君は笑わない/私は戻れない

 訳もなく外に飛び出して歩き始めるのが悪癖であるのは重々承知の上で、それでも結局冷えた大気に風呂上がりの髪を晒しながら靴越しにアスファルトを踏んでいる。

 普段よりも数倍出鱈目に歩いている。だからと言って、ふと耳を伝ったラヴ・ソングに感化されて泣いたわけではない。運命なんてない、なんてフレーズに心を痛めてもいない。有り体な恋の歌に振り回される私じゃないなんて、そんなふうに強がったわけでもない。ただの気紛れだ。充電もろくにしていない携帯を握りしめて歩いているのも、目の下の隈がいつもより酷いのも、全部全部気の所為だ。五線譜をピアノが跳ねている。誠に、メロディ・ラインが華麗に琴線を撫でては左耳から抜けていく。

 溶け落ちた強がりに、使い損ねた砂糖を混ぜ込んで焼き上げて、この気持ちだった何かはそのまま腐るまで放っておかれるのだろう。ボタンを押したら、すぐに信号は変わった。それすら皮肉に感じてしまった。けたたましくサイレンが鳴り響いている。

 知っている道から知らない道へ、気が付いたら知っている道へ戻っている。そのうち脇道に逸れるのも面倒になって、二車線道路の脇の歩道を歩き始めた。人生で最も無益で、最も贅沢な時間。心の棘が落ちていく。それが自分のものかそうでないのか、今の私は判断を下したくないらしい。黒猫がふと目の前を通り過ぎ、こちらをちらと見、興味もなさそうにまた用水路へと消えた。

 あれほど長かった昼もぐっと短くなったこの時期に見る月は綺麗である。とは言えど、誰かにそう言う訳でない。今は明瞭に見える兎からすら見下される心地である。何もかもの下にいる私は、また肩を小さく窄めている。センチメンタルな私の向かう先は家か、はたまた山奥か。

 ふと、携帯を見やって、連絡先を辿る。一人の履歴に辿り着いた。身軽な今なら、と考えた。けれど、やめた。浮かべた笑みを脳内からかき出した。違う。君はそんなふうに笑わない。救世主なり得た君の手を振り払った私には、もう、そんな資格はない。赤い糸なんて、とっくのとうに私の方から切り払っている。……そもそも、アイツと同じに成り下がってしまうことほど、今の私に苦痛たることはない。裏切者は、桃源郷には要らない。

 夜半、冷えた珈琲を買って飲み干した。日はまだ昇らない。幸い、明日は休日だ。気の済むまでこうしていよう。そんなことを思った。今頬を涙を伝ったのは、紛れもなくドライアイのせいである。

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