第20話 伝わらない気持ち
言い出せなかった。
だってこれはただのわがままになってしまうと思ったから。
様々な施設に挟まれた三色レンガの通路を履いているブーツで蹴って、ワイヤーに繋がれている家屋の壁をこれまた蹴って、二階のベランダに飾られている花壇の花をキサラギは見下ろせるぐらいの高さに跳びあがる。
とんがり帽子の政府施設、三角錐の電波塔、家屋に網を張るように設置されている電線は、そこかしこに設置されている鉄筋コンクリートの電柱からのびている。すべてがすべてとは言えないのだが、文化的遺産を多く失った人類は、レトロと現代の融合を掲げて都市の建設を行ったらしく、数百年を生きながらえるような化け物であればこれらの都市の光景を郷愁に駆られて見つめるかまったく違うじゃないかと怒るかのどちらかだろうと思う。
ハルヒトの送ってくれた指標はもう少し先だ。
その指標には、例の女の子がいるのかもしれない。
けれどやるべきことをやろうという決心は、情けないぐらいの不安に埋め尽くされていた。
どうしてだろう。
モミジを狂わせて、クビキを殺して、そんなあいつに次に会う時には容赦もしてやらないと思った。それは事実のはずだ。そうだというのに今の自分ときたら、あの女の子に会うことをいやに恐ろしいと感じている。決めたはずの心を決壊してしまったそのきっかけは、それこそ市民の精神の安心を守るための隔壁がいともたやすくその役目を放棄する事態になったからだろう。モミジの時も、クビキの時も、キサラギの心の壁には不安や恐怖といったネガティブな感情が押し寄せていて、最後のきっかけは相手の規模の大きさをいやでも思い知らされた。
勝てるわけがないと思った。
そしてなによりも、あの瞳を見るだけでまるで自分がすり減っていくような感覚。
あれが駄目だ。
しかし、それでも相手の目を見ずに立ち回る方法なんて、不意打ちでも食らわない限りは装備の整ったキサラギにしてみればたやすいはずだ。そういった考えがあるからこそ、キサラギは「ハルヒトに傍にいてほしい」という意見をわがままになると考えた。それでも、自分の意識とは関係ないところで感じてしまう心細さはどうしようもない。
指標のもとにたどり着く。
泣き声が聞こえる。
指標となっていた三つ編みの女の子が、目元をこすりながら濁音混じりの「お母さん」を叫んでいた。マスクのような呼吸補助器は彼女の大声に今にもはがれそうになっている。これでは毒を吸い込んでしまう可能性があると考えて、キサラギは白い寝間着姿の女の子に近づいた。
「どうかしましたか?」
彼女の周囲で逃げまどう何人かの大人や二足歩行型ロボットは、まるで女の子の姿が見えていないように我が身大事と走り去っていく。それを横目にしながら女の子の呼吸補助機を抑えるキサラギは、この子も自分と同じように心細さを感じているのだと思った。指標としては外れであるが、この子の元にたどり着けたことは当たりであると思った。
三つ編みの女の子は濁音混じりに、
「お母さんがいないの」
キサラギはツキカゲを呼ぶ。そして探査型のゲンブほどの精密性こそないにしても、そこらを走る二足歩行型ロボットよりは高性能なエコーロケーションを起動させる。キサラギは親というものを知らないが、それでも自分がどれだけ危険な状態にいようとも自分の子を見捨てない人こそが親であると知っている。それに泣いている女の子がここまで来ているということは、それまでにこの子と同伴してきた親がいたはずで、だったらこの子の親はまだそう遠くない場所にいるはずで。
——いた。
今いる大通りと少しだけずれた路地裏に、お腹を抱えてうずくまっている者が一人だけいる。
おそらく妊婦で、もしかすると陣痛で、泣き叫ぶ女の子にそういった事情で構う余裕がないのだと予想した。
「大丈夫ですよ。あなたのお母さんは私が必ず連れて行きます」
目元を腫らした女の子が不安げにキサラギの目を見る。
彼女を安心させるために、表情を変えることは苦手だけどキサラギは優しく微笑んでみせた。
「だから走っている人たちに今はついていってください。できますか?」
女の子が頷きながら濁音混じりに、
「うん」
ここで四十代半ばほどの女性が一人やってきて、キサラギから簡単な事情を聴くと、彼女は「この子を連れて行くのは任せておきなさい」と言ってくれたので、この都市には困っている人を見捨てる人たちばかりではないのだと実感ができた。
迷ってばかりではいられない。
甘えるばかりでもいけない。
この都市を守るためにできることはまだ残されている。
インカムからの通信が入る。
都市に向かっているというNoahに対しての、簡単な組み分けがなされてそれからまた別に通信が入る。
『おーい、そこにいるやつは誰だ。指標との接触はどうなったんだ?』
この聞き覚えのあるだらけた声はミツルギの声だ。
ちょうどいいとキサラギは思う。
