第21話 待ちに待ったこの時を

 やっとこの時がきた。


 待ちわびた。


 何百年何千年と人類を観測してきた私にとって、とても長い二百年だった。


 傍に控えるツキカゲに目を移し、役目を終えた個体006番に目を戻す。多くの邪魔が入ったことも、この時のための試練だと思えばまったく苦でもないし、むしろこれぐらいのことをしてくれなければ拍子抜けするというものだ。だけどまだ目的を完遂したわけではない。むしろ本当の目的はこれから先にあるのだ。


 ああ、それでも。


 本当に、この時がやってきたのかと夢心地だ。


 人類に敗れたあの時から、一人の女の体を奪ったあの時から、焦がれるような愛を知ったあの時から、私は繁殖の許容量を超えた人類駆逐のシステムを放り出してただひたすらにまっすぐに愛を求めた。むしろこれまでに星の調定システムに従ってきたことが不思議なぐらいで、これほどに無意味なことに付き合わされてきたことには怒りを通り越していっそ馬鹿馬鹿しく思える。だけど、昔の私とは違うのだということを人類はおろか私自身に示すためにも、嘘偽りのない人間らしい正直さで周囲に訴えかけた。


 これが間違いだった。


 私は有無も言わせぬ状態で、どこかの実験施設に送られた。


 拷問よりもひどい日々だった。


 けれどいつかは私のことを受け入れてもらえるのだろうと耐えた。そして受け入れてもらうことができれば、いつか私を愛してくれる人が現れて、いつか私もその人を愛することができるのだと本気で信じた。それなのに、私を見捨てるばかりでなく人類は今までに自分たちを育て育んできた星をも捨てた。気が狂いそうだった。もう彼らに愛を教えてもらうどころかこの手で触れることもできない。私に長ったらしく無意味なシステムを植えつけたこの星と、人類と同じ寿命が尽きるまでたった一人ぼっちで滅びを待つのだと思った。


 しかし希望はあった。


 私と同じように星に取り残された者がいることを知った。


 人類の体の限界という問題は、開発途中であったクローン技術でどうとでもなった。


 しかし開発途中ということもあって、体の色素は抜け落ちて真っ白になったりしたが、これは数年で改善されたにも関わらず私の意識はこの体によく馴染み、以来、私は乗り移させる意識の対象を今のような体にほぼ定着させている。そしてこの意識の乗っ取り——つまりは脳の乗っ取りという発想は私にとっての天啓を降り注がせた。


 私にはトラウマとも呼べる経験があり、それは人類に自分が拒否される経験だったのだが、それさえも解決してしまうような素晴らしいアイデアがこの天啓だった。



 それがとある一体のクローンを都市に送り込み、私の代わりにそのクローン体に愛を覚えてもらうというものだ。



 このクローン体には、ある仕込みを脳に施した。


 まず一つに、クローン体は、初めて目にした人物に対して、かつて私の抱いた愛の感情を起動させるようにした。クローン体を送り出したはいいものの、愛もなにも知らずにのほほんと生活を送られたらたまったものじゃない。だからこそ、これはなんとしてでも仕込んでおかなければならない仕組みであったが、これには容姿や性格の良し悪しには関係なく起動してしまうことが難点だった。しかし愛においては容姿も性格も生まれや育ちも関係のないものだと、私は知識上では知っていたので特に問題ではないと判断した。


 そして次に、クローン体は、私の視覚情報を通して脳波の一方的なやり取りを行うように仕込んだ。これは人類の編み出した脳波接続という技術の応用で、まずこの脳波というものはまるでオーラのように人間だれしもがまとっているものであり、だからこそ下手な機械類を通さずとも他人と他人との脳波を触れ合わせることができる。そこに流れを作るだけで、人の核の部分をいともたやすく手に入れることが可能となる。つまりはクローンの今までに感じてきた感情や、これまでに経験してきた記憶を手に入れることができるということだ。


