第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第六節~
「いえ、わたしはもともと人の姿すら持っていなかったのです。今のこの姿はおかあさまがくださったものなのです」
「僕もさ、きみのことが気になって、ちょっと知り合いに調べてもらったんだけど……きみ、三〇歳になるとかならず死んで、すぐにまた別の場所に生まれ変わるんでしょ? 生まれ変わる前のことは覚えてるの?」
「はい。一応は……」
「そういうのを何回くらい繰り返してるわけ? 一〇回どころじゃないんだよね?」
「はい」
黄珠は廟の中を見回し、そっと壁に手を触れた。
「そういえば……この廟が最初に建てられた時にも、わたしはここにいました」
「え?」
黄珠の言葉が本当なら、彼女は少なくとも三国時代――一〇〇〇年前にはすでに生まれていて、そこから三〇回以上生まれ変わりを繰り返してきたことになる。
「それってぼくよりずっと長生きしてるってこと? おねえさん? おねえさんだよね、それ?」
「三〇年ずつの人生をつながったものとして見るなら……ええ、そういえなくもないかもしれません」
「そもそもの話、きみのおかあさんていうのは何者なの? あの白い衣の少女がそうなんだよね?」
「あのかたは、今の世に生きる人間たちを生み出したおかた――女媧神なのです」
◆◇◆◇◆
ふたたび兜率宮に老君を訪ねた
「……これはどういうことだ、淑芳?
老君の部屋には足の踏み場もないほど大量の書物が散乱していた。虫干しを終えた書物はすべて書架に戻されたはずなのに、なぜまたこんなふうになっているのか太白には判らなかったが、少なくとも、淑芳の不機嫌さの理由はここにあるのだろう。
「何を調べてるんだか知りませんけど、すぐにまた引っ張り出して散らかすくらいなら、いちいち書架に戻さずに部屋の隅っこにでも積んどけばよかったんです! これをしまう時は老師おひとりでやってくださいね! わたし、絶対に手伝いませんから!」
突き放すようにそういった淑芳は、運んできたお茶を卓の端に置くと、きびすを返して部屋から出て行ってしまった。
今の淑芳には触れないほうがいいと察した太白は、手ずから青磁の碗に茶をそそいで老君の前の置いた。
「……何があったのですか、老君?」
「いや、いささかな……」
淑芳が出ていった扉のほうを一瞥した老君は、読みかけの書物を裏返して伏せると、太白を手招きして窓辺に移動した。
「話せば長くなるのだが、星秀のヤツが面倒なことに首を突っ込んでおるらしい」
「星秀が? しかし、あの子の今の任務は――」
「その任務と関係のあるようなないような……まだはっきりとはいえぬのだが」
誰にはばかることなくいいたいことをいってのけるこの老人にしては、何やら口が重い。太白はまたもや首をかしげ、あたりに放置されていた書物を拾い上げた。
「これはまた、ずいぶんと古い時代の地理書を……」
「太白よ。おぬし、天地補繕がどこでどのようにおこなわれたか知っておるか?」
「天地補繕……ですか?」
何とはなしに散乱していた書物を重ねて積み上げていた太白は、老君の唐突な問いに首を振った。
「いえ、天地補繕がおこなわれた頃、私はまだ生まれておりませんでしたし、具体的なことは何も……というより、その頃には天界の住人たちの大半が生まれていなかったのでは?」
「そうじゃな。そもそも天界すらなかった時代の話じゃ。ワシも玉帝もまだ生まれておらぬ。ワシらははるか太古にそのようなことがあったと知識では知っておるが、実際にそれを目の当たりにした者は、おそらくもうこの世界にはおらぬじゃろう」
「ほかならぬ女媧神ならご存じでしょう。天地補繕を執りおこなったご本人ではありませんか」
この世ができてしばらくたった頃、何が原因だったのかは判らないが、唐突に世界が壊れかけたことがった。空は傾き、大地は割れていたるところで炎が噴き上がった。獰猛な怪物たちが世にあふれて弱き者たちを食い散らし、かと思えば洪水が起こって何もかも押し流していく――そんな破滅に瀕した世界に救いの手を差し伸べたのは、太古の神のひとり、女媧だったという。
「女媧は巨大な亀の脚を切って空をささえる柱とし、黒龍をはじめとする怪物たちを斬って鎮め、さらに五色の神石を練って世界の欠けた部分を補った……まあ、いかにも神話っぽい脚色がほどこされておるのじゃろうが、おおむね天地補繕とはそのようなものだったとされておる」
「天地補繕についてお調べになっているのですか? なぜまた急に……」
「つい最近な、ワシは女媧に会った。会ったと思う」
窓の向こうの中庭をぼんやりと眺め、老君は呟いた。
「は……?」
「あれが本人であったかどうかはワシにも判らんが、まあ、本人じゃろうな」
「じょ、女媧神にですか? ですが、女媧神はもう何千年もの間、人はおろか私たちの前からも姿をお隠しになっておられるのでは……」
「じゃからな、にわかには信じられんかったのじゃ」
「だ、第一、なぜ女媧神が老君のところへ?」
「そこで星秀の話が出てくるのじゃがな」
茶をひとすすりし、老君は文黄珠なる人間の女について調べるため、わざわざ冥府まで出向いた件について語った。
「……星秀が下界で出会ったその女について調べようとしたら、女媧神らしき少女が現れて、老君に警告した……ということでしょうか?」
「うむ。あれはおそらくそういうことじゃろう。さらには秦広王のあのいいようじゃ。ワシにも玉帝にも決して打ち明けてはならぬと十王どもに命じられる者がおるとすれば、太古の神々のほかにおらぬわ」
「その白衣の少女が女媧神だったとして――なぜ女媧神は、文黄珠の生まれ変わりについて十王たちに指示など出したのでしょう? 天地補繕のあと、女媧神は、もはやこの世界はあらたな神々と人間たちのものであるとして、ほかの太古の神々たちとともに姿をお隠しになり、以来、いっさいの干渉をせずにおられたのでは?」
「ワシもそう思っておった……じゃからそれゆえに、文黄珠という女が気になってな」
老君は卓のところへ戻ると、さっきまで読んでいた書物を開いた。
「……天地補繕に際し、女媧は五色の
「世界の欠けた部分を補う神石……ですか」
かつて魔神ラーフは、この世界と別の世界をへだてる次元の壁に大きな穴を開け、無数の世界を強引に融合させようとした。おそらく天地補繕の逸話も、複数の世界をへだてる次元の壁に何らかの理由で生じた穴を、女媧が神石と称する何かしらの道具をもちいてふさいだことを語っているのだろう。
太白はしばし考え込み、ふときざした疑念を口にした。
「その最後に残った神石は、今どこにあるのでしょう? 神石に次元の壁に干渉する力があるのだとすれば、使い方いかんによっては――」
「ワシもそれを懸念しておる。今になって女媧が姿を現したのは、その懸念が現実のものとなる恐れがあるからではないのか? そして、神石の行方を文黄珠もまた知っておるとすれば――行方を知らぬとしても、何らかのかかわりがあるのだとすれば、文黄珠を放っておけという女媧の警告も判らなくはない」
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