第三章 ロストの真実
第11話 カウンセリング
たしかに自分はおかしかったのだとハルヒトは思う。
精神状態が落ち着くという理由から水面が映し出された部屋の壁は、まだら模様の美しい錦鯉が跳ねては水音とともに優美な波紋を描き出し、赤みがかった紅葉の葉はまるで笹船のように水面で揺らめいていた。このような光景が当たり前にあった時代は何百年も前の話で、ハルヒト達は特殊ガラスに映る映像でしか空の青さを知らない。
「この指は三本ですね」
筋肉質であるとは到底思えない恰幅のいい体を、丸椅子にどっかりと圧しつけた白衣の男がハルヒトに二本指を立てて真剣な眼差しで問うてくる。立てた指の数とは違う数字を言ってのける目の前の男を、頭がおかしいのではないかと疑わないのは、今がハルヒトの精神状態を確認するカウンセリングという特別な状況にいるからだ。
二本。
そう答えることが正解に違いないのだが、それでも勘繰ってしまうのがハルヒトの性質で、もしかしたら目の前にちらつかせている二本の指はダミーであって、見るからに安っぽいスリッパに隠されている足の指こそが本命かもしれず、ハルヒトは目の前にいるカウンセラーよりも真剣な表情でそれこそあらゆる事態を想定して数分にわたる黙考を続ける。
ここでカウンセラーもしびれを切らして、
「いや、二本でしょ!」
自分からバラしてしまうような答えならそもそも出すことすらもおかしくはないか。
「先生が三本と言っていたので、それなりの理由があるのかと思ったんです」
「はあもう。まったくもっていつも通りだねハルヒト君は。人の言葉を信じようとする君の性格は悪くはないんだけど良くもない。時には人を疑うっていうことも大事でね、これは人に限らずに自分たちが当たり前にやっていることに対して疑問を持って、そしてそれを解析していった人たちが後に偉人と呼ばれるようになったんだ」
カウンセラーは人差し指の立った手を前後に揺らし始めた。
長話の始まる合図だ。
だからハルヒトは水を差す。
「だけどその偉人のデータもほとんど失われているし、俺たちに残ったものは戦争の際に発展したのかそれとも劣ったのかわからない技術ばかりじゃないですか。名前が残らなければ偉人になったって意味ないですよ」
軽く足踏みをするカウンセラーの足元に、大きく広がっていく波紋が生まれた。
「別にハルヒト君に偉人なれと言っているわけではなくてね、偉人と呼ばれた人の行動にはなにかしらの意味があるということだよ。たしかにかつての戦争によって『ロスト』が起きて、戦争の詳細を含めた多くの歴史は失われてしまったが、それでもさっきハルヒト君が言ったように歴史の結果である多くの技術が残っている。都市全体のエネルギーを賄う反物質技術やエントロピー制御などを例としてね。これらを残してくれたのはやはり過去の偉人たちだろう。名前が残らないからといって彼らを否定するような意見を言うことはあまり納得できたものじゃない」
ハルヒトが差したものは水ではなくて油だったようで、カウンセラーは加速度的に口内にある舌という名のタービンを回し始めた。もう止まらない。ハルヒトは助けを請うように悠々と水中を泳いでいる錦鯉を見つめるが、これが映像であることはわかっているしまさか助けてくれるわけもないとわかっている。だから助け人は、普通に開いた扉から入ってきた。
「調子はどうだハルヒト」
普遍的な人間の体型とほぼ変わらない随行式支援型機甲キリンの背から、ミツルギが一週間以上は剃っていないであろう無精ひげと頭に乗せるジャングルみたいな髪型で顔を出す。妙におぼつかないその足元から察するに、ミツルギは今でこそ自分の足で立ってはいるが、きっと先ほどまではキリンの背に負ぶってもらっていたに違いないと推察できる。文字通りに自分の足として随行式支援型機甲を使う人間など、ミツルギをおいては他にいないだろうし、ここまでターミナル内で自分の相棒機を自由に連れまわす許可を得られる人間もミツルギをおいては他にいない。
「俺は大丈夫ですけど、今は俺の面会はできないみたいなことを聞いていたから、ミツルギさんこそ大丈夫ですか? 司令官とかに怒られるんじゃ……」
ミツルギはあっけらかんとした態度で、
「連絡だけはしといたから大丈夫だ」
「はあ」
つまりは返答はもらっていないということなのだ。
「大丈夫なわけがないだろうミツルギ君。ここは私の診療室だ。いわば聖域だ。勝手に踏み入ることは何人たりとも許さないよ」
「なにが聖域だ。どうせまたよくわかんねえ上に長ったらしい雑談でもしてたんだろ。だったら聖域じゃなくて雑談室のほうが正しいじゃねえか先生。それに見たところハルヒトは普通に会話だってしてるし、おかしなところも特になかったろう。だったらもう診察なんてなんの意味もねえよ」
言われた言葉に反論のできないカウンセラーは、ひとしきりうーんと唸ると「それでも」と食い下がる。
「君たちの任務中に、ハルヒト君の精神が異常をきたしたことは周知の事実だし、短い時間の診察ではまだなんとも言いかねるんだよね。それこそ記憶を覗くような備品もあるけど、これには上の使用許可がいるしね。備品に頼らずに人の心を知るためにはそれなりの長い時間がいるんだよ」
「だったらまた明日にでも回せばいいじゃねえか。ハルヒトだって疲れてんだから、正しい診察結果もそう出るもんじゃないだろ。っていうよりも上からもそう言われてんだろ?」
カウンセラーは今度こそ何も言えなくなった。
「それじゃあハルヒトの今日の診断はこれで終了っつうことで、じゃあな先生。行くぞハルヒト」
ミツルギのくいっと上げた指は立ち上がれのサインで、ハルヒトはこのまま行ってしまってもいいのだろうかと悩みながらもカウンセラーにお礼を言ってお辞儀する。すると「また明日もくるんだよ。疲れているのに引き留めて悪かったね」とカウンセラーはひらひらと手を振りながら言って、ハルヒトは再度お辞儀をしてから威風堂々と部屋を出ていくミツルギを追いかけた。
「えっと、本当に俺を連れ出して大丈夫なんですか?」
「さっきも言ったろ。疲れたお前からはロクな情報が出ないって上も知ってる。だから明日が本番で、それこそ記憶を覗かれるかもしれない。それまではちゃんとお前を休ませろって言ってる俺こそが正義に決まってる。それに先生の長話に付き合うのはお前も嫌だろ?」
ハルヒトは逡巡してから頷いた。
それを見るといたずらっぽくミツルギが笑った。
「じゃあ俺に感謝しないとな。まあそれは今度っつうことで、今は食堂にでも行ってこいよ。ジンたちがいるから顔を出してやればあいつらも安心するだろ」
「ミツルギさんは行かないんですか?」
「俺は帰って寝る。まあ今回のリーダーは俺みたいなところあったから、一応部下の様子を確認しにきたってわけだ。あと気になってるだろうから一応言っとくが、モミジのほうはお前みたいにはいかないぞ。完全な面会謝絶だ」
水面のたゆたう一室から打って変わった無骨な廊下で、ハルヒトはミツルギの察しのよさに驚いて目を見張る。これから会うことができるのならモミジに会いにいこうと思っていたし、それが無理でも現在の彼女の状況がどうなっているのかはとりあえず質問するつもりだった。しかし、まだミツルギには気づかれていないであろう思惑が、ハルヒトの胸の中ではくすぶり続けている。
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