第六回 人をやめるということ ~第一節~




 俗に東海に五神山あるという。

 五神山とは、東の海の彼方にあるとされる神仙たちが住まう五つの神山のことで、諸説あるが、おおむね蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅうたい輿員嶠いんきょうのことをいう。山と称してはいるが、実際には小さな島である。

 このうちの岱輿山は、かつてろうくんによって封印された女妖仙もろとも海中に沈められ、つい最近――十数年ほど前にふたたび姿を現したという。

 虚風きょふう祖師そしが、その岱輿山に司馬穿山を送り込んで持ち帰らせたのが、長さ一丈ほどもある立派な紅珊瑚の枝であった。ごつごつした多孔質の珊瑚は、それでもほぼまっすぐに伸びていて、人が握るにはややもてあますほどの太さがある。

「…………」

 長大な珊瑚の枝を片手で掴んでかるがると振り回し、楽嬰がくえいは祖父に尋ねた。

「確かに軽い……が、このままではもろすぎて使い物にならぬのではないか?」

「さればこそ、ひんどうのひと工夫が必要になりまする」

 祖師は羊の角を柄に使った短刀を引き抜き、その刃で珊瑚を少しずつ削り始めた。

「――天地が開けてより、岱輿山は長らく天地の精髄を集めてまいりました。それが海中に没して幾星霜、神山がたくわえた精髄を逆に吸い上げて成長したのがこの珊瑚なのでございます」

「確かに……この珊瑚からは力を感じる」

 祖師の手もとを見つめ、楽嬰はうなずいた。

「この珊瑚に秘められた力は、“呑天どんてん”を安定させるためには必須となります。これがなくば、いかにあの女を手に入れようとも――」

「…………」

 能面のように強張っている楽嬰の表情に気づいたのか、祖師は短刀を持った手を止めた。

ろうしゅ、今は抑えてくだされ。あの女を憎むお気持ちは重々承知しておりますが、儀式がすめば塵すら残さず消える存在……もとより楼主がお気になさる相手ではございますまい?」

「師よ。いまさらそのようなことをおっしゃるな。わたしをこう育てたのはほかでもない、師ではないか」

「それは……」

「別にわたしはそれを恨んではおらぬ。むしろ感謝しているのだ。師の教えがなければ、わたしは何の才もなく、それこそただあの女を妬むだけの小娘で終わっていただろうからな」

 毅然といい放ち、楽嬰は祖父の部屋をあとにした。

 楽嬰が幼い頃から修行に打ち込み、才能を開花させることができたのは、間違いなく黄珠という女に対する嫉妬の念あればこそだった。だから、いまさらそれを抑えるつもりはない。

 もちろん、楽嬰には自分の嫉妬を御す自信がある。そうでなければ、とうの昔に黄珠のもとへみずから乗り込み、八つ裂きにしていただろう。そうしなかったのは、彼女を殺してしまっては、黄珠が理想とする世界を現出させるのが、さらに数十年単位で遅れてしまうと判っているからだった。

「ここまで耐えてきたのだ……しくじりはせぬ」

 自分自身を鎮めるように呟いた楽嬰は、その刹那、卒然と感じるものがあった。

「――!」

 楽嬰は足早に自分の部屋に戻ると、卓の上の水盆に孔雀の羽根を浮かべて盆の縁を指でなぞった。

「これは……まさかあの女、なぜ今頃――」

 眉を震わせてひとりごちた楽嬰は、羽扇を握り締めて窓から飛び出し、たちまち黒雲を起こして空に舞い上がった。

「なぜかは判らぬが、千載一遇の好機には違いない……逃さぬぞ、おうじゅ……!」

 人の目には捉えられないほどの高みまで一気に駆け上がり、そこから北東へ進路を取った楽嬰は、口もとに歓喜の笑みを張りつけて快哉をあげた。


◆◇◆◇◆


 真新しい衣に着替えている黄珠の後ろで、せいしゅうは彼女の長い髪に櫛をすべらせていた。さらりと手触りのいい彼女の髪は、提灯の揺らめく明かりを跳ね返してつやつやと輝き、さながら天漢のごとき美しさを見せている。

