第五章 あなたを愛しています
第19話 侵攻
恐ろしい事態となった。
ブリーフィングルーム内にいるハルヒトを含めた三人は、もう気が気でないといった様子でつま先を鳴らしたりその場でぐるぐると回ったり、それぞれが思い思いの行動を取っている。ちなみにハルヒトは壁際に背を預けたと思ったらすぐに背を離すという行動に出ていて、どうしてそのような挙動不審ともいえる行動をしているのかは、サチ司令官が装備類を整えているというジンに端末で連絡を取った際に得た情報ゆえだ。
隔壁が下がっている。
都市で生まれた時から悠然とそびえ立っていた隔壁が、まさかその高度をぐんぐんと落として地に触れようとしているなど考えたこともなかった。どうしてこのような事態に陥っているのかという説明は、サチ司令官の推測という形でブリーフィングルームにジンとキサラギとケイリという名の警備員が集まればされる。それまでは待機。このような都市崩壊を招く事態に、なにもせずにじっとしていることは意外と精神に堪える。
やがて三人がやってくる。
「先輩」
いの一番に駆け込んできたキサラギがハルヒトの元へとやってきて、
「ご無事でしたか。本当によかったです」
今日のキサラギはずいぶんと表情豊かだなと、ハルヒトは多少面食らいながらもキサラギの無事にほっと胸を撫でおろす。けれども悲しさと戸惑いと安堵の入り混じったその表情からは、彼女の心までもが無事では済まなかったことを教えてくれる。ハルヒトはサチ司令官からすでに聞いていた。キサラギを助けるために命を賭したクビキの顛末を、隔壁の降りていくその瞬間をいの一番に目にしたのがキサラギであることを。
キサラギの辛い心情を察して慰めの言葉をかけようとするハルヒトは言葉を切られる。
先ほどまでヒールの靴のつま先をリズムよく鳴らしていたサチ司令官が、都市全体を縮小させた立体映像を手で弄ぶ行為も止めて物を言う。
「状況確認を始める」
ブリーフィングルーム内に響いた声は、空気の弛緩を許さない。
誰もがサチ司令官に注目する。
そして簡素ともいえるぐらいに手短に、かつ、必要な情報は漏らさずにサチ司令官は現在の状況を説明する。二つのアタッシュケースを手にしていたジンが、説明の間に手にしていたアタッシュケースの一つをハルヒトに寄越してきて、ハルヒトは中身を確認するとともに手早く取り出した形状記憶素材のコートを羽織る。次にジンの相棒機であるセイリュウがだらりと肩に担いでいたゲンブと、ハルヒトは脳波接続を行うことによりセイリュウの肩からゲンブを地に足をつけさせる。
「——隔壁の降下について。お前たちはターミナルの地下になにがあるのかを知っているか。おそらくは植物プラントの実験施設に巨大エネルギー炉の管理がある、程度の知識だろう。F班以外の立ち入りは禁ずるとあっても、開発を担当するB班はF班の同行により地下に立ち入ることもできていた。だから特別な場所という意識もそこまでないだろうが、ここにはある重要な役割を持つ場所がある」
先ほどまでの手短な説明から話がこと隔壁の降下へと移り変わると、サチ司令官の説明は打って変わってとても丁寧なものになる。これはサチ司令官の伝えたい重要な部分がこの話には含まれているからだろう。
「重要な役割とはつまり、隔壁のコントロールだ」
ハルヒトは思い出す。
最上階からエレベーターに乗ろうとした時のこと、誰かが地下へと降って行った。
その人物こそが、隔壁を下ろした犯人ということになる。
そしてそのようなことをしてしまう人物には一人だけ心当たりがある。
「ここまで言ってしまえば察する者もでてくるだろう。行方のわからぬ危険物は、つい先ほどまでは必ず地下にいたということだ」
ここで意外なことに苦言を呈したのはジンで、
「だけど、あいつには人を操る力もあるんだから、操ったそいつを地下に行かせたのかもしれないんじゃないですか?」
これにサチ司令官は、想定済みだと言わんばかりに顔色一つ変えずに答える。
「それはありえない。隔壁のコントロールのためには、F班の人間の過半数を超える、つまりは六人の脳波接続が必要になる。そして、脳波接続を必要とするはずの随行式支援型機甲や銃型デバイスが奴に操られているという情報から、一度接触した人間の脳波パターンは解析されて模倣されると考えるのが妥当だ。そしてそのようなことを操った人間がやれるとは到底思えないし、F班の過半数はすでに危険物からの接触を受けている。今も留まっているとは限らないが、危険物は必ず地下に行っている。そして私は連絡のつく者を片っ端からあたり、すべてのエレベーターの動向を確認した。そしてその結果、現在の危険物の居場所は、ターミナル外であるということがわかった」
外?
