第24話 Noahの殲滅戦
言葉を交わすこともなく、ハルヒトは少女と背中合わせに駆けだした。
体内で身体能力強化に費やしたナノマシンの活動をフル活用、跳躍、瞬間に手首に巻かれているホルダーから家屋の屋根に向かってワイヤーを射出する。体に引っ張られるような感覚を覚えてすぐにハルヒトはミツルギの要請を受けてやってきた数人の乗っている屋根に着地する。彼らは、路地裏にいる少女を捕まえる隙をうかがい、しかしハルヒトの言葉により今は待機している状態で、都市の中央南地区に足を運ぶハルヒトには目線をくれるだけでさっさと路地裏へと消えていく。下手に少女に手を出せば二度と隔壁は上がらないと伝えているからだろう。——ここから一番近い位置にいるNoahの場所は中央南地区であり、次に近い位置にいるNoahの場所は中央の北区だ。ゲンブのサーモグラフィとエコーロケーションは正常に稼働しているからこれに間違いなく、つまり少女が目指しているのは二番目に近いNoahの位置ということになる。
まずこの時点でハルヒトの予想は外れていた。
初めは中央南地区にいるNoahの破壊の争奪戦になると予想していた。というのも脳処理でのハッキングでの速度はまず間違いなくあの少女のほうが早く、そうであればハルヒトの獲物を逐一奪い取るほうが勝負としては有利に運ぶはずである。しかしそれをしないということがハルヒトに対しての余裕だとか、本当のところは勝敗になどこだわりがないということでもない。現在の都市にいるNoahの数は七。そしてその配置には多少のばらつきはあるものの、それでも一体目のいる方角が南北に別れているというだけで、順繰りにNoahを撃破していくのであれば四体目に行き着くNoahは結局は同じ東北東地区になる。ここに至るまでの距離はほぼ同じであれば、つまるところで、四体目のNoahにたどり着く早さこそが勝敗の行方を分ける。
競争だ。
頻繁にせわしなく動き回るターゲットを破壊して回り、かつ移動の速度を緩めることなく東北東地区を目指し、そして侵入したNoahの過半数である四体目をこの手で屠ることこそが勝利条件。空へと背中のブースターにより浮上するゲンブの肩を蹴り、ハルヒトは形状記憶素材のコートを上空五十メートルで翻して固定、得られた推進力を空気抵抗により操ることであっという間に一体目のNoahのいる上空にたどり着く。
型は二脚型の「モンキー」、非常に機動性が高く、たわめられた背中が特徴的な小型のNoahだ。しかし、その機動性は更地である隔壁外では発揮できずに、二脚型のモンキーはC班の中では比較的に狩りの簡単なカモとしての扱いを受けている。けれども建造物の多くある都市の中ではまさに水を得た魚のように——いや、まさに登るための木を得た猿のようにかなり複雑な立体機動をみせている。
そのモンキーが電柱を支えとしてから飛び込んだ先はドーム状の施設だ。ここは確かナノマテリアルによる擬似映像に合わせて、音響設備も利用して今は無き白い砂浜と青い海を限りなく精巧に再現する娯楽施設だったはずだ。小型とはいえ一応はNoahであるモンキーの強力な脚力により易々と蹴破られたドームの壁へとハルヒトは侵入し、ついに目視のできる距離にまでモンキーを追いつめる。人工的に植えられたヤシの木のその上で、こちらの存在に気づいたモンキーは威嚇のつもりか小刻みに二回跳んで機械音声を漏らし、その後、人の足跡だけが残る砂浜に降り立ってから脚よりも太いのではないかという両の腕を使いながら逃げ去っていく。
逃がすか。
ハルヒトは微粒な砂をまき散らして着地する。その間に悪事のバレたひったくり犯のように背を遠のけるモンキーに、ハルヒトはコートによる飛翔はおろか、歩いては沈む砂に足をとられてまともに走ることもできないので到底追いつくことはできない。この距離であれば銃型デバイスの有線だってまったく届きやしない。ということはつまり、この距離のままにモンキーを倒すことはまったく不可能ということになるが、余裕をみせつけるように後ろを向いて今にもあっかんべえをしそうなモンキーの前方の風景が破壊され——ナノマテリアルにより奥行きを演出していた壁の向こう側から、背中のブースターを噴出しながら現れたゲンブがモンキーを巻き込みながらハルヒトのほうへと近づいてくる。
