第2話

 翌日、なんとか寝坊せずに洗い場にたどり着いた。

 朝のバイキングは七時からスタートする。

 洗い場の仕事はそれよりも一時間早く六時開始となる。起きて顔を洗い、山道を抜けてホテルまで行くことを考えると五時には起床する必要があった。

 寮のベッドは固く、布団も黄色く変色していた。何もかもが気に食わなかったが、無理やり眠った。緊張からか、夜中何度も目が覚めた。

「おはようございます。高橋といいます。はやく仕事に慣れるように頑張りますので、これからよろしくお願いします」

 無難な、何も心がこもっていない挨拶をした。それに対して、何も考えずに喉だけを使って「よろしくー」と返事をする既存のメンバー達。半年にわたる皿洗いの日々は、こうして、だらしなく、なんとなく始まった。


 聞いていた通り、小林さんが僕の教育担当になった。教育といってもいきなり実地訓練が始まり、やりながら覚えることになった。

 小林さんは、ほんのりとふくよかな三十代くらいの眼鏡をかけた男性で、髪は肩まで伸びている。おしゃれとして伸ばしたというより、切らずにいたらそのまま伸びてしまったというのがあきらかで、いわゆるオタクっぽい見た目であった。仕事のやり方を教えてくれるのだが、喋り方もやはり典型的なオタクのそれだった。

「さぁっ、では参りましょうか。まず、ここを見てわかるとおり、台車にお皿が乗っています。これはなんでしょうか? と、言われてもわかりませんよね。ぬふふっ。これは昨日の夜に洗い終わらなかったお皿です。朝のバイキングが忙しくなるまでに少し時間があるので、その間に洗ってしまおうという魂胆です」

 よくもまぁここまでスムーズに喋ることができるなと思いながら、丁寧かつ早口の説明を黙って聞き続ける。

「皿洗いというとどういうイメージをお持ちでしょうか? 割らないように丁寧にという感じだと思われます。違いますか? あ、違う。ぬふふっ」

 小刻みに身振り手振りを交えて話す小林さん。アメリカ人のような、堂々たるジェスチャーではなく、腕の先のほうだけをやたらと素早く動かし、小動物かハエのようだった。顔もキョロキョロと忙しく向きを変えるのだが、ほとんど目が合うことはなかった。顔自体は僕の方をむいているのに、目は中空をとらえて、妖精と話しているようにも見えた。

「まっ、それも大切なんですが、この洗い場で一番大切なのはスピードです。まずはじめに、残飯を落とします」

 そういいながら、小林さんは台車の上から一気に複数枚の皿をひっ掴み、シンクと繋がっている作業台の上に置いた。その中から、一枚だけ皿を持ち、皿に乗ったままになっている残飯を作業台の横にあるゴミ箱へ叩き込んだ。それを繰り返し、あっという間に五枚の皿を空にした。食べかけの魚やご飯が残った皿をそのまま洗うことはできない。そこからとりあえずは残飯をのけて、洗える状態に持っていく作業が必要らしい。

 その動作の速いこと速いこと。そして荒いこと。バイキング会場ではプラスチックの皿や器が使用されているので雑に扱っても割れたりはしないのだろうが、陶器で同じことをすれば全部割れてしまうような勢いであった。

「はい、ここまで! このポジションの人がやるのはこれの繰り返しです」

 そういいながら、小林さんは台車の横から、水が溜められたシンクの前へと場所を移動した。

「次に、こちら。このポジションの人は、さらっと汚れを落とした後、食洗器に皿をぶち込んでいきます」

 先程残飯をのけ終わった皿をシンクに沈める。そして、一枚取り出し、泡のついたスポンジで二回ほどささっと擦り、正方形のラックに入れる。ラックは、皿を差し込むようにして並べることができる。十から二十枚ほどの皿が並べられるくらいの大きさだ。またしてもすごい速さでその作業を繰り返し、あっという間にラックに皿が差し込まれていく。適当に並べると無駄なスペースが出来てしまうため、配置する場所も考える必要がある。パズルゲームでもするかのように、収納可能な最大枚数がぴたりと収められていた。

 シンクの横にはベルトコンベアがある。ラックをベルトコンベアに乗せると、ラックは自動的に洗浄機に突入していく。

 洗浄機から出てきたラックはそのまま進み、ベルトコンベアの終点に待ち構えている小林さんに確保された。

「最後のポジション。ここで拭いて水気を取る。これにて皿洗い完了とあいなります」

 当然、ここでもスピードが命だった。左手で皿を掴み、右手に持った布巾で皿の裏表をひと撫でする。以上だ。もう少し丁寧に拭かないと苦情がくるのではないか? と思ったが、ずっとこれでやっているのだ。大丈夫なのだろう。

