異世界からの帰還
※ ※ ※
最初に感じたのは空気のカビ臭さと空の色の違いだった。
委員長の送還スキルには、召喚魔法のような違和感や『めまい』はない。カメラが一瞬で切り替わるように、気がついたら別の世界にいる。
「目標の座標に到達しました。他の勇者候補生たちを送還した公園から東に三キロ。ショウヘイ様たちが通っていた高校の屋上です。周囲にシオリ様以外の人間はいません」
「わかった。ミリア、ありがとう」
屋上からの景色は、確かに元の世界のものだった。
灰色の空にかすんで見える高層ビル。その奥にあるのはスカイツリーだ。教室の窓からよく眺めていたのを思い出す。
それにしても、胸がちょっと邪魔だな。
肩から落ちそうになっているシャツの、その部分だけがピチピチだ。いや、それよりも重い。たゆんと揺れる。なんか収まりが悪い。
えっと。とりあえず、胸を持ち上げて……。
「佐野クン、何やってるの! エッチ、ダメ! 触らないで」
「えっ」
俺の胸じゃんか。別にどうしたって勝手だろ。
一瞬、そう思ってから我にかえった。あわわ、そうだ。俺は今は委員長だった。それも本人が、目の前にいる。
「あ、あ、あ。ごめん」
「謝らなくていいから、早く元の佐野クンに戻ってちょうだい。それと……できれば、あまりジロジロ見ないで」
「わ、わかった。すぐやる、やります」
ブーン。
俺はスキルを発動した。
あわててたから、服を直すのを忘れてた。ぐっ、痛い。ズレた服に元の体が合わない。体が雑巾みたいにねじれる。腰とか肩とかが、パンパンになってはち切れそうになる。
「た、頼む。向こうを向いててくれ」
カチャカチャ。
俺はその場で脱ぎ始めた。
ベルトを外してズボンをはきなおす。次は上着だ。うわっ、ヤバイ。シャツのボタンが弾け飛んだ。ええい、放っておけ。今は緊急事態だ。
「……も、もういいぞ」
はあ、はあ、はあ。
危うく自分の服に絞め殺されるかと思った。
「これからどうするの? 確か屋上の入口ってチェーンがかかってたと思うけど」
「ここから直接、飛んで行けばいいさ。最初から、そのつもりでこの場所を選んだんだ。
俺が飛行魔法で家まで送ってやる。大丈夫。ステルスっていう
「佐野クンって、なんでもアリだね。マンガのヒーローみたい」
「茶化すなよ」
「あーあ、私もヒロインになりたかったなあ」
「おまえは立派なヒロインだよ。気がついてないのか? カティアも言ってたよ。本当の意味でみんなを動かしたのは委員長だって……俺は自分のことしか考えていなかった。カティアだって、政治に深入りするのは反対だった。委員長がいたから、みんなの心がひとつになったんだ」
「私がヒロイン?」
「ああ、そうさ。あの世界の奴隷を解放したのは、他の誰でもない。間違いなく山口詩織だよ。歴史の教科書には載せられないけど、誇ってもいいと思うぜ」
「じゃあ、ご褒美をちょうだい」
「え……」
チュッ。
俺の唇に、委員長が触れた。
考えている間もない、唐突な出来事。委員長は触れたばかりの唇の前に指を立てた。
「これは物語のラストシーンよ。ヒロインの恋が成就したの。これでその話はおしまい。そろそろ私も、現実の恋を探すとするわ」
委員長の家まではひとっ飛びだった。
高級住宅街にある戸建ての住宅で、駐車スペースには黒塗りの高級外車が置いてある。インターホンの前に立つと、委員長は髪を直してから深呼吸した。
「いざとなると緊張するものね。自分の家じゃないみたい」
「本当に、あの世界に戻るつもりなのか? 嫌なら俺だけも構わないぜ」
「大丈夫よ。私だってもう世間知らずのお嬢様じゃないわ。これでも【勇者】に一番近い女って呼ばれてたのよ。里帰りは二時間だけ……わかってるわね。くじら公園で集合よ。佐野クンこそ遅れないでね」
「わかった。わかってるよ」
委員長がいなくなると、俺はひとりになった。
俺の家は委員長みたいな金持ちじゃない。両親は共働きだし、住んでいるのも階段しかない古い公団住宅だ。
ペンキの塗られた鉄のドアに、ボタンの部分が固くなった呼び鈴。カメラもインターホンもない。でもそこは確かに俺が17年間、暮らしていた懐かしい我が家だった。
とりあえず勢いで来てしまったが、誰もいなかったらどうしよう。
まあ、その時はその時だ。委員長がいればいつでも戻れる。また、出直せばいい。
覚悟を決めて呼び鈴を押そうとした……その時だった。
バン!
突然、内側から勢いよくドアが開いた。
う、うおっと。
俺は不意を突かれて尻もちをついた。見上げる視線の先に妹がいる。
「えっ? もしかして。お、お兄ちゃん!」
「や、やあ……」
「どうしたの、理香。そこに誰かいるの? お客さんだったら断って。これからお兄ちゃんのことで、警察に行くんだから……」
部屋の奥から母さんの声がする。
ああ、そうか。そろそろ先に送還した連中が、家に帰った頃だ。
行方不明者の家族に警察から呼び出しがかかったんだろう。それで、あわてて外に出ようとした妹と鉢合わせした。つまり、そういうことだ。
「どうして連絡してくれなかったの?」
「ごめん。通話機能がロックされてて……でも、もう大丈夫だ。悪い奴らは、こらしめてやったから。これからは通話もメールもできる」
「何よそれ。意味わかんない。どうせウソなら、もっとちゃんとしたウソをついてよ」
「別にウソじゃないんだけどな」
俺はポリポリと頭をかいた。
そこに妹が、体当たりするように抱きついてくる。
「まあいいわ……お帰りなさい。お兄ちゃん」
第二部 王国の野望編 【 完 】
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