第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第七節~
「くだんの文黄珠は?」
「今頃は星秀が捜しておるじゃろう。本人から話を聞くことができればはっきりとするのじゃが――何じゃ、太白? どうした?」
「……ふと思ったのですが」
「何じゃ?」
「前にも少しお話した、あちこちで古い廟が荒らされているという例の事件、あれも何か関係があるのではありませんか?」
太白も小耳にはさんだ程度なので、事件の詳しいところまでは知らない。ただ、荒らされた廟はいずれも今の人々からはとうに忘れ去られたような、古い神々を祭ったものではなかったのか。
「ありえるやもしれぬな」
太白は立ち上がり、拱手して一礼した。
「そのあたり、姉からもう少し詳しい話を聞いてから、星秀たちにも知らせにいこうと思います」
「そうじゃな……瓢箪から駒ということもあるやもしれん」
太白と老君が揃っていだいた懸念が現実のものとなれば、ことは二、三人の神将だけでどうにかできる問題ではない。天軍統帥府の長たる太白の姉にも話を通しておいたほうがいいだろう。
太白はあれこれ理由をつけて自分を引き留めようとする淑芳の目をかいくぐり、足早に兜率宮をあとにした。
◆◇◆◇◆
沈黙が重い。
長い黄珠の告白を聞いたあと、さらに長い沈黙がふたりの肩に降り積もっていた。
「ああ、そうか」
じっとうつむき、特に意味もなくきしむ床を指でこつこつ叩いていた星秀は、いまさらのように顔を上げた。
「――もしかしてここ、女媧神の廟?」
「はい。今はもう、参拝に訪れる人もいなくなってしまいましたけど……」
おそらく黄珠は、この廟の往時のにぎわいを実際に見たことがあるのだろう。その口ぶりはどこか淋しげだった。
「ただ、女媧神を祭るっていうことなら、何かこの近くにあるよね? え~と……神蛇浄光道だっけ? 何か仰々しいのがさ?」
「……はい」
「奥さん的には、ああいうのはアリなの? それともナシ?」
「彼らは……自分たちに都合のいい教えを広めるために、女媧神のお名前を利用しているのだと思います。いずれ女媧神がこの世界のすべてを洪水で押し流すだなんて、そんなはずあるわけないのに……」
「まあ、まともな連中じゃないのは確かだよね」
「女媧神はただ、ご自分が生み出した人間たちがこの世界でどう生きていくのか――それを眺めていたいだけなのだとおっしゃっておりました」
「それはあなたもなんでしょ、奥さん?」
「……ええ、そうです」
この世界に生きる人間たちを生み出したのは女媧神だといわれている。泥をこねて生み出された最初の人間たちがこの世界に配され、そして長い年月のうちにここまで数を増やした。その意味では、女媧こそがすべての人間たちの“母親”といえる。
「わたしは……女媧神がいとおしむ人間というものをもっとよく知りたいと思いました。女媧神が彼らを神としての高みから見守るのであれば、ならばわたしは、わたしも人間として、彼らの行く末を見守りたいと――今にして思えばただの気まぐれだったのかもしれませんけど、ともあれ女媧神はわたしのその願いを聞き入れ、わたしを人間にしてくださったのです」
「そうか……」
女媧が人間を作ったのがいつのことなのか、星秀には判らない。正確に知る者はおそらくいないだろう。何千年前か、もしかするともっと昔のことかもしれない。
その頃から、黄珠は人間として人間たちの中に生まれ、三〇年の命をまっとうして、そしてまた別の場所に黄珠として生まれ変わることを、ずっと繰り返してきた。それは、天界の住人にとっても気の遠くなるような年月だったに違いない。
「あなたはそれを後悔してるわけ?」
「いえ、していません……自分でいい出したことですし」
「本音は?」
「……しています。今は」
黄珠は軽く鼻をすすり、星秀を見やった。
「ほんの半月前までは、後悔など微塵もございませんでした。三〇年ごとの人生を何度も繰り返すことも、さまざまな土地でさまざまな人々の暮らしを見ることも、大きな歴史の流れを目の当たりにすることも、すべてわたしが望んだこと……後悔などあろうはずがありません」
「だったら泣くのはやめたら? 確かにあなたは泣き顔も綺麗だけどさ」
「星秀さまが悪いのです」
「僕?」
「星秀さまにお会いしなければ……わたしはこの生き方を、後悔することなどなかったのです」
「……そっかー」
星秀は溜息交じりにうなずき、肩を落とした。
「前々から思ってはいたけど、ほんとに僕、罪作りな美少年だよね。罪深いまでのこの美貌と才智、それに天軍きっての腕利きときてるし」
星秀の自画自賛の言葉に、黄珠が小さく噴き出した。
「星秀さまは、きっと一〇年後にもそんなことをおっしゃってるのでしょうね」
「進歩がないっていいたいの?」
「いえ……」
本当は黄珠が何をいいたいのか、星秀にはちゃんと判っている。
一〇年前、星秀は、幼馴染みの
ただ、黄珠にとっての一〇年後は、今から予想できる“晩年”だった。一一年後に死ぬことが決まっている黄珠の一〇年後は、身の回りを少しずつ整理し、死に備えている頃だろう。
そして、次に黄珠がどこに生まれ変わるかは星秀には判らない。黄珠自身にも、生まれてみるまで判らないのだという。
「きっと奥さんは、次もまたすごい美人に生まれ変わるんだよね」
黄珠の背中に流れる長い髪を手に取り、指に絡めていじりながら、星秀はいった。
「奥さんくらいの美人なら、男たちが放っておかないだろうね。子供のうちから許嫁が決まったりして、いずれは結婚して、子供ができて――そしてまた三〇で死んじゃうわけか」
口を開くたびに胸がずきずきする。火傷はもう治ったはずなのに、それよりも嫌な痛みが広がっていくような気がした。それは、明らかに嫉妬から来るものだった。
「……ありえない。ありえないな、ありえないよ」
星秀にとって、嫉妬というのはもっとも縁遠い感情のはずだった。そちこちで美女に声をかけ、手を出すことはあっても、向こうにその気がなければ深追いしないのが星秀の信条である。たとえ相手の女がほかの男を選んでも、あるいは伴侶がいながら自分と火遊びをしているのだとしても、その男に対して嫉妬することはない。ひとりの女にそこまで深入りしないせいもあるが、何より星秀は、そうやって割り切れる自分が恰好いいと考えているからである。
だから星秀は嫉妬しない。女をめぐってほかの男に嫉妬するのはもてない男のすることであり、自分にはふさわしくない――だから自分は嫉妬はしない、絶対に嫉妬すまいという信念をもって三宝浪子をやっている。
しかしその星秀が今、どこの誰かも判らない男に激しく嫉妬していた。それもひとりふたりではない。
「…………」
気づけば星秀は、黄珠の髪の先端を自分の爪といっしょにかじっていた。自分でも苛立ちが抑えられなくなりつつあるのが判る。
「……何で僕じゃないんだ?」
「星秀さま……?」
「どうして僕じゃないんだ――」
この先、生まれ変わるたびに黄珠が出会うであろう未来の恋人、未来の夫たち――何十、何百、何千という男たちに、星秀は激しく嫉妬した。人間でない自分では、決してその男たちのひとりになれないと判っていたからである。
「星秀さま」
不意に星秀の頭が抱き寄せられた。
「もし……もし星秀さまが人間だったら――」
「……僕が?」
「あるいは、わたしが……人間でなかったら――」
「――――」
黄珠の胸に抱かれたまま、星秀は顔を上げ、深い夜の闇を思わせる彼女の瞳に見入った。
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