第25話 決着

『——消えゆく私を、どうか忘れないでいてください』



 めちゃくちゃだ。


 約束というものは双方の合意があってのものだ。それなのに、キサラギの言葉には一方的な押し付けだけがある。ずるいじゃないか、とハルヒトは思う。これでは彼女の約束を守らないわけにはいかないし、なによりも彼女のことを忘れることなんてできるわけもない。


 だって好きだったんだ。


 君に見合うような男になりたかった。


 それでも、自分の手の届かないところに君の背中はあった。


 そうして、もう二度と手の届かないところに君は行ってしまった。


 肥大していくやるせない気持ちは今の勝負に注がれている。少女がキサラギであることはまさか認めていないけど、この世に残されたキサラギの影をそれでもハルヒトはまるで希望にでもすがるように少女の中に見出している。もう二度と訪れないと思っていたキサラギの背中に再び追いつくチャンスをひたすらに追いかけている。


 少女は言った。


 あなたを愛しています、と。


 一大決心の必要な台詞をいともたやすく言ってしまえる少女はどのような気持ちをこの勝負に賭けているのだろう。彼女はおそらく人類を滅ぼそうとした観測者で、それにも関わらず人からの愛を求めていることはどこかひどく滑稽じみているように感じるし、それでも一言ではとても説明のできない心境の変化はどこかとても人間らしいことのようにも思う。ハルヒトがこの勝負に負けてしまえば、きっと少女の気持ちを少なからず知ることになるのだと思う。それこそ少女の狙いの最重要項目であり、しかしそのような機会はこれから訪れることはない。


 ハルヒトは東北東地区へとたどり着く。


 植物再生プロジェクトが五十年も前から進行している東北東地区では、エリアごとに区切りされている針葉樹林、食用植物、そして観葉植物などが幅広いスペースを使って栽培されている。そして遺伝子操作によって生まれたかつての美麗な見た目を再現された多くの花の植えられている、いわゆる華やかな花園エリアが最も都市の人間からはたくさんの好評を得ている。


 その花園エリアに大きな影がある。


 八脚型のNoahで、スパイダーと呼ばれる型だ。


 蹂躙でもするかのように上下するスパイダーの八脚は、地をえぐる衝撃により色とりどりの花弁を周囲に散らしてなお止まらず、ゆるい竜巻に煽られた軌道の花弁はその色層ごとに細分化された地上に生まれた虹のようにも見える。景色に目を奪われるとは、まさにこういうことなのかとハルヒトは思う。そして吸い込まれるような足取りで、一歩、また一歩と花弁の嵐の中心にいる八脚型のスパイダーの元へと近づいていく。


 すでに右腕を消失している右の肩からは、ハルヒトの足跡に続いて致死量寸前の血玉を落とす。そのおびただしい量の血痕をここまでの目印としたのか、驚いているのか、それとも悔しがっているのか、もしくは心配しているのかもわからない複雑な表情をした少女がハルヒトの背中の見える距離に追いついた。

 ハルヒトは振り向かない。

 振り向くことなく、淡々とした動作で銃型デバイスを構える。


 ——やっと君を、追い越せた。


 銃型デバイスの銃口からハッキングのための有線が射出される。


 接続。


 プログラム内に機能停止ウイルスをばら撒かれたスパイダーは、その動きをぴたりと止めてからほどなくしてその身を跡形もなく木っ端微塵に爆ぜさせた。爆風に乗せられて周囲に拡散された花弁はまるでハルヒトの勝利を祝しているようであり、ハルヒトは祝福の花弁を体の一身に受けながらぐらりと崩れ落ちるように仰向けに倒れていく。



 視線の先には少女がいた。


 呆けていた顔を一転、まるで何かを決意したかのような顔を少女は白い髪の隙間に覗かせる。


 ……自然治癒……移譲……助かる……


 ハルヒトの首元に端子の外装を外した有線が注射針のように突き刺さる。ハルヒトは途切れ途切れに聞こえてくる単語を耳に流して、少女の行為をただ静観していることしかできない。自分には今までになかったものが、自分の中に流れ込んでくる感覚があった。そうすると、かすんでいた視界も遠くなっていく聴覚も、徐々にその感覚を取り戻し始めて目の先の少女の顔をはっきりとさせる。気づくと少女の未成熟な太ももに後ろ頭は乗せられていて、少女の視線が降り注ぐような形でハルヒトの視線と絡み合う。


 ハルヒトが勝負に勝てば、自分のことを好きにしていいと少女は言った。


 俺は彼女をどうしたいのだろう?