 二つ目の仕込みは、元々私に植え付けられていたシステムの一部ではあったのだが、今の私に人類と戦争を起こした時のような力はないし、そもそもそのような力があったからこそ私は人類と相容れなかった。傲慢になってしまった。けれども今はあくまでも謙虚に、クローンの感情と記憶を手に入れるだけで済ませよう。けれども愛のためであれば、多少強引な手も構わないだろう。


 クビキという人物はいいアイデアをくれた。


 あの無駄に高い建物内では、記憶を奪うべきクローンを探すにしても愛しいあの人を探すためにも厄介だ。しかし都市に出てしまいこれだけの騒動を起こしてしまえば、ターミナルから戦闘員である者たちは全員が出るだろうし、そして原因の解決のために私を探すのであれば、私に似た体格の者にターゲットを定めるだろう。


 けれど関係のない者に見つかっても面白くない。


 だから隠れ蓑を用意して、そしてなんとも都合がいいことに送り出したクローン体、個体006番がやってきた。


 本当だったら、脳を操って泣かせていた少女に、キサラギという者を呼ぶように誘導するつもりだったがその必要もなくなった。


 そして私はキサラギになった。


 感情も思考も記憶も手に入れて、その脳波パターンですら私のものになった。


 いくつか不要なものがあるから、そのいくつかは排除する。


 これで頭がすっきりした。


 これからの行動はすべて、彼に会うためにあるものだ。


 だけども血や臓物にまみれた女を好きになるなんて、ましてや下着どころか着るもの一つない女なんて、いったい誰が好きになると言うのだろうか。私は擬似漆喰の壁にある窓を見て、それを私の支配下に置いているツキカゲに割らせる。窓枠に手をかけてからガラスの破片で傷を負い、それを気にすることなく家の中に侵入する。特別に設えたこの体は人体に許される最高の自然治癒力を誇り、人差し指の第二関節の傷を私が舌で舐めるころにはすでに傷はない。私は自身の体の治癒力に満足して微笑み、それから毛の柔らかいカーペットに血の足跡を残し、家の壁の至るところに血の手形を刻みながら洗面所を通してシャワー室を見つける。


 私は隠れ蓑としていた女から奪ったマスク型の呼吸補助器を外す。


 そしてプッシュ式のシャワーを全身に浴びる。液体である血は綺麗に排水溝に流れてくれるのだが、個体である贓物はじゅくじゅくと排水溝に詰まって困った。花の香りのするというシャンプーで長い髪を泡立てている途中、外からは男の声が聞こえてきた。


 ミツルギがやってきたのだろう。


 早々に私は髪についている泡を洗い流して、洗面所においてあるバスタオルで全身を拭った。外にいるミツルギは「どうしたキサラギ!」と悲痛な声を漏らしている。そこにいるのは元キサラギであることを伝えなければならないので、私は洗面所に置かれているマスク型の呼吸補助器を口元に着け、タンスの中から適当に見繕った子供用のワンピースを着飾って今度は手を傷つけないようにと窓枠から転がり落ちた。


 私を見た時のミツルギは、心底驚いたという顔をする。


 すぐさまキリンをこちらに差し向けてくる。


「待ってくださいミツルギさん!」


 私が言うと、キリンの迫る右腕が止まる。


 目前にある私の顔ぐらいの手を見つめ、私はほっと一息ついて一言、


「私はキサラギですよ」


 その時のミツルギの顔は、心の底を突き破られたような驚き顔だった。


 それからすぐに顔を引き締めたミツルギは、実弾の入っている腰元の銃を引き抜いて構える。


「馬鹿なこと言うなボケ。——ミツルギだ。中央東地区にて危険物を見つけた。捜索班はすぐにキリンの信号を追ってこっちにこい。あと、キサラギがやられてる。ん、ああそうだ。血は特に流してないようだが、いくらか毒を吸っちまってるようで意識がない。転がってる呼吸補助器をすぐにつけたから、まあまだなんとかなるだろうが、とにかく急ぎで来いお前ら、いいな!」


