第七章 暁天に吠える ~第三節~

 黄珠が人間であるかぎり、神石としての力を利用することはできない。黄珠の力を利用するには、まず彼女が人間をやめることが必須だった。

「死んだほうがましというような苦痛をあたえ続けるか、さもなくば薬なりと飲ませて魂まで意のままにあやつるか、いずれにしろ相当な荒療治になると覚悟していたが……まさか、貴様がみずから人であることをやめてくれるとはな」

「あぅ……!」

 黄珠は唇を噛み締め、苦痛の呻きを必死にこらえている。おそらく楽嬰の独白など聞こえていないだろう。しかし、それでも楽嬰の舌は止まらなかった。

「まさか天軍の神将を救うために、女神から授かった人間としての暮らしを捨てるとは思いもしなかったぞ。……それとも、さすがにもう人でいることにも飽きたか?」

 楽嬰はのどをさらして高らかに笑った。長い間かかえ込み、腹の底で煮えたぎり続けていた嫉妬の情念が、今になってようやく昇華されつつあるという気がする。過去一〇〇年を振り返ってもかつてない晴れやかな気分だった。

「……はあ」

 さすがに笑い疲れて大きく嘆息し、儀式の詰めに入ろうとした楽嬰は、印を結び直そうとしたところで自分の右手がないことに気づいた。

「――――」

 大きな袖口から覗いているはずの白い右手はなく、代わりにそこからは、白く細い糸が無数に伸び、帯を伝って黄珠の脚に絡みついていた。

「……は?」

 何が起こったのかわけが判らず、楽嬰が目を見開いて固まっていると、がらんと耳障りな音を響かせて、珊瑚の棒が赤い太極図の上に転がった。見れば、珊瑚の棒を掴んでいた左手がなくなっていて、代わりに絹のような白い糸が棒に絡みついている。

「な……え? これは――何だ? 何がどうなっている? どういうことだ!?」

 消滅した両手に痛みは感じない。というより、右手は印を組み、左手は棒を掴んだままだった。少なくとも楽嬰は印を組み棒を掴んだまま――ないはずの両手にはその感覚がちゃんと残っている。

 そこでようやく楽嬰は、自分の両手が白い糸に変じたのだということに気づいた。痛みもなく出血もなく、ただ楽嬰の両手が糸のように細くほどけていくのである。

「なぜだ!? 師よ、これはどういうことだ!?」

「呑天を作るのに必要なものが三つございます」

 振り返った楽嬰の目の前で、虚風祖師が淡々と語り出した。

「――まずは要ともいうべき神石、すなわち文黄珠。これは吞天の刃となります。さらにその力を安定させるための紅珊瑚、こちらはいわば長柄となる部分」

「そのふたつだけではないのか? そのふたつを揃えてこの儀式を終えれば呑天は完成するといったのは師ではないか!?」

「そのほかにもうひとつ、その両者を強力につなぐ膠のごときものがなければならぬのです。刃と柄をしっかりと結びつけておかねば、吞天自身が発揮する力に耐えられませぬゆえ……」

 三本立てた指を一本ずつ折りながら説明した虚風祖師は、そのまま楽嬰を指差した。

「――楼主には、その膠になっていただきまする」

「な……に!?」

「女媧神への信仰の篤さ、思慕の深さの裏返しともいえる、文黄珠に対する異常なまでの執着心と嫉妬心――それを持ち合わせる楼主こそ、神石を捕えて決して逃がさぬ膠の役にはうってつけでございましょう。きょうまでそのようにお育てしてきた甲斐がございました」

「師よ……な、何を、いまさら――新しく生まれ変わった世界で、人々を女神の教えをもってみちびいていくのはこのわたしの役目のはず! 師はそのためにこそわたしに厳しい修行を課してきたのではないか!?」

「孫である楼主に修行を課してきたのは、ただこの日、この儀式のため……人々を教導する必要自体ないのです」

「何をいうか!」

 強引に振り向いた瞬間、ごそりと気味の悪い音がして、楽嬰はその場に膝を屈した。正確にいうなら、膝から下がすべて糸と化して本来の形を失っていた。すでに楽嬰の両手も、肩までほどけて糸の束に変わり、珊瑚と黄珠とをつなぐ“素材”になってしまっている。

