第七章 暁天に吠える ~第一節~




 まだ日も昇っていないというのに、きょうもまん寿じゅきゅうには多くの信徒たちが集まっていた。彼らが焚いた線香の煙が細くたなびき、夜明け間近の冷ややかな風に乗って、その独特な香りをここまで運んでいる。

「いかにせいめいせつとはいえ、昼夜を問わずあれだけの数の信徒を入れ代わり立ち代わり集めておるというのは、やはり我々に対しての盾とするつもりなのであろうな」

 はるかな高みから万寿宮を見下ろし、珊釵は、ふだんから愛想のない顔をさらに渋つかせていた。

 おそらく地上にいる人間たちの目には、神将たちの乗る雲の輝きは星々のまたたきのように見えるだろう。しかし、人ならぬ身の楽嬰たちには、すでにこちらがここに待機していることは察知されているはずだった。

「で、どうするのさ、姉弟子? 策はあるんだろう?」

 自分より背の低いさんの頭をぺたぺたと叩くように撫で、せいしゅうが尋ねる。珊釵はさらに表情を渋くし、不詳の弟弟子を振り返った。

「その態度は気に入らぬが……ともあれ体調は万全のようだな」

「まあね。何しろ僕はあちこちの女性たちに愛されているからさあ。とびきり効き目のある仙薬を作ってくれる恋人のひとりやふたり――」

「別に恋人じゃないでしょう? どうせそつきゅうの双子の片割れに作ってもらった薬よね?」

 自慢気な星秀の口上を、天香が冷徹にさえぎった。

「よ、よく知ってるね……いやでも、恋人じゃなくても、いってみればあの子は僕の信奉者さ、うん。だからこそこうして貴重な仙薬を――」

「元気になってもおしゃべりしかせんのならさっさと帰れ。鬱陶しい」

 星秀の脇腹に軽く肘鉄を打ち込み、珊釵はこうじんにいった。

「――蛟仁どの、例のものを」

「はい」

 龍宮から来たという援軍の少年神将は、かかえていた桐の小箱を開けた。

「何です、それ?」

どうてい龍王よりお借りしてきた秘蔵の逸品、すいざんふうです」

「香炉……じゃないの、それ?」

 黄珠の屋敷にも、これによく似た古い香炉があった。無数の峰が連なるさまを模した金属製の香炉で、中で香を焚くと、峰々の間から雲がたなびくようにうっすらと煙が立ち昇るようになっている。

しゅうの民草を我らの戦いに巻き込んでは不憫ゆえ、まずはこれを使う。これがあれば無辜の民を傷つけずにすむのでな」

「へえ」

 星秀同様に下界に興味のなかった珊釵が蘇州の人々の身を案じるとは、ずいぶんと変わったものである。もしかすると先生あたりの影響かもしれない。

 以前の星秀ならそんな珊釵の変化を冷ややかに見ていたかもしれない。しかし、黄珠と知り合った今の星秀にはそれを笑うことができなかった。黄珠が寄り添って見守ってきた人間たちを、ただそこにある小石か何かのように戦いに巻き込んで平然としているのは、何か違うような気がしたのである。

「――具体的には何の役に立つの?」

 東海に浮かぶ幻の仙山を模したという香炉を桐箱から取り出し、蛟仁は説明した。

「この香炉から立ち昇る香気は、吸った者をまたたく間に眠りに落とし、夢現のうちにこの仙山の中に閉じ込めてしまうのです」

「この香炉の中に? 名前呼んで返事をしたら吸い込まれる瓢箪とか、そういうアレってこと?」

「それと似たようなものですが、この香炉の中に閉じ込められた者は、仙境でのおだやかな夢を見続けることになります。害はございません」

「ふーん……」

 星秀は顔を近づけて匂いを嗅いでみたが、何の香りもしないし眠くもならない。

「……眠くならないけど?」

「い、いえ、まだ火を入れておりませんから……」

「じゃ、万寿宮に乗り込んでこれに火を入れて、それで敵をみんなこの中に閉じ込めて任務完了ってわけ? そんな簡単な話?」

「貴様は馬鹿か? 雑魚ならともかく、それなりに力のある妖賊には効かぬわ」

「敵を閉じ込められないんじゃ意味なくない?」

「……星秀ちゃん、もう少しおつむをはたらかせたらどう? 察しの悪い男はもてないものよ?」

 天香が眼鏡を拭きながら、心底呆れ果てたような口調で呟いた。

「その香炉を使って閉じ込めるのは賊ではなく人間よ。万寿宮にいる無関係の人間をすべて眠らせ、香炉の中に取り込んでしまえば、あとに残るのは人ならぬ身のわたくしたちと妖賊どもだけ……そうすればいくら派手に戦っても誰も巻き添えにはならないでしょう?」

