度ならすぐにやってやるよ、という気持ちも薄っすらとあった。僕は黙って皿を洗い続けた。
一週目の休日はとにかく肉体の回復についやした。ひたすら放心し、ひたすら寝るしかなかった。
二週目の休日、夜のシフトが終わって寮の部屋に戻った僕はベッドに腰かけた。
今回の休日は精神の回復に使おうと考えたのだが、やることがなかった。部屋には何もないし、今の僕には趣味らしい趣味がない。寮やホテル周辺を歩き回ろうかとも考えたが、まだ何があるのか把握していないため無駄足になりそうだった。そこまで考えた結果、とりあえず無難に小田原でも観てまわるかと決めた。
決めた途端、すぐにでもこの寮から抜け出したくなった。できるだけ休日を実感できる時間を増やしたかった。
気付けば荷物をまとめ、そのまま駅に向かっていた。
箱根登山鉄道に乗り、夜の山を降りていく。朱塗りのような色をした車両が闇の中を突き進む。二両編成の小さな電車だが、さすがにこの時間帯は空いていた。
木々が覆いかぶさるように林立しているため、夜ともなると道中の景色はほとんど見えない。そんな中、途中で停車する駅だけが白すぎる光に包まれており、異世界に繋がっているかのような違和感があった。降りてしまえば二度と帰ってくることができない気がした。
神隠しにあうこともなく小田原駅に到着した。予想以上に駅周りが発展しており、よくある地方都市の繁華街のような光景が広がっていた。駅ビルも新しく綺麗で、古き良き温泉街という印象は薄い。しかし、ちらほらと昭和の臭いが色濃く残ったデザインのビルや看板もあった。
勢いで来てしまったが、既に夜も更けはじめており、宿を探す必要があった。金はあまり使いたくなかったため、駅を出てすぐ目についたネットカフェで夜を明かすことにした。店に入る前に、酒とポテトチップスを買った。
受付を済ませた後、適当な漫画を数冊手に取り、ドリンクバーでコーラをコップに注いでから席へと向かう。自席のドアを閉め、荷物を置く。禁煙席のはずだがどこからともなく煙草の臭いがした。うっすらと流れるJazzのBGM。右隣のブースからは鼻をすする音、左隣のブースからは忙しくキーボードを叩く音、上からは換気扇のまわる音……。
カバンから先程買った酒――バカルディのラム酒――を取り出し、コーラに注いだ。ポテトチップスの袋を遠慮なく開け、バリバリと音を立てて食べる。似非キューバ・リブレを一気飲みして、僕は無言でうなった。堪えきれないため息が漏れた。久しぶりに感じた自由だった。
喉が渇いているところに酒を流し込んだせいか、すぐに酔いがまわり、漫画を読むどころではなくなった。ひたすらにポテトチップスをむさぼり、酒を飲む。途中からドリンクバーへ注ぎに行くのが面倒臭くなり、最終的にはコーラで割らず直接ラム酒を飲んでいた。
だんだんわけがわからなくなってきた。僕はなぜネットカフェで酒を飲んでいるのか、なぜ小田原にいるのか、なぜ箱根まで来て皿洗いをしているのか、なぜバンドをやめたのか、なぜ何もやりたいことがないのか、なぜ一人なのか、なぜ……なぜ……。
気付けば椅子に座ったまま眠っていたようで、時計を確認すると朝の六時であった。右隣のブースからいびきが聞こえる。左隣からは未だにキーボードを激しく叩く音が聞こえる。夜通しネットゲームでもしていたのだろうか?
ナイトパックの料金を支払って外に出ると、薄青に染まった朝の空気が肌を撫でた。九月半ば、早朝はすごしやすい気温である。
少し商店街をぶらついたが、まだこの時間はほとんどの店が閉まっていた。そんな中、一軒、『エリカ』という名前のカフェが開いていたので入ることにした。チェーン店と個人経営の半ばくらいの雰囲気で、敷居は低いように見えた。
店員は年配の女性一人だった。この人がエリカなのだろうか? 名札はつけていないため、わからなかった。
アイスカフェオレだけを注文し、席についた。入口側の壁は全面ガラス張りで、店の奥にある席に座っていても通りの様子がよく見えた。客は少なく、席は多い。いい店だった。
犬の散歩をするおばさん、痴話喧嘩をする若者、猫背のサラリーマン、カラス、霧島さん。
「霧島……さん?」
商店街を行く人々をぼーっと見つめて、一時間ほど経過したとき、知った顔が通り過ぎていくのが見えた。
洗い場で一番のイケメン、霧島さんだった。そして、彼の横にはウェイトレスの中で一番可愛いと噂の女の子がいた。名前は知らない。お似合いだった。
さすがだなと、妥当だなと思った。二人とも美しく笑いながら、こちらに気付くことなく視界から消えていった。
その後さらに一時間ほど居座り続け、やっと店を出た時には、すっかり日が昇っていた。黄色い光が顔をじりじりと焼いた。
霧島さんがどこへ行ったのかは知らないが、会いたくないなと考えた。
駅前の、たいして有名ではなさそうなかまぼこ屋でさつま揚げを買い、そのまま逃げるように電車に乗って寮へ戻った。
十月に入った。洗い場にもフロアにも特にメンバー変更はなく、みんな淡々と業務をこなす日々だった。
既存メンバーの顔と名前もだいたい覚えた。洗い場のメンバーとは仕事の場でコミュニケーションを取ることになるが、フロアメンバーとはなかなか深く話すことはなかった。強いて言えば、椎名さんと最近よく話すようになった。
彼は僕と同じくらいの年齢で、わざとらしいほどの坊ちゃん刈りに地味な眼鏡をかけている。彼は穏やかな声で、
「今日、あんまり客いなさそうだね。ラッキーだよ」
と、いつも勤務が始まる前のタイミングで客席の様子を教えてくれる気の利く人である。初めて会話した時にはその見た目と雰囲気から少し気が弱そうに見えたが、どんなに忙しい時にも物腰柔らかなまま要領よく働いている姿を見ているうちに、精神的に強い人らしい、と認識をあらためることとなった。
李さんとも少し会話した。彼女から僕への記念すべき第一声は、「おい、お前」だった。別に怒っていたわけではなく、たんに李さんが中国人なので言葉選びを間違えただけらしい。その時は結局、「フォーク、はやく洗って」というリクエストをされただけで会話は終わった。
彼女はゆったりと動く。大地に根を張る巨木が悠久の時を経てひとりでに歩き出したかのような雄大さを感じる。
全員同じ給仕服を着ているのだが、彼女だけスカートが少し短い。合うサイズがないからだろう。
ぺたんこのパンプスを履いていたり、猫背だったりするので、堂々としているように見えても実は背の高さを気にしているのかもしれない。
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