「危険物が乗っていたエレベーターが、外にでるための一階に止まったことからそう考えられる。そして外の状況はいわずもがなパニックだ。ターミナルのシステムは危険物によって乱されており、まともに動かない。各所の政府施設にも連絡がつかず、避難勧告もろくに届かない。なので、各家に設置されている呼吸補助機を市民につけさせ、このターミナル内に人力で誘導する。ターミナルも安全な場所とは言えないが、毒の侵入を防ぐことぐらいはできるし、中の状況は私と基本的にA班の者とで対処を行う。しかし外の人員が足りないので、コウシとケイリの二人は避難誘導を担当しろ。そしてハルヒトとジンとキサラギにはターミナル外に出た危険物を確保してもらう」
「か、確保ですか⁉」
ハルヒトとは面識のないケイリという男が、気の弱そうな表情を心底驚いたという顔にした。
「先ほども言ったが、F班の過半数の脳波パターンが隔壁のコントロールには必要になる。しかし、F班のほとんどは狂乱しているかすでに死んでいるかだ。狂乱しているだけならいいが、死んでいる人間では脳波パターンを取得できない。つまり、隔壁を再びあるべき姿に戻すには奴が必要になるかもしれないということだ。私もF班全員の安否を知っているわけではないから、こちらからも行動を起こしてその安否を確認するがな。さあもう時間はない。他に疑問を挟むような者がいなければさっさと外に向かえ。呼吸補助機は忘れずに、そしてもしもNoahが来るようであればそちらを優先して破壊しろ。いや、待て。C班の三人でハルヒト以外に端末の調子が悪い、もしくはそもそも持っていない者はいるか?」
そういえばサチ司令官には端末の調子が悪いと告げていたなと思いだす。そしてサチ司令官の言葉にキサラギが手をあげる。
「では、コウシとケイリの端末を二人に渡しておけ。私からの連絡がいくようにな。C班同士では共通のチャンネルでインカムでやり取りを行えば問題はない」
ハルヒトたちの目的は、あくまでも人探しということになる。そういった点で考えれば、連絡手段を持たないことはかなりの痛手になる。ハルヒトはまたかよと呟くコウシから端末を受け取り、キサラギが頑張ってくださいと激するケイリから端末を受け取った。
「では行け」
了解の意を示すデ・アクエルドの言葉はない。
ブリーフィングルームの電灯の明かりを背にして、五人と三機は廊下を出るとすぐさま近場のエレベーターを目指して走る。エレベーターがやってくるのを待つC班の三人はそれぞれが鋭角の呼吸補助器で口を塞ぐ。隔壁外での戦いなど知る由もないコウシが「そんなデザインの呼吸補助器使ってるんだな」と言えば、それを聞いていたジンが「お前らの呼吸補助器はどこにあんの」とくぐもった声で尋ねる。その答えが返ってくる前にやってきたエレベーターに全員が乗り込み、そして呼吸補助器があるという警備員二人の自室のある階に止まり、直行してターミナルの一階へと向かう者はハルヒトとジンとキサラギの三人となる。
ハルヒトは二人が命を危険にさらしている間に、後ろめたくなるような行為にふけっていたことが情けなくなる。実際にクビキという一つの命が失われた。それもハルヒトの知る限りでの人物の話であり、本当のところは何十人という命が失われている。大切なものは過去に起こった遠い出来事ではなくて、この都市に住まう人々の「今」を守ることである。今までに重ねてきたトレーニングはいったい何のためにやってきたのか、今までに倒してきたNoahの残骸はいったい何のために積まれてきたのか。
目的地に着いたエレベーター内の音声を聞く。
扉が開いて、玄関を目指す。
「——先輩、」
ハルヒトは隣で走るキサラギを見る。
なにかを言いたげな様子だったが、彼女が、これからの行動について聞こうとしているのだと察すると、
「ターミナルから出たらゲンブであの子と同じような体格の子を探索して、それから三人で分かれて行動しよう。個別に動いていたら発見が遅れる可能性もある。ジンもそれでいいか」
「ああ。それよりもあいつを見つけたら独断で動く前にちゃんと連絡しろよ。お前らはそういうところあるからな。それに、あいつは俺の手で捕まえてやる」
