第8話 その名前だけは聞きたくなかった

 学園がお休みな日。

 リヒト様とのお茶会の日。


 今日だけは、その存在を忘れられると思ったのに。

 今日だけは、その存在を思い出さないように桃色を使わなかったのに。


 なのにまさか、リヒト様からその名を聞くことになるとは。


 贈り物に浮かれて、気を抜いてしまったのかもしれない。

 カナリエは悪くない。

 けれど、彼らにとっての事件が起きた翌日だ。

 その名は、転入生へと連想してしまうきっかけになり得た。

 それを考慮できなかったことは、ルナリアのミスだろう。


 「光魔法をお使いになられるという御話なら、伺っていますわ」

 「そう。千年に一度現れる希少な存在だ」

 「ええ、ですから平民ながらに我らが学園に転入なされたという噂ですわね」

 「その通りだよ。流石よく知っているね」

 「皆様が知っていることですわ」


 ルナリアは平静を装って、お茶を口に含む。


 「それでは、リーリエ嬢がカナリエ嬢たちに呼び出されたということは?」


 お茶をゆっくりと口の中で転がして、香りを堪能する。

 こくりと飲み下して、それから口を開いた。


 「それは、何のお話でございましょう」


 リヒャルト殿下が、じっとルナリアを見つめる。

 ルナリアはティーカップに落としていた視線を上げた。

 視線が交わって、静かな時間が流れる。


 「昨日の放課後だからね。君が知らなくても無理はないかな」


 リヒャルト殿下は息を吐くと、お茶に口を付けた。


 「何か気にかかることでも?」

 「リーリエ嬢が呼び出されて、暴言を浴びせられたそうなんだ」

 「まあ、そのようなことが?」


 あれのどこが暴言なのか、とルナリアは喉まで出掛かる。

 それをどうにか、ぐっと飲み込んだ。


 「彼女のことは、生徒会長としては勿論、王家としても気にかけていてね」

 「王家、ですか」

 「ああ。千年に一人の逸材という理由で、彼女の生活を無理矢理変えてしまった責を取らねばならない」


 どんな相手にも気配りを忘れない。

 それは殿下の大変素晴らしい魅力の一つですわ。

 転入が国王陛下からのご下命ということも、存じ上げておりますわ。

 そもそも、そうでもない限り平民が入学できるはずがございませんし。


 であれば、王命に従うことは誉れ。

 例え生活にどのような変化をもたらせようとも、粛々と受け入れるが民の努め。

 むしろ、貴族の学園に通えるなどと特別な計らいを受けているのですもの。

 感謝されても当然のこと。

 王家が、ましてや殿下が責任を感じる必要などあるのでしょうか。


 しかし、簡単に民の人生を左右させることができるというご自覚があるからこと故なのでしょう。

 それだけの御力を持っているからこそ、慎重であらせられる。

 それだけの御力を持っているからこそ、責任を感じられる。

 素晴らしいですわ、殿下。


 この国の未来を背負っておられる方は、こんなにも聡明で謙虚でいらっしゃるのね。

 ああ、この国の行く末は安泰ですわ。


 ルナリアは、王太子殿下の素晴らしさに感動を覚えた。


 「彼女には、学園生活を楽しんでもらいたいと思っている」

 「そうなのですね。素晴らしいお心掛けと存じますわ」

 「是非とも、君にも手を貸してもらいたいんだ」


 ルナリアは、危うくケーキフォークを落としそうになった。


 「何故、私に?」


 嫌である。

 いくら殿下の頼みといえども、それだけは絶対に嫌である。


 誉れ?

 ええ、誉れですわね。


 ですが、リーリエ・ソルアに関わることだけは絶対に嫌ですわ。

 私、地の果てまでも逃げる覚悟でございましてよ。


 あら?

 でもそうすると、殿下とお会いすることができませんわね。

 どうしましょう。

 それは由々しき事態ですわ。


 やはりあの女にはご退場願うべきなのでは……?

