第六回 人をやめるということ ~第七節~

「それでは太白さま、伍先生、行ってまいります」

「ああ。……しかしまあ、そう気負うなよ? 本当にあやういと思った時には自分たちの身を守ることを優先するがいい。もし間に合うようであれば、私も助っ人を送り込んでやる」

「過度の期待はせずにおきます」

 にこりともせず、珊釵は太白に軽く頭を下げ、天香たちを引き連れて窓から飛び出していった。

「……龍宮から何やら宝具を借りられたとおっしゃっていましたが」

 遠ざかっていく光の雲を窓辺から見送り、伍先生は長い溜息をついた。

「それにしたところで神将が三人というのは、さすがに少なすぎるのでは?」

「私もそう思います」

「それでは太白さま、一刻も早くその助っ人とやらを――」

「判っていますよ。……お手数だが、杏仁茶を用意していただけますか?」

「あ、杏仁茶ですか? それは……はい、可能ですが」

「やや大きめの丼に一杯いただきたい」

 そういいながら、太白は袖の中からてのひらに乗るくらいの小さな瓢箪を取り出した。

「星秀」

「な、何です?」

「鎧の修理をしている暇はないが、すぐに出られるか?」

「え……?」

「太白さま、それは無茶です! 大理星君どのの傷はまだ――」

「先ほどは助っ人を送るなどと見栄を張りましたが、実をいえば、姉上を通さずに借りられる神将はひとりもいないのです」

「は……? ではなぜあのようなことを?」

「助っ人というのはほかならぬ星秀のことなのですよ」

「ぼ、僕ですか!?」

「おまえのことだ、どうせこのままじっとしているつもりはないだろう? 私の目を盗んで、珊釵たちのあとを追いかけようと考えているのではないか?」

「いえ、そんなことは微塵も」

「しらじらしいことをいうな」

 さっそく運ばれてきた湯気の立つ杏仁茶の丼に、太白は瓢箪に入っていた妙な粉末をさらさらと溶かし込んでいった。

「――これはな、淑芳が老君の指示で作った仙薬だ」

「淑芳ちゃんが?」

「勘違いするなよ? 別におまえのために用意したものではない。淑芳が修行の一環として作っていたものを、少し分けてもらってきたのだ」

 ほのかに甘い杏仁茶の香りに、徐々に妙な匂いが混じり始める。もしここにあるのが何かしらの料理であれば、決して食べたいとは思わないような匂いだった。

 星秀はあからさまに顔をしかめ、鼻を押さえた。

「ほっ、本当に薬なんですか、これ? 毒じゃなくて!?」

「淑芳が聞いたら怒るぞ? おまえの胸の傷ぐらいならすぐにでも治せる妙薬だ。天軍で使っている軟膏よりも効果があるし、若干だが体力も回復するという。……唯一の難点は、もううすうす判っているとは思うが、死ぬほどまずい」

「まっ、まさか……これを僕に飲めっておっしゃるんですか? 正気ですか? 本気ですか? 僕に死ねって!?」

「死ぬほどまずいが死ぬわけではない。そもそも薬湯の一杯や二杯飲めずに文黄珠が救えるのか?」

「う……」

 太白が差し出した丼を前に、星秀は鼻を押さえたまま絶句した。太白が振り入れていた粉末の量はほんの少しだったが、それを溶かし込んだだけで、丼になみなみと張られた杏仁茶の香りは完全に消え、今は毒々しいまでの異臭を放っている。

「りょ、量がちょっと多くないですか? 明らかに多い、多すぎますよ……」

「少しでも薬のまずさをごまかすためだ。茶に溶かさず粉のままで舐めたら人間なら即死する――というのは老君がおっしゃったたちの悪い冗談だが、このくらい薄めなければとても飲めたものではないというのは事実だ。いかに良薬でも服用したそばから吐いたのでは無意味だろう?」