「ああ、そういうことか」

「納得できたのなら行くぞ。敵に迎撃の猶予をあたえてもつまらぬ」

 そうげつりんを手にし、珊釵は先頭を切って雲を走らせた。星秀がそれに続き、天香、蛟仁もあとを追う。

「蛟仁どの、万寿宮の上空に着いたらすぐさま香炉に火を入れてくれぬか? 例の血の気が多い蜂女あたりは、信徒がいようがいまいが関係なしに、本官たちに戦いを吹っかけてきそうではあるからな」

「判りました!」

「それと星秀。邪魔っ気な人間どもがあらかた姿を消したら、貴様はぶんおうじゅの救出を最優先しろ」

「えっ? い、いいの、姉弟子?」

「もし老君や太白さまのお考えが正鵠を射ておるのなら、文黄珠を奪還せねば厄介なことになるのは必定……それに、ほかの役目をあたえようにも、どうせ貴様は女のことで頭がいっぱいだろうからな」

 トーゼンだよ! と胸を張って答えそうになり、星秀は咄嗟に口もとを押さえた。

「ならば貴様のやる気がもっとも高まる任務をあてがってやるのが妥当だろう」

「そういうことなら……任せておいてよ、この僕にさ!」

 珊釵を追い抜いて一気に高度を下げた星秀は、夜目にもあざやかな翡翠色の瓦の上に着地した。

「――え?」

 広い万寿宮の境内を提灯を持って歩いていた信徒たちが、まばゆい光の雲に乗って下りてきた星秀たちに気づき、目を丸くしている。人から注目されるのが大好きな星秀は、ここでひとつ大見得を切ってやろうかと思ったが、天の神将の来臨をじょうこうどうの功徳に結びつけられても面白くない。それよりも今は黄珠を捜すのが先決と、本堂の屋根の上から目を凝らしてあたりを見回した。

「ざけんじゃねーよ! マジで乗り込んできてんのか、テメーら!? アタマ沸いてんじゃねーのか!?」

「っと!」

 すぐさま屋根を突き破って、本堂の中から鎧姿の峰児が飛び出してきた。

「――ここに乗り込んでくることのイミ、判ってねーのか!?」

 足元の瓦を蹴散らし、峰児が星秀に斬りかかる。と同時に、星秀を見上げてぽかんとしていた人々が、降りそそぐ瓦の破片に驚いて慌てて逃げ惑い始めた。

「なっ……何なんだよ!?」

「きゃ~~っ!」

ろうしゅさま、おっ、お助けください!」

 壮麗な道観にふさわしい静謐な空気が一転、阿鼻叫喚の悲鳴に塗り替えられた。が、それもすぐに消えていく。

「!?」

 蛟仁が火を入れた香炉をかかえて信徒たちの頭上を高速で飛び回るうちに、あたりにはかすかな酒の香りのする煙が霧のように立ち込めてきた。

「あ……ぅ」

 それを吸った瞬間、人々はその場に気を失ってぱたぱたと倒れ、さらにはその姿がまるで幻か何かのように消えていった。

「おいそこの小僧、テメー、何してんだよ、いったい!? テメーの仕業だよな!?」

「貴様が知る必要はない」

 蛟仁の動きに気づいてそちらに向かおうとした峰児の目の前に、珊釵が割って入った。

「……小娘、今度こそ引導を渡してくれよう。本官の手でな」

「まーたホンカンホンカンうるせーのが来やがった!」

 腹立たしげに舌打ちし、峰児は大きく後方に飛んで叫んだ。

「――出番だぞ! テメーら、楽嬰がくえいサマのためにキリキリはたらきやがれ!」

 峰児の声に応えて、すでに屋根に大きな穴が開いていた本堂を突き崩し、ふたりの巨漢が黒雲を踏んで空に舞い上がった。

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