 ハルヒトは定まらない結論をなんとかして形にしようと思考を巡らせる。


 都市は少女によって混乱の渦へと叩き込まれた。死んだ人もいる。それだけでもNoahと同じように大義名分のもとに彼女を排除することは市民として当然のことであり、しかし彼女の中には今までに都市の防衛のために働いてきたキサラギの記憶が混在している。


 それはキサラギの魂とも呼べるものが、まだこの世に存在しているということではないのか。


 キサラギの残滓はまだ残っている。


 それを少女の元の人格が塗りつぶしているだけなのだ。


 であれば、記憶ごと少女の存在を消し去ってしまえば、キサラギは元に戻るのではないか。



 ふと視線の先に意識を戻す。



 目の先の少女は、自分を消すための算段を立てている男にただ黙って視線を向けていた。


 これがまるで今生における最後の景色であるように、死の淵を悟った良妻が最後に夫の寝姿を目に焼きつけるように。キサラギらしからぬ長台詞を吐いていた唇は何かを言いたげにわずかにだけ開けられていた。ハルヒトは思うのだ。自分のことを愛していると言う少女の目的は、ハルヒトのことを愛したいという一心ではなくて、その先にあるさらなる目的のための手段ではないのかと。


 そのことにもしかしたら少女自身も気づいていないのかもしれない。


 だからハルヒトは思わずぽつりと溢してしまった。


「君は、人になりたかったんだね」


 少女の表情はわずかな動揺から、ああそうだったのかという納得の表情に変わる。


 どうしてこんなにも簡単なことがわからなかったのだろう、そんな表情だった。


 しかし気づいたところで少女の願いは叶うわけもない。


 少女の願いは、自分の存在意義を認めてもらうことに他ならない。だからこそ、少女の取った手段は「愛」という概念にすがるもので、しかし根本的な部分からのずれが少女の周囲に敵ばかりを作ることになった。都市に来るまでの少女がどのような考えを持って今までにどのような行動を起こしてきたのかを、ハルヒトは知っているわけもないしこれからもそれを知ることは知ることはないのだと思う。だけどもう関係ない。


 ハルヒトは決意した。


 これはキサラギを救うためのチャンスである。


 少女の存在をこの世から跡形もなく消し去ってしまい、そして残されたキサラギの記憶を汲み上げることでもう一度キサラギと会うことを可能とする。


 ハルヒトは少女の太ももから頭を離して、おもむろに上半身を起こして少女に告げる。


「君の記憶を消去する。そして本当のキサラギを取り戻すよ」


 地鳴りが聞こえる。


 いつの間にかクリーム色の消え去った紫の毒は、まったく先の景色を見せてはくれない。しかしこの地鳴りが示している事象はおそらくたった一つしか存在していない。幻想都市セイレンをぐるりと囲んでいる隔壁が、見えはしないけれど徐々に上がり始めているのだろう。一時間もしないうちに隔壁は上がるように設定されていると、少女の言っていたことにはなにも嘘いつわりはなかったのだ。


 いつしか地鳴りも止んだ。


 そして青の清赦が始まった。都市内を埋め尽くしている紫の毒は雪のようにしんしんと舞い降りてくる青の結晶に溶かされていく。神話の世界もかくやという青と紫の狭間の世界。少女がそれを背景としながら片膝立ちのハルヒトに目を向けて、口元に装着されていた呼吸補助器を何気ない動作で取り外して、呼吸補助器の裏に隠れていた沈痛な面持ちはまるで毒の影響など微塵も恐怖していないように思えた。


 それから少女は微笑んだ。


 すべてを悟ったような微笑みだった。


「私はキサラギにはなれなかったんですね」


 ハルヒトはなにも言えなかった。


 かけるべき言葉が見つからなかった。


 とにかく動こう。


 ハルヒトは唇を結んだ無言のままにその場ですくりと立ち上がる。少女の記憶を消すための措置を取るためには、モミジの二の舞になるかもしれないから、今からハルヒト個人で行うわけにもいかない。なので、ターミナルへと少女を連行するためにも、彼女の腕をとるために腕を伸ばしたハルヒトは、そういえばすでに自分の右腕はとっくに失われていることに気づく。自分はまず間違いなく死の直前までその片足を泥沼のように突っ込んでいたはずなのに、それを目の前の少女こそが救ってくれたことはどうしようもなく紛れもない事実であると思い出す。


 助けられたのは、これで二度目だった。


 モミジの暴走にあてられたニッコウが、混乱するハルヒトに向けて、殺意のワイヤーブレードを突き出した時、少女がその身を顧みることもなくさらしてハルヒトはそのおかげで九死に一生を得たのである。それが一度目で、今回が二度目だ。どのような方法を用いたのかは知らないが、それでもこうしてハルヒトが呼吸をしながら、以前と変わらずに体を動かすことができているのは、やっぱりの彼女のおかげだ。


 失っていない左腕を差し出したハルヒトは、


「助けてくれてありがとう」


 少女はこの言葉を聞いた時に明らかに表情を変えようとしていた。


 しかし、最後までその変化を見届けることはできなかった。


 

 少女が脳髄を撃ち抜かれた。

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