追いつく必要など元からなかった。
なぜなら相手のほうから勝手にこちらのほうへと近づいてくるのだから。
腰のホルダーから抜き出した銃型デバイスを構え、射程距離に入り込んできたモンキーに向かって自爆機能を起動させるための有線を射出。接続。五秒が経過。ハッキングの終了とともに爆ぜるモンキーは、緑のヤシの木の葉と塩分濃度を高めた淡水の水面を揺らし、その残骸を砂浜にまき散らす爆発から逃れたゲンブはすでにハルヒトの目の前にいる。ハルヒトはゲンブの体を伝うことで嫌でも足にまとわりつく砂浜から逃れ、距離感の掴みづらい快晴の空を映した天井に手首のホルダーから射出したワイヤーを食い込ませ、モンキーの蹴破った青空の穴からハルヒトはワイヤーを縮ませることで脱出した。
一体目を倒した。
まるで羊を操る牧羊犬のように自分を利用して、そして追い込んだ先にゲンブを配置するという追い込み戦法だった。特にぐだつくことのない理想の一手であったと思う。
しかし駄目だった。
次に狙うべきNoahの動向を探ろうとしたゲンブは、同時に勝負相手である少女の周囲の状況でさえも探ってしまった。
少女はすでに一体目を処理し終えていた。
——届いていない。
間違っていた。
ハルヒトが役を全うするべきはお利口さんに甘んじて獲物を追い込む牧羊犬などではなくて、獲物を捕らえるための貪欲さとずる賢さを併せ持つ牙の鋭いオオカミだったのだ。
思わずぎりりと歯噛みするハルヒトはその時間も惜しく感じて次のNoahのいる場所を目指す。コートを翻して一つの黒翼を作り出し、柔らかな黄色の混じった毒の空を切り裂いて、そして下界を見下ろすハルヒトの目に映ったものはレールの上を風のように疾走しているリニアトレインだった。
ターミナルへと都市にいる避難民を導くことがリニアトレインの役割で、それが稼働しているということはあの中には心の内に不安を抱えた多くの避難民が乗っていることになる。このままでいけば彼らはターミナルに直行して命が救われるが、しかしハルヒトはリニアトレインの進むその先にはハルヒトの次の撃破対象である六脚型「マンティス」がいることを知っている。ハルヒトは焦っている。少女の言っていた言葉を信用するのであれば、都市にいるNoahはむやみやたらに都市への被害は出さないらしい。しかしそれでもリニアトレインのほうからNoahに突っ込んでいく場合には、少女の言葉の責任も起用の対象外となるはずだ。
「くっ!」
ゲンブは建物の合間を縫うようにハルヒトの下のほうを移動している。そしてリニアトレインの走るレールはゲンブからしてみればかなり高い位置にあり、しかも移動速度を比べてみれば勝者はリニアトレインに決まっていた。つまりはゲンブの力を借りるには位置取りが悪く、現状のリニアトレインを止める手段、もしくはリニアトレインの到達する前にNoahを撃破する方法はハルヒトの単体で行う必要がある。
考えている時間は、もはや無いに等しかった。
ハルヒトはマンティスのいるレールの位置にワイヤーを射出してその場に移動をする。この位置取りは丁度カーブの激しい所に当たるから、なるほど、レールの側壁に隠れたマンティスはリニアトレイン側の視界では発見しづらいだろう。しかしそれを考えたからこその位置取りをマンティスはまんまと取っているわけでもないだろうし、おそらくはレールに設置されている電極に導かれるようにしてのこのことやってきたのだろうと思う。
あと二十秒。
リニアトレインの速度から算出したこの場所にこれからリニアトレインがやってくる時間だ。
マンティスはすでにこちらに気づいている。
振り上げられているのはまるで死神を想起させる二挺の鎌。