「……こんな髪型ってどう?」

 寡婦という立場をわきまえているからか、黄珠はいつもおとなしい髪形をしていた。それが似合わないというわけではなかったが、星秀はもう少し華やかに飾ってもいいと思っている。だから星秀は、黄珠の長い髪を綺麗に編み込んで輪を作り、飾り紐と簪で高く結い上げた。

「お器用でいらっしゃるのですね」

 鏡越しに自分の髪の変化を目の当たりにし、黄珠が感心しきりといった様子で呟く。

「――いつもこうやってどなたかの髪を結ってさしあげておられるのでしょう?」

「実はそうなんだって見栄を張りたいところだけど、あいにく、なかなかそれを許してくれる人はいなくてね」

 背後から黄珠の肩を抱き、星秀はその耳もとでささやいた。

「――実はこれ、自分の髪で練習したんだよ。ちょっと前、僕も美少女だった時期があってさ」

「……はい?」

 肩にかかる星秀の手に触れ、黄珠が怪訝そうに振り返った。

「本当だよ、本当だからね? 以前、任務の途中で悪い奴に捕まって、女の子にされちゃったことがあったんだよ。それはそれは自分で見惚れるほどの美少女でさあ……で、しばらく男に戻れなくて、これはもう天界一の美少女として暮らすしかないって腹をくくったもんだよ」

 黄珠が星秀のその言葉を信じたかどうかは判らないが、髪型の仕上がりには満足しているようだった。

「星秀さまは日々世界中を飛び回って、さまざまなものを見ていらしたのですね」

「まあ、妖怪とかならたくさん見てきたかな? 任務の大半はそういう不埒な輩の討伐がほとんどだし、任務がない時は天界でのんびりしてるわけだし」

 今にして思えば、星秀の日常は本当にその二色で塗り分けられていた。非番の日に世界を見て回ろう、見聞を広げようと考えることもなく、ただ漫然とすごしていたように思う。もしかするとそれは、最初から長い寿命を約束されている神仙としての傲慢さだったのかもしれない。三〇年刻みの人生を繰り返す黄珠が、さまざまな土地に生まれ変わり、そこで暮らす人々の姿を見つめ続けてきたのとは真逆だった。

「――――」

 何もないところから生み出した薔薇を黄珠の髪に差した星秀は、その手を止めて廟の外に目をやった。

 いつの間にか、小雨が降り始めていた。夜明けにはまだ遠いのか、静かな山中の闇に、しとしとと降り続ける雨音だけが響いている。

「……星秀さま?」

 星秀が不意に無言になったのに気づき、黄珠の声に不安の色がにじんだ。

「……奥さんはここにいて」

 廟の中に黄珠ひとりを残し、星秀は外に出た。

 森閑とした夜の山の中に、何者かの気配を感じる。殺意、敵意といってもいい気配だった。

「未熟、未熟だね。未熟といわざるをえないね。姿を隠していたってバレバレだよ、おまえたち」

 襟もとから引き抜いた縫い針をらいせんに変え、星秀は静かに身構えた。

「……だいたい、美男美女の逢瀬を邪魔するだなんて何考えてるんだ? 無粋、無神経、罪深いにもほどがある」

「先日は尻尾を巻いて逃げだしたくせに、ずいぶんと威勢がいいな、小僧……」

 闇の向こうからぬっと姿を現したのは、穿山せんざんとかいう猫背の男だった。自分の身長に匹敵するほどの巨大なろうぼうをかつぎ、暗い目で星秀を見据えている。

「昔のぼくならそれで怒ってわめいたんだけどね……何だっけ? 僕も少し勉強したんだ。男子三日会わざれば、とかって言葉があるらしいね? それだよ、それ。安い挑発には乗らない。乗らないよ。乗るわけないよね? ――ほら!」

 視線はあくまで穿山に向けたまま、星秀は素早くその場から横に飛び、何もない空間をぼうで薙ぎ払った。

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