水族館になりたい

入間しゅか

水族館になりたい

 曇り空が好きだった。彼女と会った日も曇っていたから。私は毎朝散歩する。朝が一番季節を感じられて好きだ。いつも同じ道を歩く。十分ほど歩いたところにある公園まで行って引き返す。十月の空気は透明。風は白い。空には羊雲が浮かんでいた。

 空き地のフェンスに朝顔の蔦が絡まり、花が疎らに咲いていた。あまりに可愛らしいお花だったから、思わずスマートフォンで写真を撮った。上手に撮れなかったけれど、Twitterに投稿した。すぐにいいねが何件かついた。私はスマートフォンをバッグに戻してまた歩き出す。


 昨日、私は仕事を辞めた。主治医から療養するように言われて、療養するくらいなら辞めてしまおうと決めた。障がい者雇用だったので、給料はそれほど望めるものではなかった。だから、あまり未練はなかった。

 高校三年の時に抑うつ症状が出るようになり、まともに学校へ行けなくなった。外出すると動悸がして、最悪過呼吸になった。原因はなんだったのだろう。交友関係は良好だった。いじめられていたわけでもなく、当時恋愛らしい恋愛もしていなかった。ただわけも分からず外に出ることが出来なくなった。

 何とか高校卒業はできたものの、大学進学はできず、ひきこもりになった。

 母の勧めで心療内科に通うことになった。母が送り迎えをしてくれた。

 主治医は優しげな初老の女性だった。初めのうちは主治医に何を話せばいいのかわからずに、わけも分からず泣いてばかりいた。そんな私に主治医は静かに微笑んで「ゆっくりでいいからね」とだけ言った。

 二ヶ月泣きはらした後、私は主治医に「死にたい」と告げた。どうしてそう思うのか私にもわからなかった。私は精神科に入院することになった。

 そして、彼女と出会った。その日は一日中今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。入院して一週間。私はほとんどの時間をロビーで過ごした。個室をあてがわれていたけれど、部屋にいるとどうしても泣いてしまうから、仕方なくロビーのソファーに座ってお茶を飲んでいた。

 誰とも話したくなかった。話しかけられると

 泣いてしまう気がした。だから、ロビーに人が集まり出すと私はそそくさと部屋に戻った。それでも、話しかけられることが何度かあって、その度にあいまいに笑って相槌を打つだけにした。

 お茶を飲み終えて、部屋に戻ろうとした時、後ろから「あの、」と誰かにに声をかけられた。私はしまったと思った。気づかないふりをして立ち去ることも出来たけれど、私は振り返った。痩せた背の高い女性が私の後ろに立っていた。彼女は美しかった。すらっとした手足。色素の薄い肌。茶色い瞳。薄いガラス細工のようにきらめいて、それでいて触れると壊れてしまいそうに見えた。私は見とれてしまった。彼女は眉をゆがめて「ごめんなさい、いきなり話しかけて」と言った。私は慌てて両手を振って「大丈夫……です」と答えた。

 彼女はあゆみと名乗った。苗字も教えてもらったはずなのに思い出せない。あゆみは同い年の大学生だった。あんなに人と話すことさけていたのに、不思議とあゆみとは何事もなく話すことができた。あゆみは入院してきたばかりで、人恋しさに歳の近そうな私に声をかけたのだと言った。私たちはたくさん話した。あの時、何を話したのか思い出せないけれど、たわいの無いことだったと思う。お互いの趣味や、好きな歌手だとか、そういった内容だった。

 私はあゆみと話しながら、人と話すことは楽しかったんだとしみじみ思い出していた。高校時代の友達との何気ない会話の端々が脳裏にチラつき切なくなった。でも、泣かなかった。泣いたらあゆみと二度と話せなくなる気がした。

 夜になっても私たちは話していた。看護師さんに寝るようにと注意されてもロビーで話し続けた。山奥の病院は星がよく見えた。あゆみはこんなにたくさんの星を見るのは初めてだとはしゃいだ。私はかわいいなぁと思って思わず笑った。

「ねえ、ゆきちゃん。私ね、水族館になりたいの」星空を見上げながら、あゆみは突拍子のないことを言った。消灯したけれど、ナースステーションの灯りのおかげで暗くてもお互いの顔がはっきりと見えた。あゆみの長いまつ毛に私は見とれていた。