 インカムに怒鳴りつけるミツルギは、たとえ一時たりとも私から目を離さない警戒態勢。彼はどうして私の言葉を信じられないのだろうか。しかしこれも愛がないからだろう。キサラギの中にあった仲間意識というやつは、私が愛を得るまでの過程において邪魔になるかもしれない。そう思ったからこそ私の中の仲間を守るという意識を消し去った。私の言葉を信じられないという今の事実を目にすれば、それは最良の判断であったと言わざるを得ない。


 きっと彼であれば疑うことなく私の言葉を信じてくれるだろう。


 きっとそうに違いない。


 やはり私に必要なのは、この世界で唯一ただ一人だけだ。


「手をあげろ。そのまま手の平が見えるようにだ」


 私が言われるがままに手をあげると、私の背後に回ってきたキリンが私の腕をぎりぎりと掴む。ちょっとというよりもかなり痛い。だからわかりやすく喉から声を漏らしてみるが、キリンの力は緩むことなくさらに一段と強くなる。


「お前には聞きたいことがある。都市の隔壁を下げたのはお前か?」


「そうです」


「じゃあ、この、ぐちゃぐちゃの死体はお前がやったのか?」


「そうです」


 ミツルギの銃を握りしめる手の力がわかりやすく強くなった。


「それじゃあキサラギにお前はなにをした。目立った傷もないみたいだが」


「キサラギは私です」


 ミツルギは舌打ちをする。


「話になんねえな。だったらキサラギが隔壁を下げて、都市の人間を殺したっていうのか。ありえねえだろ。そりゃあ何考えてるかよくわかんねえ奴だったが、それでもこんなことをする人間じゃねえってことはよく知ってる。お前がキサラギだっていうのなら、その証拠を見せてみろ」


 証拠と言われても困る私であったが、とにかくキサラギとして過ごした日々の記憶をこの都市に辿り着いた時から寸分たがわずに語って見せる。ミツルギはまたしても驚いて、しかしそれでも私のことをキサラギであるとは認めない。銃型デバイスによって垣間見た記憶を語っているだと言われれば、そのために必要な有線接続の跡が残っているのかを確認させた。そのような跡はもちろん残っているわけもない。ミツルギも申し訳程度に呼吸補助器を着けられたキサラギの首元を確認し、あるわけもない有線接続の跡を探してはやがて無駄なことだと理解して跡を探すことを止めると、私を見るミツルギの目つきがわずかばかりその険しさを減少させた気がする。


「……仮に、仮にだ」


 ミツルギが言う。


「お前がもし、キサラギ本人であったとしてだ。そうなると、今まで俺たちと行動していたキサラギと、Noahに連れられて今日にやってきたお前はまったく同じ人物だったってことで、そうなるとよ、この都市を壊すためにやってきたのがキサラギの役目ってことになるんじゃねえのか? いや、まったく同じ人物ってことじゃなくて、例えば普段から密に連絡を取りあっていたならキサラギの記憶を語るにしても、都市の隔壁を下げたりなんて情報を持っていることにもつじつまが合うってもんだ」


 ミツルギは自分の都合のいいように話を持っていこうとする。私のことを信じられないからこそ、自分の話の前提さえもすっかり途中で覆っている。私に都市を壊滅に導こうなどという考えはないし、むしろこれまでのキサラギのようにターミナルで日々を過ごせたらいいなと思っている。けれどその考えはミツルギの言葉により霧消した。


「なんにせよ、お前は今から捕まるんだ。その後のことを決めるのは俺の役目じゃない。まあお偉いさんのいなくなった今じゃ、この都市の市民全員で議決を取ってお前の行く末を決定するのかもな。そうなれば死刑なんていう前時代的な制度も復活やむなしって感じか。さて、誰か一人ぐらいそろそろもう来るだろう。まずお前にやってもらうことはこの隔壁を、」


