第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第五節~
「ですが、だとすると、なぜそのような古き神が、文黄珠の生まれ変わりなどに口を出してくるのです?」
「……判らん。いささか引っ掛かることはあるが、詳しく調べてみんことには何ともいえぬでな」
老君はふと足を止め、
「ここから先はワシが調べを進めよう。おぬしは下界に急ぎ、星秀を押さえておけ。あやつが勝手に動いたのでは話がややこしくなる」
「……判りました。では、よろしくお願いいたします」
一礼して走り去っていく天香を見送り、老君は嘆息した。
「これは存外に……面倒な話になりそうじゃな」
◆◇◆◇◆
光の雲に乗って空を飛んでいこうとすると否応なく目立つ。星秀は清蘭からあずかった荷物を背負い、蘇州郊外の山に自前の足で分け入っていた。
「……本当にこんなところにいるわけ? 人間の女の子がひとりで来るような場所じゃないと思うけどな――」
提灯を片手に、邪魔っ気な下生えを雷閃蛇で無造作に刈り取りながら、深夜の山を登っていく。すると、星秀の足元に、摩耗しきった石段の残骸めいたものが現れた。
「この先か……どれだけほっとかれたんだ? まあ、参詣に訪れる人間がいないんじゃ仕方ないけど」
溜息交じりにひとりごち、星秀は石段の名残をなぞるようにさらに上を目指した。
この山の頂上近くにはかなり古い廟があるという。三国時代の孫権の孫だか曾孫だかの命で建てられたというから、もう一〇〇〇年も前のことになる。
もっとも、一〇〇〇年前に建てられた廟がいまだに残っているとは思えないから、そのあと何度か建て替えられたりということはあったのだろう。ただ、いずれにしてもここ数十年に関していえば、そこまで参詣する者はほとんどいないという。
「……というか、よく登ったよな、ここ」
勾配はさほどではなくとも、とにかく足元が悪い。少し雨が降ればぬかるむであろう地面の上に、足元が見えないほど重なり合った下生えと灌木――たとえ筋骨隆々の狩人であっても、ここを登るのは苦労するだろう。女の身であればなおさらのはずだった。
「さもなきゃ、誰かに運んでもらった、か――」
いい加減地道に登っていくのが面倒になり、今からでも雲を使って飛んでいってしまおうかと思った時、星秀の視界が開けた。
「…………」
暗緑の苔におおわれた岩壁を背にして、小さな小屋ほどの大きさの廟がぽつんと建っていた。かつてはあざやかな朱に塗られていたはずの壁や扉は見る影もなく、あちこち壊れて穴だらけになっている。瑠璃瓦もあらかた失われていて、あたりにその破片がわずかに散らばっていた。このままあと何十年かすれば、この廟も完全に朽ち果て、緑の木々におおわれて、その痕跡を捜すことさえ難しくなるかもしれない。
「奥さん」
星秀は背中の荷物を揺すり上げ、雷閃蛇をしまって廟に近づいた。しかし返事はない。
「着替えと食べ物を持ってきたよ。清蘭ちゃんがきみのことを心配しててさ。ここにいるかもしれないって教えてくれたんだ」
廟に歩み寄り、もはや扉の役目を果たしていない扉を引き開ける。
「……ご無事だったのですね、星秀さま」
もはや本尊も祭壇も残っていない、せま苦しい闇の片隅でじっと膝をかかえていた文黄珠は、星秀を見てかすかに微笑んだ。衣は薄汚れているものの、こうして見たかぎりではどこも怪我はしていない。
大袈裟に肩をすくめた星秀は、壁に開いた小さな穴に提灯の柄を差し、黄珠の隣に腰を下ろした。
「いまさらだなあ。僕が天軍の神将だってこと、知ってたんでしょ?」
「いえ……あなたがただの人間ではないということは、最初にお会いした時から存じておりましたけど、神将さまだということまでは――」
「あ、そうなの?」
「はい」
「ま、いいけど。……で、どうして屋敷に戻らなかったわけ?」
「わたしが戻れば、また清蘭たちに迷惑がかかるのではないかと――」
「あー……清蘭ちゃんの予想通りだね」
星秀は背中の荷物を下ろして黄珠の前に広げた。
「その清蘭ちゃんから頼まれてね。きみの着替えと簡単なお化粧道具と――あと、饅頭。お茶もあるよ」
「わざわざお手数をおかけいたしまして……」
「お礼なんていいんだよ。……そもそもあの時、ぼくの手当をしてくれたのはきみなんでしょ? きみだよね?」
「……はい」
小さくうなずいた黄珠は、前に見た時よりも少し薄着になっていた。負傷した星秀の傷口に巻かれていた布は、彼女が自分の衣を細長く裂いたものだったのだろう。
やわらかい提灯の明かりが照らすがらんとした廟の中で、星秀はときおり黄珠の横顔を見つめながら、あの時の自分の記憶を振り返っていた。
「夢だったのか現実だったのか、自分でも確証を持てないんだけど、きみ、あの時、誰かと話してなかった? 白い衣の……女の子だった気がするけど」
「…………」
「きみたちが話してたことの意味はよく理解できなかったけど、きみがその子のことをおかあさまって呼んでたことは不思議と覚えてる。きみの妹くらいの年頃の子なのに、どうして母親なのかなって」
「…………」
「きみのことというか、きみがふつうの人間じゃないってことは、清蘭ちゃんから軽く聞いたよ。うん、聞いた。でもさ、僕としてはきみの口からちゃんと説明してもらいたいんだよね。話したくないなら無理には聞かないけど……」
「いえ……」
ずっと無言を押し通していた黄珠が、弱々しく首を振った。
「星秀さまがあのような傷を負ったのも、もとはといえばわたしのせい……わたしの口からご説明するのがすじというものでしょう」
「きみは……人間なんだよね?」
そういって、星秀は腰から下げていたふたつの瓢箪を彼女の前に押し出した。大きいほうには星秀が好きな酒、小さいほうには蓮茶がはいっている。軽く頭を下げて蓮茶でのどを潤してから、黄珠はぽつりぽつりと語り始めた。
「確かにわたしは人間です。星秀さまのように空を飛ぶこともできず、何の神通力も持っておりません。……ただ、ふつうの生まれというわけでもございません」
「それはどういう意味で? 木の俣からでも生まれたとか?」
「親はちゃんとおります。……いえ、おりました」
星秀のものいいがおかしかったのか、黄珠はくすりと笑って饅頭に手を伸ばした。
「あと一一年でわたしは死にます」
唐突なその言葉に、酒の瓢箪にかかった星秀の手がぴくっと震えた。
「特に何もなければ、わたしは三〇歳で死ぬのです。そういう人生をずっと……長い間繰り返してまいりました」
「それは……どうしてそんなことに?」
「わたしがそう望んだからです。そのほうがいろいろなものを見られますから……」
「見る? 見るって?」
「人の世をです」
饅頭を細かくちぎって口もとに運び、黄珠は答えた。
「わたしはこの世界に住む人間というものを間近で見てみたかった……おかあさまは、わたしのその願いを聞き届けてくださったのです。その日から、わたしはただの人間として、この世界で生きてきました」
「……つまりきみは、もともと神仙のひとりで、それをきみの母親がただの人間にしたってこと? ただの人間が修行して仙人になるって話はときどきあるけど、その逆ってことかな?」
その時、星秀の脳裏をよぎったのは、神将としての地位を失って下界に流された幼馴染みのことだった。
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