「わ、わたしが教え、みちびかねば、人はまた同じ轍を踏むかもしれぬ……大地母である女神への感謝を忘れ、傲慢にふるまい――」

「もうよいのですよ、楼主。……いや、えい

 血の太極図の上に倒れ伏した楽嬰のそばにしゃがみ込み、虚風祖師はいった。

「教導の必要がないというのは……要は新しき世界などというものはない、という意味なのだから」

「……は?」

「新しき世界などない。この世界が滅ぶであろうことは事実だが、その先に新しい世界などやってくることはない。……よしんばどこぞの神がそのようなものを用意したにせよ、それもすぐに滅ぶ。新しい世界ができればすぐにそれを貧道が滅ぼす」

「な、何を……師よ、何をいっている――?」

「まだ思い出せぬか、阿嬰? この名でおまえが呼ばれていた時のことを?」

「そ、それは――」

 もっとずっと幼かった頃、楽嬰は虚風祖師からそう呼ばれていた。天涯孤独の身であったところを、秘めた才を見出されてその弟子となり、修行を積んで神通力を得た少女――それが王楽嬰、八華楼主であるはずだった。

 だが、あらためて祖師からそう問われた楽嬰は、自分の記憶のあちこちに奇妙な齟齬があることに気づいた。そもそも自分はどこで生まれたのか、実の両親は誰なのか。いつどうやって虚風祖師に出会い、引き取られたのか――すべて物心がつく前のことだったといってしまえばそれまでだが、楽嬰はそうしたことを何ひとつとして、かけらすら思い出せないのである。

 代わりに脳裏をよぎるのは、蜘蛛の巣だらけの暗く朽ちかけた堂の中、風雨にさらされてすっかり丸みを帯びてしまった古い女神の石像の下に、ちょうどいい大きさのくぼみを見つけて身体を押し込み、たったひとりで眠っていた頃のおぼろげな記憶だった。

「……違う」

 もう消えてしまった両手で頭を押さえようとして、楽嬰は唇を震わせた。

「あれは、わたしの記憶ではない……そんなはずはない! わたしは――」

「……おまえと出会ったのは、楚の山奥の、人々から完全に忘れ去られた古い廟であったな」

 杖を手放し、虚風祖師が立ち上がる。――いや、そもそもこの老人は何者なのか。かえりみれば、楽嬰は祖父代わりだったこの男のことを何も知らない。判っているのは、自分と同じく、今のこの世が間違っており、それを正さねばならないという強い意志を持つ邪仙だということだけだった。

「あの時のおまえは、親もなく、傷つき、飢え、ただ死を待つのみであったな……そんなおまえが救いを求めてか、あるいは単なる偶然か、女媧の神像の足下に眠っておった。それゆえ貧道は――私は、それを奇縁と考えおまえを助けた」

 そう言葉を続ける虚風祖師の声は、これまでよりもずっと若々しく、はっきりとしていた。とても老人の声ではありえず、楽嬰がよく知る師匠のものでもない。

「――それから私はおまえに名をあたえ、姿をあたえ、そして知恵をあたえた。八華楼主こと王楽嬰を作り出したのはこの私なのだ」

「つ、くられ、た……?」

「そろそろすべてを思い出したのではないか、阿嬰? おまえは先刻、文黄珠を人ですらない石ころ風情といっていたが、そういうおまえ自身、人ではなかったということを。結局はおまえも峰児や穿山と変わらぬのだ。峰児が蜂で穿山が針鼠ならおまえは猫……女媧の股の間で震えて死にかけていた野良猫にすぎぬ」

「――――」

 虚風祖師のその言葉で、それまで堰き止められていたはずの楽嬰の本当の記憶が一気にあふれ出した。

 その瞬間、残っていた女の身体がすべてほどけ、白い糸の束に変わった。

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