第六回 人をやめるということ ~第四節~

「……逃げられたわね」

 身を守りながら上空に移動した天香は、あたりを見回して唇を噛んだ。

「あ、あいつ、どうやって……」

 天香の雲の端に座り込んで荒い息をついていた星秀は、血の混じる咳をこらえて小さく呻いた。

「他人の心配をしている場合ではないと思うけど?」

 気づけば天香が冷ややかな目で星秀を見下ろしている。

「――きのう手ひどくやられたばかりだというのに、またひとりで身勝手な行動をしてあやうく死にかけた……珊釵どのに何といって釈明するか、今のうちに考えておいたほうがいいんじゃないかしら?」

「……彼女が僕の釈明なんかに耳を貸すとは思えないけど」

「だからといって何もいわないのは最悪よ」

 星秀の自嘲をばっさりと切り捨て、天香は光の雲の高度を上げて蘇州に引き返していった。


◆◇◆◇◆


 峰児にとっては運のいいことに、楽嬰は穿山の死について深く追求しなかった。それだけ文黄珠を捕らえることができたことが嬉しかったのだろう。裏を返せば、黄珠さえ手に入れば穿山の生死など二の次だったのだともいえる。

 なぜ楽嬰がそこまで黄珠にこだわるのか、峰児には判らない。楽嬰も虚風祖師も、黄珠が何者なのかをいっさい説明してくれなかったからである。しかし、楽嬰の怒りを解くことができた今、峰児にとってはそれもどうでもいいことだった。

 ただ、もし黄珠を手に入れるために命を落としたのが穿山ではなく峰児だったとしても、やはり楽嬰は峰児の死などかえりみず、ただ嬉々としていただろう。それが唯一気になるといえば気になる点だった。

「……余計なことを考えるでない」

 ぼーっとしていた峰児の胸中を見抜いたかのように、虚風祖師が低い声でいった。

ぶんせいが裏切り、穿山が死んだ今、一番そばで楼主をお守りするのはおまえの役目となった。余計なことに気を回すことなく、これまで以上にはげむことじゃ」

「それは……トーゼン判ってます。けど、あの女……ウチの剣を」

「……得物の代わりならいくらでも用意してやる」

 大きな卓の上に並べた無数の石板をじっと見つめていた祖師は、ぶつぶつぼやく峰児を振り返りもせず、懐から取り出した簪を肩越しに放り投げた。

「とと……」

 咄嗟に手を伸ばして受け止めた簪を峰児がひと振りすると、その形はたちまち一本の細剣――空迅突くうじんとつに変じた。つい一刻前に砕けたものと寸分たがわない鋭利な凶器を前にして、峰児はきゅっと目を細めた。

