夢幻
川野笹舟
第1話
窓の外をオレンジの光が連続で通り過ぎていく。エンジンの重低音で頭蓋骨が痺れる。
神戸発、新宿行きの夜行バスは、先ほど浜松サービスエリアでの休憩を終え、再び走り始めた。
僕は窓に身を寄せて縮こまる。一番安いプランを申し込んだため、座席の間隔は無いに等しい。
乗客のほとんどが男だが、女もいる。ジャージにすっぴんなのはわざとだろうか。
横の車線をアウディが追い越していく。美しく、静かで、なめらかだった。
僕が座る席の前方に、少し騒がしい男性三人組がいた。二十代だろうか、一人が金髪、二人が茶髪だった。会話の内容からしてバンドマンのようだった。遠征ライブのために東京へ向かっているようだ。
僕も、かつてバンドマンだった。高校卒業後、大学へ行かずバイトをしながらバンド活動をしていた。バンドは解散してしまったが、やり切ったという感覚が持てなくて、もやもやとしたものが残っている。何もしないまま同じ場所にいても仕方がないし、どうせなら東京へ出ようと考えた。そう考え、少し調べてみたたが、いきなり関東で家を借りるのは難しそうだった。前段階としてリゾートバイトに申し込んだ。業務内容は、箱根にあるホテル『夢幻』で皿洗いをするというものだった。そこで数か月働きながら、東京での仕事と住み場所を探すつもりだった。同時に、このままバンドを続けるのか、何か他にやりたいことがないのか考える時間にあてたかった。
朝の五時半。新宿駅近くのバス停で降りた。
早朝の新宿はカオスだった。まず臭かった。排気ガス、煙草、ゴミ、ゲロ、それらが混ざったような臭いがどこからともなく漂ってきた。路上には女が転がっていた。酒を飲み過ぎて意識を失っているのだろうか。幸い今は九月だが、これが冬であれば凍死していてもおかしくない。女の近くにはキャッチのお兄さんが立っていた。女には目もくれず、覇気のない声で呼び込みをしていた。こんな朝から何をキャッチするのだろうか?
カフェもまだ開いていなかったので、マクドナルドでコーヒーだけ注文して時間を潰すことにした。二階の窓際の席に座った。窓の外には、まだ青い光に包まれた新宿が見えた。店のすぐ近くにあるゴミ置き場には、大量のゴミ袋が積み重ねられており、カラスが群がっている。カラスの鳴き声は店内まで聞こえていた。
僕の近くにはカップルらしき男女が座っていた。
「あたし豚まん食べたい」
「豚まんって言ったら関西人ってバレるで! 肉まんって言わな」
盗み聞きした会話から察するに、僕と同じバスで関西からやってきたようだった。
ガサガサと新聞を忙しそうにめくるサラリーマン、いびきをかいて爆睡するおばさん、堂々とパソコンでアダルトビデオを観る男。そんな中、コーヒー一杯で二時間粘る僕もたいがいだなと思った。
新宿から小田急線で小田原まで向かい、小田原からは、箱根登山鉄道に乗り換えた。
街中から次第に山道へ入っていく。鬱蒼と茂る木々の中を突き進む。ところどころ景色がひらけて遠くまで見渡せる場所もあった。途中、誰も知らなさそうな小さな駅の周辺に、わりとホテルや家が集まっていることに驚いた。誰がこんな場所に泊まりに来るのだろうか。
箱根登山鉄道は、急な山の傾面を登るためにスイッチバック方式をとり入れている。そのため、途中で車両の進行方向が逆向きとなる。鉄道好きで集まっているのであろう三人組が、そのたびに興奮して会話をしていた。確かに珍しいが僕には価値がわからなかった。初めて乗るタイプの電車だったが、寝不足と、これから始まる仕事の憂鬱で何も面白くはなかった。
新宿から二時間半程度かけて、ようやくホテル『夢幻』の最寄り駅にたどり着いた。
一応ネットで調べて、外観の確認はしていたが、予想よりはるかに大きな建物と敷地に気後れしてしまう自分がいた。
事前に聞いていた通り、ホテルの受付に向かい、明日から働かせてもらうことになっている旨を伝えた。
ロビーで待つように言われた。数分後、一人の男性がやってきた。
「ども、加藤です。洗い場のリーダーをやってるんで、これからよろしくお願いします」
加藤さんは四十歳くらいに見えた。頭を丸めており、お坊さんのような印象だった。リーダーらしい覇気は感じず、疲れきった目つきと声だった。
「高橋といいます。よろしくお願いします」
僕も挨拶を返す。同じく覇気がなかった。