内側からのロックが特にかかっていない玄関は、市民の搬入口となるために開け放たれているので、内であろうと外であろうとロックの有無には影響がない。ハルヒトは随行させているゲンブとともに玄関を抜けて、毒の侵攻を妨げている電磁の壁を突破して、エコーロケーションと並行させてゲンブに起動させたサーモグラフィにより、思い出せる限りで、例の少女に似た体格の子供を、探査の可能である半径五百メートル以内で四人ほどピックアップする。
「補足した。それらしい子は四人いて、その四人のいる場所を探索中の全員に送った。二人にも届いているはずだから、今からそれぞれ分かれてその場所をしらみつぶしにあたっていこう」
「ああ、了解だ。行くぞセイリュウ!」
手の付け根から射出したワイヤーを利用して、ジンが都市内を覆い始めた毒を切り裂き移動していく。その後ろには首の長いセイリュウが、随行式支援型機甲に共通のブースターで空を駆けている。混雑の予想されるターミナル玄関前で、キサラギはなにかを言いたげにハルヒトを見つめていた。しかし「どうした」とハルヒトが聞いてみると、キサラギはためらいがちに視線をそらして「いえ」と一言だけ残してその場を去った。
どうしたんだろう。
ハルヒトはキサラギの心を理解しようと努めて、呼吸補助器ごしの彼女の表情を思い浮かべて、しかしそのような時間はないのだと一つの指標に向かう。リニアトレインは絶賛稼働中で、それはもうぎゅうぎゅう詰めのすし詰め状態でコイルの組み込まれた線路の上を快走しているのだろう。そしてターミナルの付近の駅へと着くやいなや、詰め込まれた避難民がターミナル玄関へと雪崩のように押し寄せてくるはずだ。そしてその雪崩に紛れてやってくるのが指標となっている子である。まさかこのような人混みに紛れているとは考えづらいが、それでもあの少女の存在は人の多い場所だからこそ恐ろしい。
ちゃんと警戒しなければならない。
ハルヒトは急いで駅に向かった。
ゴシック調の家屋、屋根の尖った政府施設、これらを横目に通り過ぎていき、ふと上のほうを見てみれば、そこに特殊ガラスがないからこそ見えるありのままの空がある。闇よりなお深い、まるでブラックホールみたいな空には、毒の雲がありありと浮かんでいる。世界の終わる光景とはまさに、こういった空の光景を指すのではないかとハルヒトは思った。
そしてこの空の向こう側に、いくら手を伸ばしても届かない場所に、地球を捨てた者たちがいるのだと思えばみじめな気持ちにもなる。
ハルヒトは彼らに思いを馳せようとする。
しかし止めた。
守るべきものは空にない。
守るべきものはいつだって傍にある。
「——あ、」
ここでハルヒトは気づいた。
こんなにも簡単なことにどうして気づけなかったのかと思うぐらいに、それは馬鹿馬鹿しいことだった。
そんなときに限って異常が顔を出す。
くそっ。
思っていたよりも早い。
隔壁のない都市セイレンを一直線に目指してくる高速接近反応がある。そこまでの数はいない。どれだけ多く見積もったところで、まさか十を超えることはないだろう。けれどもその一が、どれほどの被害を無防備の都市に与えるかは想像に難くない。
——Noahだ。
けれどもこれに対するC班の対応は慣れているように迅速で、インカムを通して行われた組み分けは、去来するNoahへの対処と都市に潜む危険物への探索にあてられる。先ほどターミナルを出たばかりの三人は、距離的な問題から探索の組に入れられる。ハルヒトはつまりこのまま探索を続行するということで、——だけど心のひっかかりがハルヒトの足を鈍らせる。
ハルヒトは、もう一度だけ空を見上げる。
そうだ。
まだ、終わりじゃない。都市に住まう者の今までの人生は、いつだってこの空の下に営まれてきたのだから。
ハルヒトと同じくリニアトレインを目指してきたC班の一人に、ハルヒトはこの場を任せるようにインカム越しに伝えた。
そして踵を返した。
ハルヒトが目指したのは——
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