「え?どういうこと?水族館になるの?」

「うん、水族館になる」とあゆみは力強く答えた。

「どうやって?」

「わかんない」あゆみは笑った。私も一緒になって笑った。

「水族館と言っても深海の生き物を集めたいの。館内はずっと薄暗くて夜みたいで。そういう水族館に私はなりたい」

「なんかよくわかんないけどあゆみちゃんが水族館になるなら、私は飼育員になるよ」

「やった!」あゆみは小さくガッツポーズをした。私はあゆみが言っていることを理解出来ていなかった。けれど、彼女の仕草ひとつひとつから会話を楽しんでいることが伝わり、嬉しかった。私も楽しかった。

「あ、流れ星」あゆみが空を指さして言った。私は彼女に見とれていて、流れ星を見ることができなかった。

「グッドなタイミング!水族館になれますようにってお願いした」と言ってあゆみは私の方に振り返り、微笑んだ。その時私はふと彼女はどうしてここに来たのだろうかと思った。けれど、訊いてはいけない気がして言わなかった。


 閉鎖病棟での日々は単調だった。私とあゆみは常に一緒にいた。二人きりでロビーの隅っこでお話ししていた。けれど、お互い何故入院したのか話すことはなかった。今日は調子が悪いとか薬が合ってない気がするとかそんな話はするのにもかかわらず。

「ねえ、ゆきちゃん。外出許可が降りたらどこに行きたい?」

「どこがいいかなぁ、とりあえずコンビニかファミレスがいいなぁ。病院食不味すぎ」

「わかるー。不味いっていうか味しないよね。でも、私は薬局行きたいな」

「薬局?どうして?」

「プチプラ買うの」

「プチプラいいね」と言いつつ私はメイクらしいメイクをしてこなかったなと思った。友達はしてたけど、私はあまり惹かれなかった。私はその事を素直にあゆみに話した。

「えー、もったいない。ゆきちゃん絶対メイクしたらもっとかわいくなるよ」

「そうかな」私は満更でもなく頬が熱くなるのを感じた。

 外出許可が降りたら二人で薬局に行く約束をした。薬局に行ってその帰りにファミレスでご飯を食べるプラン。

 しかし、計画は叶わなかった。あゆみが突然、退院したからだ。

 彼女は私に「ほんとにごめん」と言って折りたたまれた紙切れを渡して足早に去って行った。部屋で紙切れを広げると電話番号とLINEのIDだった。

 携帯を使える時間は限られている。予約制で一人三十分。携帯の時間、すぐにあゆみにLINEを送った。すぐに既読がついた。

「ちょっといろいろあっていきなり退院決まっちゃった。ゆきちゃんが退院したら絶対会おうね。メイク教えてあげる」

「ありがとう」とだけ返信した。あゆみは任意入院だったのだ。本人が退院したいと言えば、退院できてしまう。私は医療保護入院。外出の許可もまだ降りていない。彼女がなぜ急いで退院を選んだのか分からない。当然だが、あゆみに関して知らない一面がたくさんあるのだと思った。そう思っただけであゆみとの大きな隔たりを感じてしまった。


 あゆみがいなくなってから気づいたことがある。私は泣かなくなっていた。人に声をかけられることにも平気になっていた。私はもう退院しても平気なんじゃないかと思うようになっていた。そんな私の様子に主治医は外出許可を出してくれた。

 さっそく、私は外出した。近くの薬局へ。化粧品売り場をウロウロした。アイシャドウひとつとっても種類が多すぎて、何が自分に似合うのか検討もつかなかった。結局何も買わなかった。帰りにコンビニに寄っておにぎりを買った。味がある!それだけのことに感動した。でも、そう感じたのは最初だけで、散歩がてらにコンビニに行って何か食べるようになると格別美味しいものでもないなと思った。思えばこの時から散歩が好きになった気がする。同じ道を歩くのだが、日によって、時間によって、空気が違う、景色が違う、すれ違う人の年齢層が違う。そういったかすかな変化を見つけることが楽しかった。

 あゆみとはこまめに連絡を取り合っていた。彼女は大学生活を満喫しているらしかった。退院したら会おうと言っていつも会話は終わった。なんとなく私はあゆみと会うのが億劫に感じてきていた。もし退院がスムーズできたとして、私にはそこから先の道が何も決まっていなかった。また外に出ると体調崩すようになるのではないかと心配だった。それに就職活動をしていくだけの体力が自分にあるとは思えなかった。そんな不安からか、それとも少しの妬みからか、大学でいきいきとしているあゆみを想像すると、私は複雑な気持ちになった。彼女には彼女の生活を楽しんでもらいたいのに、素直には喜べなかった。