歩き出した加藤さんの後ろをついて従業員専用通路を進む。どこもかしこも古めかしく、少し汚かった。『夢幻』は、一応このあたりで有名なホテルらしい。ロビーは、ゆったりとした空間と大きな生け花が飾られており高級感があったが、客から見えないところは明らかにくたびれていた。
『更衣室』とかかれた部屋に入った。部屋の壁際には、ネズミ色のロッカーがずらりと並んでいる。部屋の真ん中には机があり、それを囲むようにしてソファが配置されている。部屋の奥にはテレビが一つあった。
ロッカーの内の一つを加藤さんが開け、中から白衣と長靴を取り出した。それらをロッカーの鍵と共に僕に渡しながらいう。
「これ持って。皿洗う時はこれ着てもらうから。高橋君のロッカーはここね」
その後、部屋の中のソファに座って、仕事についての説明を受けた。
「実際働いてもらうのは明日からね。洗い場はバイキング会場、懐石料理店、宴会場の三か所あるんだけど、仕事覚えるまではバイキング会場だけ担当してもらうことになるから」
「はい、わかりました」
「俺は基本的に懐石か宴会場にいるから、明日からは小林ってやつに仕事教えてもらって」
その後、すぐにホテルの外に出て、従業員用の寮へ向かうことになった。
ホテル前を通る大きな車道から少し逸れると、山の中へ入っていく細道があり、加藤さんはそこへ侵入していった。一応アスファルトで舗装されていたが、進むにつれてどんどん細くなっていき、ある地点でアスファルトは途切れ、そこからは土で出来た山道となっていた。一応踏み固められてはいるが、道はでこぼこしていた。小学生の頃に体験した山登りを思い出した。
「ここ時々イノシシ出るからさ、気をつけてね」
どうやって気をつければいいのかわからなかったが、「はい」と生返事をした。
山道は人がぎりぎりすれ違えるくらいの細さで、足を踏み外すと転がり落ちそうな斜面になっている。下の方からは水の流れる音が聞こえてきた。道の脇には背の高い木が覆いかぶさるように林立しており、昼間であるにもかかわらず薄暗かった。
十分ほど山道を歩いたところで木々のトンネルが終わり、またアスファルトの道へ出た。そこから二、三分で、ようやっと寮にたどり着いた。薄汚れたクリーム色の無骨な建物である。四階建てで敷地面積も広く、かなりの人数が収容できる。一階には談話室、大浴場、コインランドリーがある。僕の部屋は二階だと言われた。
寮内の施設や部屋の使い方を一通り説明してもらった後、加藤さんは去っていった。
「うーん……なるほど」
ベッドに座りこみ、僕はぼやいた。期待はしていなかったが、予想より質素な部屋を受け入れるのに五分ほど時間を要した。
風呂トイレ共同であるため、部屋にはベッドしかなかった。テレビもない。本当に寝るだけの場所だ。
そんな中、一つ特徴的なのは、パネルヒーターだった。部屋の奥にある大きな窓の下に、白くて長方形の大きなヒーターが設置されてある。今は夏なので稼働していないが、寒くなってくると全部屋共通でこのヒーターが稼働し、勝手に温まる仕組みになっている。温度調整はできないため、暑ければ半袖ですごす人もいると聞いた。
夜になり、寮の周りにコンビニがないことに気付いた。従業員用の食堂があると教えてもらっていたが、その食堂はホテルの向かいにある。つまり、また山道を通り戻る必要があった。さすがに飯抜きは避けたかったので仕方なく夜の山道を抜けてホテルへ向かった。
食堂に入ると、まだ忙しい時間帯ではないのか、食事をしているのは僕以外に二人だけだった。
メニューを確認すると定食が安い。メインのおかずが異なるようで、今日はA定食が焼き鮭、B定食が山賊焼き、C定食が野菜炒めだ。
食券を購入し、受け渡し口で交換する。
「B定食、お待ち」
安いこともあり、どうせ薄味だろうと決めてかかったが、普通に、いや、かなり美味しかった。これを毎日食べられるのかと考えると、明日からの皿洗いに少しやる気が出てくるというものだった。
食堂はホテル前の大通りに面しており、道路側の壁は一面ガラス張りになっている。そのため、ホテルの全景と、その奥にそびえる箱根の山々を見渡すことができる。従業員専用にしておくにはもったいないほどの贅沢な景色を楽しむことができた。
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