死の暴風を伴いながら横なぎに振るわれるそれらを、ハルヒトはうつ伏せになることでぎりぎりに回避する。背中を通り過ぎていく暴風がはらりと数本の髪を流していく中にハルヒトは、腕立て伏せの要領で素早く身を起こした後に脳処理ハッキングの隙をナノマシンでの迅速な未来演算と併用してうかがう。が、隙を作り出すために必要なものはなにか大きなアクションであるから、限られた時間を気にしながらもハルヒトは周囲から見れば無謀な特攻にしか見えない走りを見せる。ふくろはぎ付近のホルダーから抜き取られた熱振動ナイフをその手に持ち、風にはためくコートの端をつまみながら第二刃として迫りくる左右の鎌に対応、しかし中空で芸術点を狙うように身を翻して見事に左からの刃を回避したハルヒトであったが、生身でそれを受ければなます切りは免れることのできないもう一方の刃には避ける気配が見受けられない。
リスクを負え。
恐れるな。
そうして最後に立っているのは——、
ハルヒトは感覚的ともいえる行動を起こした。
旋転する体に合わせて小型の気球のように空気を孕んだ黒のコートは、それこそ気球のように宙で滞空しながらハルヒトの体ほどの大きさの鎌を側面に迎える。触れる。その瞬間になって形状記憶素材のコートに微弱電流を流したハルヒトは、途端に硬質化を果たしたコートが刃を滑るのを利用してマンティスの逆三角形の頭部と同位置にまで上昇して接近する。ハルヒトの左手に握られている銃型デバイスの銃口は、しっかりとマンティスの首筋の隙間を捉えた。吐きだされる有線は間違いなくマンティスに接続されたがしかし、ハルヒトは機能停止ウイルスをばらまく暇もなくせわしなく動かされる六脚により側壁に叩きつけられる。
意識がぐらつく。
吐きだされた空気を取り戻すように、呼吸補助器の内側で浅い呼吸を繰り返す。
マンティスの逆三角形の頭部が、まっすぐに横の線を引いたかと思うとそのまま口を開けるように上下に割れる。
小型のミサイルが暗闇のその奥に覗く。
有線の接続は、——外れている。
これでは即効性の機能停止ウイルスをマンティスの内側に適用することはできない。リニアトレインがこの場所に到達するまでの時間はすで七秒を下回っている。マンティスの口内にあるミサイルが発射するまでにはすでに一秒もない。
なめるなよ、とハルヒトは獰猛な内なる心を吐きだした。
感情抑制に努めていたナノマシンがちゃんと仕事を果たしていない。
——違う。
抑制するための感情がその許容をオーバーし始めている。
しかしそのことにハルヒトは気づいていない。
マンティスのミサイルが発射さ
爆発した。
九死に一生を得るための神の加護が発動したわけではない。
何の前振りもないままに誤作動を起こして急にミサイルが誤爆したわけではない。
ハルヒトの手元に握られていたはずの熱振動ナイフが、マンティスの頭部をミサイルごと貫いていたのだ。ハルヒトがマンティスの接近する六本の脚に吹き飛ばされたその時、ぽろりとリニアトレインのレール上にこぼれ落ちたナイフは、とっさの本能とも呼べるワイヤーの射出により拾われてそのままハルヒトの手元に戻ってくるかと思いきや、ハルヒトはそれを力の限りに蹴り飛ばしてマンティスの頭部に命中させた。鋭くハルヒトの瞳が、頭部の内部構造をさらけ出したマンティスのほうへと向けられる。と同時にひび割れている側壁を足場としてハルヒトがばね仕掛けのように跳びかかる。
有線を接続。
リニアトレインがこの場所に辿り着くまでに五秒、——ハルヒトのハッキングを完遂するまでの時間もまた五秒だ。ハッキングによりマンティスにどのような指示を送ろうが、これではマンティスが自爆するにしてもレール外に移動するにしてもリニアトレインを救う手立てはない。自爆させたのであればリニアトレインがその被害を受けるし、移動させたのであればマンティスがアクションを起こす前にリニアトレイン激突される。
しかし話は単純明快だ。
要は、五秒よりも早くハルヒトのハッキングを終わらせてしまえばいい。
——できるか?