 

 いえ、そんなことしようものなら破滅するのでした。

 ああもう、どうして私がこんな目に合わなきゃいけないのでしょうか。

 一体何をしたいというのでしょう。

 前世で罪……は、犯していないことを承知しております。

 では、何の業を背負ってしまったのでしょうか。

 人の持つ原罪が私をこうもさせてしまったのでしょうか。

 それとも、オタクの業が深かったのでしょうか。

 ごくごく一般的に推し活をしていただけのように思いますが。


 「君は、淑女の鏡と名高い」


 ルナリアの逃避した思考を、リヒャルト殿下の声が引き戻した。


 「リーリエ嬢は、どうしても貴族のマナーに疎い。今まで触れて来なかったのだから、それは当たり前のことだ」


 疎いのでしたら、大人しくしていれば良いのですわ。

 それを鑑みずに大きな顔をしてらっしゃるから、慎みがないと見られるんですわよ。

 殿下とて彼女の奔放さは感じ取っていらっしゃるから、そのようなお話をされるんでしょう?

 まずは彼女に大人しくしているよういうのがよろしいのではなくて?


 そんな言葉を、ルナリアはタルトに隠して腹に収めた。


 「しかし、君が淑女のふるまいを教えてあげれば身になるのも早いだろう」


 それは、私のふるまいが見苦しいものではないということですか!

 誉め言葉ですわよね、殿下!

 私のこと、そのように見ていただけていたのですね!

 頑張ってきたかいがありましたわ!


