第六回 人をやめるということ ~第五節~
「ふだんならわたくしも止めるところですけど、今回ばかりは仕方ありませんわ。珊釵どののお怒りもごもっともです」
「し、しかし――」
「ここ数日の星秀の行動は、明らかに天軍の神将としてのあるべき姿から逸脱しております。それをああして正してやるのは、むしろ姉弟子としての珊釵どののやさしさですわ。もしこの件をそのまま上に報告すれば、池に蹴り落とされるくらいではすみませんもの」
つらつらとそう語った天香の目の前で、珊釵はさらに池から這い上がろうとした星秀をもう一度蹴飛ばし、みずからも池に入ると、星秀の首根っこを掴んで何度も水の中に沈めた。
「がぼばばばばば!」
「何だ? 申し開きがあるなら聞いてやるゆえ、もっとはっきりといってみるがよい。ふだんからよく回る舌はこういう時にこそ使うべきであろうが?」
「あばっ、ばぶぶぶぶ」
「……保命星君どの、あれも珊釵どのの優しさなのでしょうか?」
「ええ、もちろん。我々の上役の逆鱗に触れることを思えば、あの程度の折檻なら恩情といってさしつかえございませんわ」
「ふだんどれだけおっかねえ上役の下ではたらいてらっしゃるんですかねえ……?」
張三郎が気の毒そうな表情で星秀を見つめている。
やがて珊釵はぐったりした星秀を引きずって池から上がると、衣の裾をぎゅうぎゅう絞りながら、倒れたままの星秀を見下ろして冷たくいった。
「まったく……女ひとりのために任務をおろそかにするとは、心底呆れ果てたぞ。これでは
「……な、何?」
大の字になっていた星秀は、珊釵の言葉に首をもたげた。
「おまえの幼馴染みの破軍星は、ラーフ討伐に大功を挙げながら、最後は小娘ひとりのために判断をあやまり、罪を得て下界に流されたのであろう?」
「あ、あいつを……鳳月を馬鹿にしていいのは僕だけだ! いくら姉弟子でもあいつをどうこういうのは許さないぞ!」
はじかれたように立ち上がった星秀が、拳を握り締めて珊釵に殴りかかる。だが、珊釵は身を沈めてその一撃をかわすと同時に星秀の懐にもぐり込み、少年の腕を掴んであっさり投げ飛ばしていた。
「だっ――」
背中から地面に叩きつけられ、星秀は息を詰まらせた。そのまま動けない星秀の頭の横にしゃがみ込み、珊釵は淡々と告げた。
「……破軍星を馬鹿にしていいのは貴様だけだと? 何を血迷うておる? 貴様にそんな資格があるのか? 神将としての功績をくらべれば、誰がどう見ても貴様より破軍星のほうが上であろうが」
「く……!」
「それに、破軍星は自分の神将としての未来を捨てる覚悟で小娘を救ったのだ。神将としては褒められたことではないが、男としては立派といってさしつかえなかろう。……しかるに貴様はどうだ?」
「そ、それは――」
「報告の義務も果たさずまた勝手な単独行動をした挙句、文黄珠を守ることもできず、天香が現れなくば自分の命さえあやうかった貴様が、いったいどの立場から破軍星を馬鹿にできるのだ? 思い上がるな」
「…………」
返す言葉もなく押し黙ってしまった星秀に冷ややかな一瞥をくれ、珊釵は膝に手を当てて立ち上がった。
「――弟弟子の不始末は本官の不徳のいたすところでもございます。本人には深く反省させましたゆえ、
そういって珊釵が頭を下げた先には、明け方近い星空を背負い、黒い衣をかつぐように引っかぶった美男子が、屋敷の軒先に危なげもなく立っていた。
「た、太白さま!?」
眼鏡を押し上げて天香が驚きの声をあげる。それを聞いた伍先生は、咄嗟に張三郎の頭を押し下げ、みずからも慌てて拱手し深く一礼した。
「これはこれは……
「そうかしこまらないでください、伍子胥どの」
ふわりと軒先から飛び降りてきた太白金星は、黒い衣をたたんで小脇にかかえた。
「きょうは別段、何かのお役目があって来たわけではないのです」
「お役目ではない……と?」
「本官はてっきり、星秀の不始末について姉君にご報告なさるためにいらしたのだとばかり思っておりましたが――」
「……おまえは本当によい性格をしている」
皮肉のこもった珊釵の言葉にも気分を害した様子を見せず、太白は笑った。
「と、とにかく中へお入りください。珊釵どのと大理星君どのは、まずは着替えをすませていただいて――」
伍先生は一同を屋敷の中に招き入れ、小間使いたちに客間に席を用意させた。
「――この蘇州で何が起こりつつあるのか、おおよそのところは察している」
特に問われるまでもなく、太白は熱い茶を静かにすすってすぐに語り始めた。
「ちなみにこの件については、姉には調査中だとしか伝えてはいない。おまえたちもまだ報告はしていないのだろう?」
「いまだに敵の詳しい素性について掴めておりませんので」
真新しい衣に着替えてきた珊釵がぼそりと答えた。だが、それは半分本当で半分は嘘だということを、伍先生は知っている。今の時点で統帥府へ報告しようとすれば、おのずと星秀の行動についても伝えなければならなくなるし、それに対して何らかの処分が下されることは間違いない。だから珊釵はあえて報告を遅らせているのだろう。
「――確かに、統帥府への報告はすべてがすんだあとでもよかろう。何しろ熒惑どのは多忙だからな」
「本官もそう考えておりました」
「で、実際のところ、その妖賊どもの正体については本当に何も掴めていないのか?」
「確証はございませんが、十中八九、
「目的は?」
「そちらはいまだに……」
「そうか」
やややつれた顔をしている星秀を一瞥し、太白はうなずいた。
「ところで星秀、おまえは文黄珠が何者なのか、もう知っているのだろう?」
「それは……はい」
「……貴様」
珊釵がぎろりと星秀を睨みつけ、帯飾りを握り締めた。
「本官たちが問いただした時には頑として口を閉ざしておったのに、太白さまのお尋ねにはあっさり口を割るとはなめた真似をしてくれる……ついでにその脳味噌の詰まっていない脳天も割ってくれようか?」
「さ、珊釵どの、どうか冷静に――」
珊釵をなだめる伍先生をよそに、太白はわずかに身を乗り出し、星秀にいった。
「なあ星秀。文黄珠の正体については、実はすでに老君がおよその見当をつけているのだ。私も老君のお考えは答えは間違っていないと思う。だが、もし文黄珠の正体が我々の想像通りだとすれば、事態はかなり深刻だと考えるべきだろう」
「…………」
「星秀……文黄珠の本性は、女媧神が作った
「……はい」
いつになくかぼそい声で、星秀がうなずいた。
「神石……とは何なのです?」
「太古の昔、天地補繕に際して、世界にできた裂け目を封ずるために女媧神が練り上げたという五色の石のことだ」
「確かにそのような伝説を耳にしたことがございますが……」
「天地補繕がすんだあと、たったひとつだけ神石が残った。――もっとも、老君も私も、それが物質としての石だとは考えていない。おそらくこの世界そのものの構造に干渉できる神の力の一部のようなものなのだろう。それが神話として後世に伝えられる過程で、もっと具体的で判りやすい、神々しい色彩を持った五色の石という概念に置き換わったのかもしれない」
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