第16話 さようなら
クビキはこれまでの人生の中で痛覚遮断にこれほど感謝したことはない。
通気性のよくなった横っ腹からは、溢れ出す血液と一緒になってぬめりとした腸がでろりと零れ落ちようとしているし、それを押さえつけようと思って伸ばした腕は、初めからそこにはなにもなかったかのように肘から先が消失している。痛覚のある人間であれば間違いなく意識を失っている。
それでももう一方の腕は健在で、端末型デバイスから延ばした有線を、クビキは固く握りしめてはニッコウの首の関節部分に差し込んでいた。ニッコウに対しての妨害電波のデータはすでにあり、それをより洗練させてから直接流し込むことで、機能処理をオーバーフローさせることに成功してニッコウはがくがくと震えてからその動きを止めた。
これで、キサラギとジンに迫る物理的な脅威はだいぶ薄まったのではないかと思う。
あとは、ぽっかりとした穴を胸に空けているあの少女をなんとかできればいいが、それはさすがに自分にできることの許容範囲を超えている。細い糸で繋がれたような意識は次第に宙へと浮かんでいく。今では指の一本だって動かすことは難しくなっている。これが死へと近づいていく感覚なのだろう。だけど杭はない。誰かを助けるための犠牲となるだなんてただ無意味な死を迎えることよりもずっといいことだと思うし、それに憧れていた父に自分が少しでも近づけたような気がするから気分がいい。
優しかった父。
たくましかった父。
Noahに殺されてしまった父。
その死因は仲間を庇ってのことであり、父を失ってしまったことは悲しかったけれど、それ以上に父に対しての尊敬の念は深まっていった。父の形見である黒塗りのステッキを手に持って、紳士的であると評判の父に自分のイメージで口調を寄せて、いつでも仲間のことを思いやれるようにとなるべく周囲に気を配って日々を過ごしてきた。けれど今日という日に多くのものを失ってしまった。あの時もしもモミジの代わりに自分があの少女の記憶を探っていれば、暴走したニッコウをすぐにでも止める力を自分が持っていれば、フロアにいた人たちをもっと少ない犠牲で済ませることができたのではないか、そんな先に立つことのない後悔だけが順々と頭を巡っていた。だけどそれは傲慢で、過剰な自意識で、だからこそ数人を救うことのできた自分の存在意義は決して無駄なものではなかったのだと胸を張って父に言える。
クビキは我知らずのうちに微笑んでいた。
それを見た無表情の少女は、四十五度の角度で首を傾げて口を開いた。
「なぜわらうの? なぜかばったの?」
クビキは驚いた。
話すことができるとはまさか思わなかった。
「どうしたの? まだ言葉は話せるはずだけど」
声音はまさしく少女のそれなのに、その明瞭とした滑舌にはどこかちぐはぐとしたものを感じさせる。
「そう、ですね」
クビキは迷う。
「一言で言うには、どうにもまとまり切りませんね」
一つ咳き込み、唾液に混ざった血の味を噛みしめる。
変な味がする。
そこで少女が質問を続けた。
「あれをかばったのは、あなたがあれを愛していたから?」
あれというのはきっとキサラギのことで、まさか少女の口から「愛している」などという言葉が出るとは思わず、クビキはなんだか面白くなってしまってもう一度笑ってからまた咳き込んだ。やっぱり変な味がする。
「いえいえ、まさかそんな、わたくしごときがおこがましい」
「それじゃあなんで?」
少女の追及は続く。
「それは、情、ですかねえ。危険に陥る人がいれば、思わずその人を助けてしまう…………それが……関わりのある人なら、なおさら、です」
もう限界だとクビキは思う。
まともに頭も働かない。
「それはあなたじゃなくてもそうなのね」
質問の意味もわからずにクビキはたぶんだけれど「ええ」と一言うなずいたのだと思う。穴の空いている深い胸の傷に加えて、職員の放った銃弾に綺麗に撃ち抜かれた右膝の傷を、徐々に徐々にと直していく目の前の少女はまるで聖母のように微笑んでからクビキの頬に触れ、
「ありがとう。おかげで良いことを思いついたわ」
頬に触れていた手は光を失った虚ろな目へと移動して、少女はガラス細工に触れるような手つきでクビキのまぶたを静かに下す。それから上向きになっていた小さなかかとを地面に触れさせて、次の目的地へと淀むことのない足取りでひた進む。
「待っていてね。私の愛しい人」
フロアに流れるジャズにも似たBGMはすでに止んでいる。
その代わりに流れているのは、赤いランプに紛れた耳障りなアラーム音だった。
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