 あっという間に、ラックいっぱいの皿を拭き終わった小林さんはわざとらしく「ふぅ」と言いながら、ひたいの汗をぬぐうジェスチャーをした。

「さ、やりましょっか」

 そこから地獄が始まった。

 三つあるポジションのうち、当分は最初の残飯処理係となった。小林さんは簡単そうにこなしていたが、いざやってみると肉体的にも精神的にも厳しい作業だった。

 まずスピード。客の数が一番多い時間帯は言わずもがなだが、それ以外の時間も基本的にずっと動き続けなければ間に合わない。バイキング会場からわんこそばのごとく運ばれてくる使用済みの皿を、洗い場に到着した瞬間に、処理し始める。器を掴み、残飯がなければそのままシンクへ。残飯があれば、ゴミ箱めがけて素手で払いのける。そう、素手だ。人の食べ残しを手で触るのは酷く不快だった。器の半分ほど残った納豆ご飯。ほとんど手が付けられていないケーキの並んだ皿。これほどまでに「残さず食べろよ!」と思ったことは無かった。今後は絶対に食べ物を残さないようにしようと誓った。

 また、小さな器であっても何十枚何百枚も処理していると疲れてくるが、それだけではなく大きな入れ物も時々到着する。バイキングで並べられている料理の入れ物などがそれにあたる。

 例えば、グラタンの入った、長さ五十センチほどの銀の器。表面や器付近はこんがりと焼け目が入っており、それでいて中はトロッとしたグラタン。美味しそうだ。だが、洗うとなればやっかいだ。焦げ付いた部分はなかなか器からはがれないし、トロっとした部分は重量感があり、すぐにゴミ袋が一杯になる。

 例えば、おかゆのはいった銀色の大型バケツ。おかゆはほぼ水分であり、流れてくる器の中で一番重い。そして、こういうものに限って、ほとんど消費されず満タンのままやってくる。もったいない。いや、確かに「わざわざバイキングに来て、誰がおかゆなんて食うのだ?」と僕も考えたことはある。だが、食え。今だけは食ってくれ。そう願ってならなかった。

 プラスチック製の器が多いものの、もちろん陶器もある。油断してプラスチックと同じように扱うと、すぐに割れる。仕事開始から数時間後、初めて器を割ってしまった。パリンとあっけなく割れる。実家で洗い物の手伝いはしたことがあるが、割ったことはなかったので、こんなに簡単に割れるのかと、最初何が起こったのか理解できなかった。皿の乗った台車が動く音、皿をさげてくるウェイトレス達の急かす声、洗浄機の稼働音、洗い場は騒がしい。しかし、僕が皿を割った時だけは、何故か酷く静かだった気がした。

「すみません、割ってしまいました」

「はい、気を付けてくださいねっ。割れたものはそこにある箱に入れておいてください」

 小林さんは少しニヤつきながらも、「そういうものです。気にしたら負けです」とフォローをしてくれた。

 結局、この日、三枚の皿を割った。

 初日の業務を終え、小林さん、太田さん、僕の三人で寮に帰った。

 太田さんは僕より二か月先に洗い場で仕事を始めた先輩だと教えてもらった。年齢は二十代後半だと思うが、彼は少し老け顔なので三十代にみえなくもなかった。

 彼は目つきと口が悪い。ずけずけと物を言うので僕は少し苦手だが、ムードメーカーで仕事が出来る人でもあった。

 そんな太田さんが道すがら言う。

「そういやさぁ、高橋くんの歓迎会やりたいよね。やろうよ」

「いいですねぇ、やりましょっか」

 小林さんも同意する。僕は気が乗らなかったが、

「ありがとうございます。どこでやるんですか?」

 と、笑顔で答えた。笑顔――昔から勝手に顔が笑うのだ。感情に先行し、言葉に先行し、僕の意思を無視して。この笑顔に引きずられるようにして、これまでの行動が、人生が、決められてきた気がする。

 その夜、太田さんの部屋でささやかな歓迎会が開かれた。

 参加者は先の三人以外に、霧島さんという人がいた。

「霧島。こいつは懐石のほうで仕事してる」

 と太田さんが紹介してくれた。

 霧島さんはかなりイケメンで、なぜこんな場所で働いているのだろうと疑問に思うほどだった。

「では、高橋さんの参加を祝って、かんぱーい」

 ラインナップは安い発泡酒、焼酎、チェイサーの水、ポテチ、スルメだった。各々選び、勝手に飲む。

 太田さんと霧島さんは喫煙者だった。小林さんと僕は吸わない。

「いやぁ、どうよ? 皿洗い、だるいっしょ」

 こういう答えにくい質問をするのだ、太田さんは。

「いや、まぁ、大変ですけど、なんとかいけるかなぁって」

 こういう毒にも薬にもならない回答をするのだ、僕は。

 歓迎会自体は、嬉しいというより疲れる気持ちが強かったものの、会話する中で、なんだかんだみんな優しい人だと知れたのでありがたい場ではあった。

 次の日も朝が早いため、二時間ほどでお開きとなった。

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