自分の心に問いかける言葉にすぐさま自分の心の奥底が答えを返す。
——やらなければならないのだ。
——でなければ人が死ぬぞ。
マンティスに流し込んだ即効性の機能停止ウイルスを作用させるよりも早く、マンティスの迷宮のど真ん中のようなプログラムの経路をハルヒトは体中のナノマシンにより高めた脳処理速度で走り抜ける。幾度となく繰り返されてきたハッキングのシミュレーション、まず一つに一定速度以上の進行速度を保ち、そして次に大事となるのは偽装機能の見分け方で、あとは重ねてきた経験がハッキング速度にものをいう。それでも何事にも限界というものはあって、ハルヒトはその限界を極めたという自負もあった。そして今超えるべきはハルヒトの極めたと思っている限界だ。頼るべきは今までの経験と自分の感覚。偽装機能を見分けるための選別眼を無意識に頼り、ただプログラム内での進行速度を高めることに意識を注力する。
四秒。
ハッキングを完遂するための時間目標だ。
正確な時間を計ることが今のハルヒトにはできない。
その目標の達成を知ることができるのは、リニアトレインの乗員たちないし、ハルヒトの生存という結果でのみ速達できる。
視界不良の毒の霧、レール上での電極可動音、リニアトレインから放たれる思わず目を閉じてしまうような眩しいぐらいの前照灯、それらを跡形もなく吹き飛ばしてしまうぐらいの雷鳴にも似たハルヒトの声は、Noahの可動機能に干渉することでハルヒトが下した指令そのものだった。
「——高く、高く跳べ‼」
マンティスの六脚の節が予備動作として尽く沈む。
と、ミサイルの爆発により半壊状態になったマンティスの首元に、ハルヒトはしがみつくと同時に地面に叩きつけようとする下へと引っ張る強い重力に身を晒す。先ほどとは対照的にピンとのばされた六脚の内の一脚に、リニアトレインは車両の一部をぶつけてしかしそのまま何が起こったのかも知らぬままに走り去る。景色を置き去りにして遥か空高くへと舞い上がるマンティスは、次なるハルヒトのハッキングにより自爆機能を起動させられる。マンティスを足場としていたハルヒトが、足場を踏み壊すぐらいの勢いでマンティスから距離を離す。が、黒煙の入り混じる半径十メートルほどの爆発は、恐ろしいほどの爆風を生み出してハルヒトを錐もみ状態で吹き飛ばす。
すぐさま指令を飛ばす。
相棒機のゲンブを呼んだ。
背中のブースターを噴射しながらこちらに近づいてくる。
ハッキングの速度を上げるために一時的に脳波接続を切断していたが、すぐさまゲンブとの接続を復旧して、その時にゲンブの持っている情報を引き出した。それはマンティスとの戦闘から次の目標の位置情報がどのように変化しているかで、元々この場所からそう遠くはない場所にいたし、だから痛む体を粉にするように動けば、すぐにでも次のNoahに出会うことができるだろう。
そう思っていた。
そう思っていたのだが、まったくその必要はなくなった。
こちらに近づいてくるゲンブの他に、別の高速接近反応が一つある。
Noahだ。
四脚型のウルフで、肩口のバルカン砲を露出して、建物を足場にしてジグザグな軌跡を描き一気に空高く上昇しての接近だった。自分のこれからの脅威を敏感に感じ取ったのかもしれないし、もしかしたら仲間がやられたことに怒っているのかもしれない。何はともあれ宙に錐もみ状態で投げ出されているハルヒトでは、カラスの翼のように硬質化させたコートはまるでコントロールがきかないし、もしもこのままバルカン砲の斉射が始まればまず間違いなくハルヒトの体はハチの巣状態だ。
ハルヒトは冷や汗をかく。
ぐるぐるとした視界の中に、殺意の銃口が映り込んだ。
くる。
破裂するような音よりも、ずっと速く飛んできた無数の銃弾は、寸分たがわずにハルヒトに狙いを定めている。受け身のハルヒトと視認不可の銃弾のその隙間、背中のブースターで加速していたゲンブが両腕を交差しながら滑り込んで、僅かな時間でも空中で静止するために足のブースターを進行方向に噴き出して、コンマ数秒後にハルヒトの受けるはずだった銃弾をその身でゲンブが赤い火花を散らしながら受ける。
間に合った、とひとまずハルヒトは安堵する。
もんどりを打っている体勢をやっとのことで持ち直した。
反撃の狼煙はしかしまだ上がっていない。
バルカン砲の銃身をいったん引っ込めたウルフは、ゲンブに跳躍の勢いそのままに組みついた。うっとうしいと言わんばかりに繰り出されたゲンブの拳は、再びゲンブを足場として跳躍したウルフには虚しくも当たることなく空を切る。地に落ちようとして再び展開された背中のブースターは、頭上に翻るウルフに手の届く距離までは連れて行ってくれてない。ウルフが牙を剥き出しにして躍りかかろうとしている場所は、もちろん、左手に銃型デバイスを構えているハルヒトの元に決まっていた。
ハルヒトの未来演算は告げていた。
このままウルフに有線を接続するよりも、バルカン砲の銃弾がハルヒトを貫くほうが早いのだと。
離れるは愚か。
近づくは、——どうだ?