「ありがたいっす!」

「……楼主ご自身が神将どもと正面切って衝突なさった以上、天界もこちらに対してさらに直接的な行動に出てくる可能性が高い」

「ウチ、やっちゃっていーんですよね?」

 真新しい刃の輝きを見つめ、峰児は尋ねた。これまでは目立つことを控えていたが、もし天軍が攻めてきたら派手にやってもいいかという意味である。

「文黄珠を手に入れた今、我が策は一〇のうち九まで成就したも同然……あとは儀式の邪魔さえされねばよい。そのためならいかように暴れても構わぬ」

 ただし――と、祖師はすぐにつけ足した。

「この万寿宮には平時と同じく数多くの信徒を入れることになっておる。それらを傷つけることだけはせぬようにな」

「は? いまさらニンゲンどもに気を遣えってことですか?」

「何も知らぬ無辜の民草がおれば、天軍もおいそれとここへ手出しはできぬということじゃ……要は体のいい人質よ」

「あ、なるほど!」

「それでも神将の何人かはもぐり込んでくるやもしれぬ。警戒はおこたるな」

「はいっ!」

「文静と穿山がいなくなった代わりといっては何じゃが……おまえの下にごくせんごくをつけてやる」

「は? 誰っすか?」

「後ろにいるふたりだ」

「!?」

 祖師の言葉に部屋の戸口を振り返った峰児は、そこにうっそりと立ち尽くしているふたりの大男の姿を認めてぎょっとした。

「い、いつの間に――」

「その両名は、楼主が女媧じょか神にならって無からお作りになられた者どもじゃ。人のようではあるが人ではなく、妖怪でも神でもない」

 どちらが武獄でどちらが戦獄なのかは判らないが、ふたりとも真っ黒い古風な鎧に身を包み、一方は巨大な大刀を、もう一方は方天戟をたずさえている。そしてふたりとも、表情というものをいっさい持っていなかった。

 空迅突を簪に戻して髪に差し、峰児はふたりの巨漢をじろじろと眺めやった。

「何か気味のワリー連中だな……何考えてるか判んねーっていうか、愛想もねーし、あいさつすらねーし……」

「そやつらには心というものがない。言葉もしゃべらぬ。こちらのいうことは理解するが、放っておくと、勝手に近くにいる生き物を何でも食ってしまうのじゃ。……もちろん、それが人間であってもな。それゆえ楼主は、これまでそやつらを人里離れた僻地に留め置いておられた」

「は!?」

 人間も含めて生き物を何でも食うと聞いた瞬間、峰児は大きく飛びのいて祖師にうったえた。

「い、いーんすか、そんな厄介な連中をここに呼んじまって!?」

「よい。信徒どもに手を出さぬようおまえが目を光らせておけばな。神将どもが攻め寄せてきた時には大いに役に立ってくれるじゃろうて」

「い、一応お聞きするっすけど……ウチのメーレーにはちゃんとしたがうんすよね、コイツら?」

「そのようにいい聞かせてある。安心するがよい」

「そりゃよかったっす……」

 ほっと安堵の吐息をもらした峰児は、大男たちの胸を気安げに叩き、

「――そんじゃオメーら、ウチについてこい! 奥の院の見回りだ!」

 何をいっても返事をしない戦士たちをしたがえ、峰児は先に立って歩き出した。

 すでにその時には、楽嬰にとっての自分がどんな存在なのか悩んでいたことすら、峰児の頭からは綺麗さっぱり消えていた。


◆◇◆◇◆


 あらたな胸の傷の手当がすんだとたん、星秀は小柄な姉弟子の手で窓から庭先へと放り出された。

「ぶっ――」

「……独りよがりなところはまったく変わらぬな、小僧」

 庭に転がった星秀を追って窓から飛び出してきた珊釵は、さらに星秀の尻を蹴飛ばして池に叩き込んだ。

「ぎゃばっ」

 派手な水飛沫とともに池に蹴落とされた星秀を見て、先生は慌てて天香にいった。

「ほ、めい星君どの、早く珊釵どのを止めてください!」

「申し訳ございません。伍子胥ししょどのの鯉に何かあれば、責任を持って天軍のほうで弁償いたしますので」

「こ、鯉の話をしているのではございません!」

「そうでやす! 大理星君さまは、まだ肺に開いた穴がふさがってねえんですぜ!?」

 そばにいた城隍神の張三郎や、龍宮から助っ人に来たという蛟仁も、珊釵のやりように眉をひそめている。

「部外者の私が差し出がましいとは存じますが、大理星君どのを戦力として計算するのであれば、ここはひとまずゆっくり休養していただくべきなのでは――?」

「あの程度の傷ならすぐにふさがりますわ。現に、きのう負った傷や火傷はほぼ治っておりますし」

「そ、それはそうかもしれませんが……」

 確かに天軍で使っている傷薬の効き目は絶大だった。だが、それは単に傷がふさがっているだけの話であり、戦いの中で大量に失われた血は取り戻せていない。それに、本来なら何日もかけてふさぐはずの傷を急激にふさぐために、少なからず肉体に負担がかけているのは明らかだった。本当ならもう二、三日はゆっくり休んで体力の回復に努めるべきだろう。

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