第六回 人をやめるということ ~第六節~

「しかし、石であれ力であれ、それが今は人間になっているというのは……?」

「奥さんは……黄珠は、女媧神が守ったこの世界と、そこに住む、女媧神が生み出した人間というものを、もっと近くで感じてみたい、見てみたいと思ったんです」

 うつむいたまま、星秀は静かに呟いた。

「だから黄珠は、女媧神に頼んで、自分を人間として下界に転生させてほしいと望んだ……その姿が今の彼女なんです。彼女が人間であることをやめたいと心の底から願うその瞬間まで、彼女はひとりの人間として、下界で暮らし続けるんです」

「でも、それなら神仙のひとりとして見守るだけでよいのでは? 何も人間にならずとも――」

「いや、判らなくもないな」

 天香の疑問の声に、太白が溜息交じりにかぶりを振った。

「……私も人のふりをして下界を長く放浪していた時期がある。おかげでほかの神よりは人のこと、下界のことを知っているという自負はあるが、それでも、真の意味で人に寄り添ったかといえばそうではない。……伍先生にはその理由がお判りなのでは?」

「そうですね……人間として生き、死んでから神仙となった私には、その女性の気持ちが判るような気がします」

「どういうことだ、先生?」

「つまり……あなたがたのような生まれながらの神仙には、死に対する恐怖や絶望というものがほとんどないということです」

 もちろん神将をしていれば、ほかの神々よりはるかに身の危険を感じることは多いだろう。ただ、それでも下界の人間とくらべれば、それはやはりないにひとしい。生まれ、生き、そして死んでこその人間だが、ほとんどの神仙たちは、病老死苦からは縁遠い存在なのである。

「生と死を繰り返すことで、文黄珠は人間を理解しようと考えた。そう望む彼女に、生みの親である女媧神が応えた結果、文黄珠は三〇年ごとに人生をやり直すただの人間として、下界に転生したのだろうな」

「では、その文黄珠をあの妖賊どもが狙う意図は何なのでしょう? ひと当たりしたところ、くだんの八華楼主、かなりの力を持った何かしらの化身のようでしたけど」

「そこはやはり本人を締め上げる以外に正確なところは判らないが……これもまた、見当はついている」

「いったい何なのです、太白さま?」

「文黄珠の本性が神石だとすれば……彼女にはこの世界に干渉する力があるはずだ。妖賊はその力を悪用しようと考えているのではないか?」

「世界に干渉する力……?」

 伍先生が呆然と反芻していると、隣に座っていた珊釵が怪訝そうに口を開いた。

「……お待ちください、太白さま」

「どうした、珊釵?」

「ただの人間となった今のその女に、本当にそのような力があるのですか? もしそんな力があるのなら、そもそも妖賊どもに襲われたとて、簡単に撃退できていたのではないかと思うのですが」

「……星秀」

 太白は星秀に向き直って尋ねた。

「そのあたりについて、おまえは何か聞いていないのか?」

「いや、僕は何も……黄珠自身、何となく神仙の気配を察せられること以外に、自分には何の力もないといってましたし――」

「そうか」

「わたくし、思ったのですけど」

「何だ、天香?」

「人間になったことで文黄珠が持つ力が失われたのだとすれば――では、彼女が人間であることをやめた時には、その力も戻るのでは? 心の底からやめたいと思えば、彼女は人間でなくなるのでしょう?」

 天香の言葉の後半は、太白にではなく星秀に向けられたものだった。

「――――」

 星秀は口もとを押さえ、もとから青い顔をさらに青ざめさせていた。

「……どうしたのだ、星秀? 何か思い当たることがあるのか?」

「……あいつ、奥さんをさらってった――」

「? それはもう聞いた。だから今は、さらっていった目的が何なのかを――」

「違う! あの楽嬰って女、奥さんをかかえたまま雲に乗ってさらってったんだよ!」

「何?」

 太白や珊釵たちが同時に驚きの声をあげたが、伍先生にはその理由がよく判らなかった。

「話の腰を折るようですが、それがいったい何なのでしょう?」

こうとん呪で作り出した光の雲には、凡体肉眼の人間が乗ることはできないのですわ。たとえ人間をかかえたまま雲に乗ろうとしても、雲が消えるというか、底が抜けたように本人もろとも雲から落ちてしまうのです」

「――ですからその妖賊も、本来なら文黄珠をかかえて雲に乗ることはできない。にもかかわらず、雲に乗って連れ去ったということは、その時点で、文黄珠はすでに人間であることをやめているはずです」

「だとすれば……今の文黄珠は神石としての力も取り戻しているということになりますわね」

「その力を悪用されてはまた面倒なことになる……太白さま、こうなればもはや一刻の猶予もなりませぬ。本官はこれからすぐにでも、天香と蛟仁どのとともに万寿宮に乗り込むことにいたします」

「それはいいが……その万寿宮には無関係の人間も数多くいるのではないか? それを巻き込むようでは、傍若無人な姉上のやりようと大差ないぞ?」

 伍先生が懸念しているのはまさにそのことだった。大それたたくらみを持つ八華楼主とその一党は倒さなければならない相手だが、そのために蘇州の人々が犠牲になることだけは避けたい。

「すでに策は用意してあります。……ただ、そのことを抜きにしても、我らだけでかならず勝てるという保証はございません。もし我らが戻らなかった場合は、いよいよことは天下の一大事、太白さまのほうから熒惑さまにこの件をお伝え願えればと……」

「私は伝令役か」

「正直申せば太白さまにも助太刀をお願いしたいところではございますが、そのようなことが知られれば、たとえ敵を誅滅したとしても、熒惑さまのお怒りを買うことは必定ですので……」

「まあ、天軍が私に借りを作る、すなわち姉上が私に借りを作るということだからな。姉上なら確かに激怒するだろう」

 楽しげに笑った太白は、珊釵の頼みをこころよく聞き入れた。

「それなら僕も――」

 いきおいよく立ち上がった星秀は、そのとたん、激しく咳き込んで胸を押さえた。

「そうだな。本来であれば貴様も連れていくはずだった。きょう一日おとなしく休んでおれば火傷も完全に癒え、戦力として計算できるだろうと考えておったが……それをご破算にしたのは貴様自身だぞ、星秀?」

 冷ややかに星秀を見つめ、珊釵はその場でくるんととんぼ返りをした。それまで裾の長い衣を着ていた少女が、その一瞬で勇ましい紅玉の鎧姿に変わる。

「本官に投げられてろくに受け身も取れぬ今の貴様なぞ、ただの足手まといにすぎぬ。そのようなざまであっさり死なれては師父に対して本官の面子が立たぬゆえ、貴様はここで指をくわえて待っておれ」

「そ、そんな……僕だって戦える! 僕が奥さんを助けるんだ!」

「残念ね、星秀くん」

 今度は天香が冷たい一瞥とともにいい放った。

「――あの時わたくしが駆けつけていなければ、あなたはとっくに死んでいたはず……そんなあなたが何をいっても無駄よ。珊釵どののいうように、今のあなたでは足手まといにしかならないわ。むしろ邪魔」

 女性陣たちの痛烈な指摘を受けて、青かった星秀の顔がいきどおりのためにさっと赤くなった。

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