 十月。私は退院した。空は曇っていた。久しぶりに帰った実家はどこか狭く感じた。自室に入ると懐かしさで胸がいっぱいになった。たった四ヶ月家から離れて暮らしていただけなのに。

 両親はまだ退院したばかりだから、ゆっくり休みなさいと口を揃えて言った。それもそうだと思った。だから、退院して最初の一週間は何もせずにのんびり過ごした。毎朝散歩するようになったのはこの時からだ。

 あゆみと再会した。再会のはずなのに、入院中のパジャマ姿しかお互い知らなかったからはじめましての気持ちになった。あゆみは相変わらず痩せていたが、ブラウンのカーディガンに、黒のワイドパンツ姿で大人びて見えた。「かっこいいね」と私が言うと、少し照れながら「ありがとう」とあゆみは答えた。二人とも妙に緊張してぎこちないやり取りだった。

 約束通り薬局に行き、あゆみが私に合いそうなプチプラを選んでくれて、その後ファミレスに行った。

 退院前はあゆみに複雑な感情を持っていたが、会ってみると入院中の会話を思い出してやっぱりこの子といると楽しいと思った。

 ファミレスでたくさん話した。あゆみは学祭の準備で追われているらしかった。私はあゆみが退院してからの入院生活の話をした。これと言って面白いこともなかったのだが。

 私は今なら訊いてもいい気がした。

「ねえ、あゆみちゃんはどうして入院したの?」

「ああ、言ってなかったっけ?ODして運ばれたんだよ。ICUにいたらしいの。そこから精神科に移されて、最初のうちは暴れたり、看護師さんに暴言吐いたりして大変だったらしい。よく覚えててないんだけど。それで隔離室にいれられて、落ち着いてきて普通の病室に入れた。そのタイミングでゆきちゃんと会ったってわけよ」

「ICU!そんなにやばかったの!?」

「うん、やばかったらしい」

「何があったかのか訊いてもいい?」

「いやぁ、お恥ずかしい話なんだけど」と言って、あゆみは少し首を傾げて本当に恥ずかしそうにして小声で「失恋」と言った。

「失恋」と私も小声で言う。

「私、彼女がいたの。彼氏じゃなくて」

「うん」と頷いたものの、内心驚いていた。それを察してか「いや、いきなり彼女がいたって言われてもビビるよね」とあゆみは笑った。どこか憂いを帯びて見えた。

「私、バイ・セクシャルなの。まあ、それはいいとして、とにかく彼女がいてね。その彼女が他所に男作ってて、大喧嘩になったの。そしたら、彼女が死ね!っていうから、私も死んでやる!……でODしたのよね」

「すごい話だ…」

「アホでしょ?」と自嘲気味にあゆみは笑った。ううんと私は首を横に振る。

「だから、水族館になりたいの」

「ほう」

「水族館の特に大水槽になりたいの。大小色んな海の魚が一緒くたに住んでて見ててわくわくしない?あんな風にたくさんの生き物を包み込みたい。くだらない恋愛の悩みなんて忘れてさ。それにゆきちゃん飼育員なってくれるんでしょ?」

「うん!もちろん」


 あの日ファミレスで会ったのを最後にあゆみと会うことはなかった。その翌日に「海を見に行く」とLINEが来て、十月なのに海?と疑問に思ったが、「行ってらっしゃい」とだけ返信をした。そして、彼女は消えた。LINEの返信はなく、通話も出ない。SNSの更新はなくなった。彼女の家族の連絡先なんて知らなかったから、彼女がどうなったのか私には確認のしようがなかった。あの時、どうして海に行くの?と訊くべきだったのかもしれない。それは今となってはわからない。


 それから五年。就労移行支援を利用して、何とか入社した会社を三年勤めて昨日辞めた。寛解していた鬱が再発して、仕事を続けられる状態じゃなかった。また入院するかもしれない。

 今にも雨が降りそうな曇り空。ふとあゆみは水族館になれたんじゃないかと思った。もちろん、根拠はない。空を見上げる。分厚い雲。「あゆみちゃん、私あれからメイクが好きになったんだよ」と心の中で語りかける。

 病棟で話しかけてきたのは歳が近そうだったんじゃなくて、単なるナンパだったのかな。なんの脈絡もなくそんなことを思った。

 さっき撮った朝顔の写真に十件のいいね。私はTwitterに「海を見に行く」と投稿する。スマートフォンをバックに戻すと家とは反対方向に歩き出す。彼女に会いに行くために。


 おわり。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水族館になりたい 入間しゅか @illmachika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