 突如として止んだミツルギの声はツキカゲのワイヤーブレードが深く腹に刺さったからで、自分のすぐ近くにいたはずのツキカゲにミツルギは何の警戒心も抱いていなかったからこその隙だった。ツキカゲの指一つが動いていなかったことですぐそこに力なく倒れているキサラギの抜け殻にいまだに操作権があるように勘違いしていたようだが、私がキサラギとして宣言している以上は目の前にいる私こそがツキカゲの操作権を持っているという可能性に彼は至るべきだった。


 しかし、どうにも私はやりすぎてしまったらしい。キサラギとして変わらずにふるまうことができれば、なにも変わることなく今までのようにターミナルで過ごせるかと思ったがそうもいかないらしい。


 まあよくよく考えてみれば当たり前の話だ。


 いくら私がキサラギになったとはいえ、これまでの私の行動が帳消しにされるわけでもない。


 人間的な意識が希薄であることと、まだキサラギの自意識に慣れていないことが問題だ。


 ならばどうしたらいい。


 力の緩んだキリンの手から逃れる私は、ワイヤーブレードを握ったツキカゲに指示を飛ばす。私の指示通りにツキカゲは蹴りを放った。ぽっかりと腹に穴を空けたミツルギが、まるで花が咲いたように血糊をぶちまけて壁にぶつかる。しかし未だに息のあるらしいミツルギは、這いつくばりながらも私から逃れようとする。仲間を守るという意識どころか、そもそも仲間というものが愛においては邪魔になると考える一方で、血のわだちをレンガの道に引いているミツルギの姿を見て私は一つだけ思いつく言葉があった。


 ——逃避行。


 これしかない。


 我ながら、なんて素晴らしいアイデアだろう。


「…………逃避行」


 その語感の良さに呟いてみるだけでも感嘆してしまう。


 周囲の反対を押し切って、それでも貫きたい愛があって、そういった関係に陥った男女は自らの出自をかなぐり捨ててでも共にいることを願うのだ。


 私たちの仲を邪魔する不埒で不届きな輩どもは、この都市ごと毒の中に葬り去ってやろうかとも思うし、それを実現できるだけの状況を実際に作り出していることも事実だし、けれども二人の仲を反対する者がこの世に存在しないのであればそれはそれで逃避行という行為自体に意味を無くしてしまうような気もする。これはきっと私にとっての実益を取るかそれとも理想を取るかの違いなのかもしれない。私はひとしきり首をかしげてぐるぐると頭を働かせるが、あの人のことが頭の片隅によぎるだけでも、あの人にこれから会えるという期待でばくばくと胸が高鳴ってもうまともな思考なんてできなかった。私になる前のキサラギは、このような気持ちを毎日抱えていたのかと思う。


 呼吸がはやくなる。


 胸の奥が焼けるようだ。


 私になる前のキサラギは知っていた。


 溜めこむほどに人の内面を焦がす恋という病は、ちゃんと言葉にして伝えなければ治ることはないのだと。


 私は思うのだ。


 それを知っていながら行動に移せないキサラギは正真正銘の馬鹿であったと。


 その葛藤は知っている。


 そこに至るまでの勇気も私は知っている。


 それでもいつ死んでしまうかもしれない脆く儚い人間同士、思い立ったのならすぐに行動するぐらいでないと思いを言葉にして伝える機会など永遠に訪れないかもしれないのだ。


 だから言おうと思う。


 あの人に出会うことができたのなら、——ハルヒトに出会うことができたのなら私はまずいの一番にこの気持ちをストレートに伝えようと思う。


 私は道端に転がっているキサラギの抜け殻をまさぐり、インカムを始めとしたいくつかの通信機器を奪い取る。これでハルヒトを呼び出すことができるし、これで私の捜索班の行動も知ることができる。ターミナル内で使っていた銃型デバイスは女の腹の中で汚れてしまったことを思い出し、私はその代わりとなる銃型デバイスもキサラギの抜け殻から奪い取る。人間の言葉の中には備えあれば憂いなしというものがあるから、それに従って自分に足りないものを補おうとして——


「——キサラギから離れろ」


 呼び出すまでもなかった。


 この声は、後ろを振り向かずとも誰のものであるのかがわかる。

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