前へと推し進めてくれる黒のコートはいくらかの銃弾に穴を空けられる。空中で小さいながらも揺らいだ体は微調整を加えられながらウルフの元に辿り着く。ウルフはゼロ距離にいるハルヒトに対してはバルカン砲の銃身を向けられず、代わりに高速回転している口の中の牙をハルヒトの右の腕に食い込ませた。
はじけ飛ぶ肉片と血液。
しかし、ナノマシンにより痛みを脳内から排除しているハルヒトは、特に苦痛にあえぐこともなく食いつかれていないほうの手で握った銃型デバイスをウルフに向ける。確かに痛みはない。それでもナノマシンによる感情の抑制は、完全に縛りつける枷を外しているように思う。ハルヒトの口元は、われ知らずの内に吊り上げられていた。そうだ。お前のように、なんであろうとも食らいつく、噛みちぎる、そんな鋭い牙が俺には必要だった。
勝ちたかった。
キサラギに勝ちたかった。
自分が特別に負けず嫌いであるという自覚はなかった。
それでも負けたままでいることは、自分の心のなにかが許してくれなかった。
なにかってなんだろう?
ハルヒトはふと考えてみる。
そうしてみると、答えの行きつく先なんて勝ち負けのこだわりでなければたった一つしかない。
要は、キサラギに対してハルヒトは、いい格好をしたかったのだ。
なんて浅ましくも単純な思考だろう。
けれどもう、
ハルヒトの吊り上げられている口元に対して、その目元は一筋の涙を流しながら赤らんでいた。
悲しかった。
キサラギはもういない。
今さらになってその現実が嫌というほど襲いかかってきた。
思い出す。
自分をキサラギであると名乗る少女との、今の勝負に至るまでの会話の際中の出来事だ。ハルヒトがキサラギのほぼすべての記憶を持つ少女を、どうしてキサラギ本人であると認めなかったのかという理由は、あの少女に記憶を明け渡す前のキサラギがおそらく最後にツキカゲに残したであろうメッセージにあった。ツキカゲからゲンブに送信されたメッセージを、少女がちゃんと知っていたのかはわからないが、それでもわざわざ知っているのに見逃す理由もないと思う。
メッセージの始まりはなんとも唐突で、
『——約束をしましょう』
何事かと思った。
『私はどうにもタイミングを計るのが下手なようなので、突然のことになってしまい申し訳ないです。それでもこれだけは伝えたかった——』
ハルヒトはウルフに対するハッキングを開始した。灼熱の如き猛烈な勢いでプログラムの経路を駆け巡り、経路を立ち塞ぐ防壁のプロトコルを解析して突き破り、辿り着いた自爆機能を一切の躊躇いを打ち消して起動させる。ハルヒトが腕を食いちぎられた現実に意識を戻し、その目の前では今にも自爆を始めようとしているウルフの姿がある。そのウルフがハルヒトから引きはがされるように下方へと吸い込まれ、それは足元から上昇しているゲンブが自らのワイヤーでウルフを引っ張ったからで、そのままハルヒトに見下ろされる形でウルフは空に咲く花火のようにその身を散らす。
駆けた。
リニアトレインの過ぎ去った電極のレールを、電線を張り巡らせている高い電柱を、誰のものとも知れない家屋の屋根を、ハルヒトは力の限りに踏みしめながら段々と最後のNoahへの距離を縮めていった。叫びたいほどの悲痛を胸に蓄えて、張り裂けそうな胸を力いっぱいに抑えつけて、ハルヒトはキサラギの残した最後の言葉を頭の中で何度も繰り返す。
『——消えゆく私を、どうか忘れないでいてください』
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