「…………」

 星秀は人差し指の先端を薬湯で濡らし、ちろりと舐めてみた。

「……おぐわっ!?」

 味見をして数秒後、星秀は両手でのどを押さえて呻いた。

「にん、苦い! 苦い苦い! 苦すぎる! これなら毒のほうがまだましですよ! これを丼一杯飲めって、も、もはや拷問です!」

「おまえは確か拷問が好きだったろう? なら好都合ではないか」

「僕は美人の悪女を拷問するのが好きなだけで、自分が拷問されるのは好きじゃありませんから!」

「しかし、少し舐めただけで先ほどよりお元気になられた見えますが?」

「い、いわれてみれば……」

「さあ、残りもすべて飲み干せ。決して残すな、吐くな。お前の傷が治るぎりぎりの量を溶かしてあるのだからな。……文黄珠のためだ」

「うっ、ううう……!」

 本気で嫌そうな顔をしながら、星秀は丼を手に取った。

「――のっ、飲めばいいんでしょ、飲めば!」

 そうわめいて一気に薬湯を飲み干した星秀は、空になった丼を卓に置き、両手で口をしっかりと押えた。

「…………」

 そしてそのままたっぷり三〇秒ほどたってから、星秀は卓の上に放置されていたみんなの飲み残しの冷めた茉莉花茶を片っ端から飲み始めた。

「あああああああ! いっ、息が苦い! 口の中がずっと苦い! のども苦い! いくらお茶を飲んでも苦いのが消えない! ひょっとして僕はもう一生この苦さとつき合っていくしかないのか!?」

「大袈裟だな、おまえは……いずれ消えるに決まっているだろう? 作ったのは淑芳でも、処方箋そのものは老君がお考えになったものなのだぞ?」

「それは……まあ、判りますけど」

 眉根を寄せ、渋い表情で自分の息の匂いを確認していた星秀は、しかし、先刻よりも確実に顔色がよくなっていた。呼吸するだけでもつらそうだったのに、今はあれだけ苦い苦いと騒いでも平気な顔をしている。

「大理星君どの、お怪我の具合は……?」

「あ」

 伍先生にいわれて初めて気づいたのか、星秀は自分の胸を押さえて目を丸くした。

「……確かに効き目はすごいですね。もうほとんど痛みも感じませんよ。咳もぜんぜん出ないし……」

「だろう? 今後は、効能はそのままに飲みやすさを追求するそうだ」

「できることなら改良品を飲みたかったですけど」

 何度も深呼吸を繰り返し、星秀は包帯をほどき始めた。

「――とにかく、僕も姉弟子たちを追いかけます! 奥さんを救出するのに、あの面子じゃちょっと不安ですからね! やっぱりここは、天軍にその人ありといわれた三宝浪子、呉星秀がいなきゃ始まらないでしょう!」

「調子が戻ってきたようで何よりだ。頼んだぞ」

「はい!」

 星秀もまた紅玉の鎧姿に変ずると、いきなり室内で雲を起こし、それに飛び乗って窓から飛び出していった。

「……確かに元気になられたようですが」

 ほっと嘆息し、伍先生は卓の上に転がった碗をもとに戻した。

「しかし、本当に大丈夫でしょうか?」

「さて……ですが私としては、この件を契機に、星秀にはひと回り大きく成長してほしいと思っているのです。幼馴染みのことをずっと引きずっているようですし」

「そうですか……」

「ともあれ、私はひとまず天界に戻ります。星秀たちにはああいいましたが、実は最悪の事態を想定し、すでに姉上にはおよその経緯を説明してあるのです。もし星秀たちがしくじれば――」

「……天兵たちが押し寄せてまいりますか?」

「おそらくは」

 もし天軍が大規模な軍勢を派遣すれば、この蘇州が戦いの舞台となり、灰燼に帰す可能性もありうる。それを回避するためには、星秀たちだけで事態を収拾する以外になかった。

 天界に戻っていく太白を見送り、ふかぶかと頭を下げていた伍先生は、やがて自分の私室へと急ぐと、寝台の下から精緻な螺鈿細工のほどこされた細長い箱を取り出した。

「夫差めが寄越したこの逸品、呉国のために使うのがやはり正しいのかもしれん……」

 そう呟き、伍先生が箱を開けると、その隙間からまばゆい光がもれ出てきた。

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