キサラギは例の女の子と指標となっていた女の子は同一の人物でないことを話し、それから近くにいる警備員に連絡を取って急病の患者をターミナルまで運ぶ手立てをミツルギに頼む。そのためにミツルギ個人に新たな指標を送り、三つ編みの女の子と交わしたお母さんを連れていくという役割のため、ナノマテリアルの擬似漆喰の壁に挟まれた路地裏に急行してキサラギはエコーロケーション通りにお腹を抱えてうずくまっている半裸の女性を見つける。ミツルギに送った指標はもちろんこの場所で、ここにたどり着くまではミツルギの接近速度から考えて三十秒とかからない。
けれどその三十秒の間に女性は死んでしまうかもしれなかった。
だって血まみれだ。
綿素材の水色のパジャマは見るも無残に破かれて、大気中の毒に晒された肌は血により真っ赤に染まっている。それになにより避難民であれば必ず着けているはずのマスク型の呼吸補助器が彼女の口元には見られない。おそらくは毒の影響を受けているのだと考えたが、肝心かなめの呼吸補助機は辺りをどれだけ見回しても見つかりはしない。予備の呼吸補助器なんて持っていないキサラギはとにかく焦り、お腹をふくらませた血だらけの女性はキサラギの焦りを加速させるように叫んだ。
キサラギはナノマシンによる感情抑制を使って一時の平静を得る。とにかく三十秒ほどこの場をもたせることさえできれば、あとは人生経験の豊富なミツルギがなんとかしてくれるかもしれない。焦りは敵だ。そう思いながら自分の口元の呼吸器を外し、キサラギは苦しむ女性の口元にその呼吸器を押し当てようとする。これは三十秒程度の時間であれば息を止められるし、息を止められるのであれば大気中の毒を吸い込まないという考えでの行動だ。
「もう大丈夫です。落ち着いてください」
という彼女を宥める言葉を吐きながらもなんとか息を吸い込まないように気をつけるキサラギは、手に持っている鋭角なデザインの呼吸補助機を彼女の口元に触れさせて、
悲鳴が止んだ。
それを知覚した瞬間、彼女のふくらんでいる腹がちょうど彼女を二分するように線を縦に延ばしていき、そこからどろりとした血をにじみ出してはそれから破裂でもしたかのように女性の血が噴き出した。キサラギは何が起きたのかもわからぬままにこれでもかというぐらいの血を全身に浴びて、思わず身を仰け反らせると同時に止めていた呼吸を戻してわずかに毒を吸い込んだ。あ、と思った時にはもうすでに手遅れだった。呼吸の器官を通して全身を巡る血液へと行き着いた毒の影響で、キサラギは決して少なくない痛みをその身で嫌というほどに体感することになる。だがしかし、それが吹き飛んでしまうような衝撃的なものをキサラギは二分に裂かれた女性の腹の中に見た。
それは胎児ではない。
もちろん不摂生な脂肪の塊というわけでもなかった。
腹から突き出されたのは二本の細腕、のっそりとした動作でその手が女性の右半身と左半身を掴む。それから押し出されるように這い出てきたものは、雪のように真っ白い肌を真っ赤な血と臓物により汚している、例の女の子であった。
目が合った。
合ってしまったのだ。
頭の中をかき乱されるような感覚。
目眩がくる。
きた。
あらがう。
キサラギは傍に控えさせていたツキカゲを呼ぶ。ツキカゲの太股にあたる部分が開き、ツキカゲはそこから一本のワイヤーブレードを抜き出す。それは高々と振り上げられると、女の子の頭頂部にめがけて振り下ろされる。止まった。真っ赤に染められているかつては白かった銀糸の髪に、無情に振り下ろされたワイヤーブレードが触れるすんでのところ、キサラギの指示に逆らったツキカゲがぴたりとその動きを止めた。
彼女の得意とする脳波の解析と模倣は、銃型デバイスでの有線接続が必要だ。
そう思っていた。
けれど、そのような面倒な過程を必要とせずに目の前の女の子はキサラギの脳波を解析し、模倣したのだと考えればツキカゲの主導権を奪われたことに納得がいくというものだ。しかしそのようなことができるのであれば、わざわざ人の体内に隠れる必要などあっただろうか。駄目だ。わからない。キサラギは血染めの女の子に深々と頭を垂れるツキカゲを見つめ、それでもまだツキカゲとの脳波接続が解除されていないことを確認する。わからないことだらけだけど、最後にキサラギはツキカゲに指令を下す。
下したところで、自分がなにをしたのかを忘れてしまった。
それどころか、自分がどうしてこの場所にいるのかすらわからなくなる。
そもそもいったい自分は誰だ?
頭に浮かぶ無表情気味な男性の顔。
彼と私は似ているのだと誰かが言った。
それがなんだか嬉しかった。
どうして嬉しかったのだろう。
だって私は彼のことを————なんだっけ?
わからない。
わからないけど、それはとっても大切なことだったように思う。
今はもう彼の顔も思い出せないけれど、私にとってそれはかけがえのないことだったように思う。
だけど、思うだけでは、気持ちが伝わることはないと知っているけれど。
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