 ルナリアは、喜びに飛び上がりそうになった。

 しかし、である。

 教える相手が相手である。


 相手は、宿敵のリーリエ・ソルアである。


 宿敵と言っても過言ではないでしょう。


 リヒト様の興味をこれだけ引いておいて。

 リヒト様の厚意をこれだけ受け取っていて。

 リヒト様の脳内をこれだけ占めていて。


 そして最後には、奪っていくのだ。

 ルナリアの、全てを。


 これを宿敵と言わずして何と呼べばいいのだろうか。


 そんな相手に教えてあげられるものなど在りはしない。

 どれほど嫌悪感を抱いているかなら、懇切丁寧に教えられる自信がある。

 しかしそれは、攻略対象たちのいうところの暴言になってしまうのだろう。


 リヒト様の期待を裏切ることは、私の望まぬところですわ。


 「お尋ねいたしますが、リヒト様」

 「なんだい?」

 「転入の御方は、内向的な性格でいらっしゃるのでしょうか」

 「いや、そんなことはない。むしろ明るく積極的な女性だろう」


 リヒャルト殿下が、ふっと笑み零す。

 ルナリアの口角が引きつりそうになるが、ティーカップで隠した。


 「彼女は、何事にも意欲的に取り組む。その姿勢は私も見習わなくてはいけないと感じているよ」

 「まあ、学園に入ってまだ2日でしょうに。朗らかな御方なのでしょうね」

 「そうだね、本人は雑草根性だなどと卑下していたが、不慣れな環境にもくじけない様は尊敬に値するよ」


 へえ、そうですか。

 ふうん。


 「お言葉ですが、リヒト様」


 ルナリアは、にっこりと笑う。


 「貴族の価値観を転入の御方に押し付けるのは、個性を潰してしまう恐れがございます」

 「それは、どういう意味だろうか」


 リヒト様のお困り顔、大変貴重ですわ。

 ああ、これがゲーム画面ならばスクショ100枚撮るのに。

 そしてありとあらゆる画面の壁紙を、このお顔にするのに。


 しかし、ゲームであっても現実のこの世界。

 スクショはおろか、カメラすらもない。

 なんて悲しい世界なのだろうか。


 「お話を聞くに、快活で明朗なお方なのでしょう。それは、これまでの生活がそのようにさせたのだと推察いたしますわ」


 リーリエ・ソルアは平民の出だ。

 母と二人で暮らしていた。

 貧しいながらも、持ち前の明るさと近所の人々の助けを得て平和に暮らしていた。

 光魔法の使い手であることの重要性を、周囲の人間は知らなかった。


 働いていた食事処で怪我をした騎士に、それを当たり前のように披露したのだ。

 そしてその存在は王家の知るところとなり、学園への転入を求められた。


 そのような筋書きがあったはずだ。


 リーリエ・ソルアは、確かに裕福とは言えなかった。

 それでも周囲の人間に恵まれ、楽しい日々を送っていたのだ。


 それを王家が奪ってしまったと、殿下が感じるならばそれもそうだろう。

 だから最大限の援助をしなくてはいけないと感じるならば、それもまた良いのだろう。


 だけれども。


 「貴族の風習を学ばせることは、その美点を閉じ込めてしまうやもしれませんわ」


 だけれども、それは彼女のそれまでの生活を否定することになるのではないか。


 「学園で過ごせる日々は、あと1年しかありません」


 1年で、我々は卒業してしまうのだ。


 「ならば、無理に周囲に合わせず、これまでに培った性格のままに過ごしていただく方が、楽しんでいただけるのではないでしょうか」


 ルナリアは、そう殿下に進言する。


 ええ、まあ、屁理屈ですわよ。

 貴族と共に過ごす以上マナーを知り、諍いを起こさない方が良いに決まっている。


 だが、ルナリアはリーリエ・ソルアと顔を合わせてはいけないのだ。

 顔を合わせたら、破滅してしまうのだ。

 なんとかして、逃げ切らなければならないのだ。


 ゲーム通りの惨めな死に方など、ごめんなのである。


 「君の考え方も、一理ある」


 暫し考えていた殿下が、顔を上げる。


 ああ、考えに集中して斜め下を見つめてらした時の伏せた瞳が。

 長い睫毛の影が落ちたそのお顔を堪能していたというのに。

 しかし殿下の憂いがなくなることは、喜ばしいことですわね。


 「こちらの我儘で彼女の人生を犠牲にしてしまったと思っていたが、更に犠牲を強いるところだったよ」


 いえ、犠牲でもなんでもありませんわよ。

 彼女の運命は華々しいものだと脚本が決めているのですから。

 むしろ、彼女の犠牲になるのは私なのですけれども。


 しかし、そんなことを言えるわけもない。

 その不満は、お茶の中へと溶かした。

 なんだか苦く感じた。


 「ありがとう、ルナ。君はいつだって、正しい道を示してくれる」

 「そのようなお言葉、私には勿体無いものでございますわ」


 いつだって、道を示してくれるのはリヒト様の方ですわ。

 リヒト様がその名の通りに、道を明るく示してくださるから私は迷わずに進んでいける。

 ただ貴方のことを思うだけで、前へと進んでいける。


 「ああ、残念ながら時間のようだ」

 「この後は、ご政務に入られるのでしたか」

 「うん、出席しなくてはいけない会議があってね。気が重いよ」

 「リヒト様なら、きっと国民のためを思った施策を起こせることでしょう」

 「だといいけれどね」


 ティールームを出て、門まで行く。

 馬車は出発の準備が整っていた。


 「それじゃあ、ルナリア。また」

 「ええ、来週は王宮に伺わせていただきますわね」

 「その前に、学園で会えるだろう」

 「あら、そうでした」

 「はは、君でも抜けてしまう時があるのだね」


 学園でお会いすることはきっと難しい。

 次に会えるのは、定例のお茶会となってしまうだろう。


 ああ、もっと殿下と共に過ごしたいのに。

 ああ、もっとその笑顔のお傍に居たいのに。

 ああ、片時として離れたくはないのに。


 学園での殿下のお隣には、少女の形をした破滅がいるのだ。


 「殿下、本日は誠に感謝申し上げますわ」


 ルナリアが頭を下げる。

 リヒャルト殿下が乗った馬車は、王宮へと向かって走り出す。


 ルナリアは馬車の音が聞こえなくなるまで、その場を動かなかった。





 「はあ、見て、ベル。とても素敵な髪飾りをいただいてしまったわ」

 「そうですね、とてもお似合いだと思いますよ」

 「心がこもってないわ!」

 「もう10度目のやり取りですよ。感慨も薄れていくというものです」

 「私はまったく薄れておりませんわ!」

 「そうでしょうとも、そうでしょうとも」


 ルナリアは、箱の中に置かれた髪飾りを見つめる。

 殿下からいただいた、ルナリアのためだけの髪飾りを。


 「明日、これを付けていきたいのだけれど」

 「ではパールブルーのドレスをご用意いたしましょう」

 「そうよね、やはりあれが似合いますわよね! 迷ったけれど、買っておいて正解でしたわ」


 この春のために新調したドレスの中の1着を、思い返す。

 艶やかな藍色とさぞ相性が良いことだろう。


 「ふふ、明日が楽しみですわね」


 明日はカナリエ様に招待されたお茶会だ。

 また、嫌な名前が飛び交うことが想像される。


 けれど、この髪飾りがあれば大丈夫。

 どのような場所でだって、微笑んでいられるような、そんな気がした。


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