第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第四節~

 さざ波すら立たない凪いだ水面に、不意に小さな波紋が広がった。

「……ちんがく星君どの」

「おお、待ちわびたぞ」

 唐突な問いかけに珊釵が応じると、波紋をさらに大きく広げて、水の中から、青白い鱗を連ねたような鎧をまとった美少年が現れた。

「――ごうこうじん、お召しにより参上いたしました」

 器用に水面に片膝をつき、少年はうやうやしく珊釵にあいさつした。

「そなたは天軍の将ではないゆえ、そうかしこまらずともよい。むしろこちらが助力を請うた立場……さあ、立ちなされ」

「はい」

 敖蛟仁と名乗った少年神将は、年の頃だけでいえば星秀と大差はないものの、艶光る長い黒髪をきりりとひとつに束ね、涼しげな瞳で真正面から珊釵を見つめるその風情には天地ほどの差を感じる。どちらも美少年ではあったが、かたや軽佻浮薄、こなた品行方正、それぞれを絵に描いたようなものだった。

「……あの小僧が、せめてそなたの半分も礼儀をわきまえておればな……」

「は……?」

「いや、こちらの話」

 溜息交じりにかぶりを振り、珊釵は張三郎にいった。

「張よ、こちらの凛々しい若者は、かの銭塘せんとう龍王、ごうりょうさまの片腕ともいわれる敖蛟仁どのだ。以前、別件で洞庭どうてい湖の水晶宮に詰めたことがあってな、その折に知遇を得たのだが」

「銭塘龍王……?」

「何だ、知らぬのか? 天下に名高いせっこうの大海嘯を?」

「ああ……噂には聞いたことがございやすが、何しろあっしは、生まれてから死ぬまで蘇州を出たことがなかったもので……」

「そうか……とにかく、浙江、すなわち銭塘江を逆流させるほど神通広大な銭塘龍王の敖熾亮さまおっしゃるおかたがおられるのだが」

「厳密にいえば、旦那さまは龍王位を召し上げられ、今はまったくの無位無官、洞庭龍王殿下の水晶宮に居候なさっておいでですが」

 やや決まり悪そうに蛟仁が補足する。珊釵は大きくうなずき、

「だとしても、熾亮さまはいまだに天軍八卦将はっけしょうの一角を占めておられるほどの猛将。貴様にも判りやすくいうなら、天軍でもっとも強いとされる八人の神将のうちのおひとりなのだ」

「そいつぁ……正直、あっしにはもう想像もつかねえ強さってことでやしょうね」

「そしてこちらの蛟仁どのは、幼き頃より熾亮さまの薫陶を受けた――」

「珊釵どの、どうかそこまでにしてくださいませんか」

 珊釵の口上を、頬を赤くした蛟仁が慌ててさえぎった。

「私などまだ若輩者もいいところ、天界の神将として戦い続けておられる南斗星のかたがたからすれば何も知らぬも同然……そのように持ち上げられていい気になっていては、それこそ旦那さまのお𠮟りを受けかねません」

「加えてこの謙虚さよ……星秀であればもっと持ち上げてくれと図に乗っておるところだろうに……」

「さ、珊釵どの……?」

「いや、これもまたこちらの話」

 珊釵は小さく咳払いをして、万寿宮のほうを指ししめした。

「――おそらく妖賊はあそこにいると思われるが、お判りのように、まったく無関係の人間も数多く集められておる。賊を討ち取るためとはいえ、このまま踏み込んでは無用の犠牲が出ることは必至」

「なるほど……それで得心がいきました」

 蛟仁は軽くうなずき、左手に下げていた四角い包みを差し出した。

「珊釵どのがご所望なのは、おそらくこれでございましょう。洞庭龍王殿下の宝物殿からお借りしてまいりました」

「かたじけない」

 紫の包みをほどくと、白木のままの桐の箱が出てきた。

「……何でやす?」

「これがあれば、民草を巻き込まずにすむやもしれぬ」

 そっと開けた箱の中身を覗き込み、珊釵は目を細めた。


◆◇◆◇◆


 世間では閻魔えんまなどとひとくくりにされているが、実際に冥府を統括しているのは冥府十王と称される一〇人の王たちである。

 その中にえんおうという者がおり、なぜかたまたまこの王が人口に膾炙かいしゃすることとなった――と天香は聞いている。冥府の王といえば閻羅王、すなわち閻魔大王のことを指すような風潮があるのはこのためらしい。

 もっとも、あくまでも閻羅王は十王のひとりにすぎず、しかもその席次は第五位にすぎない。実際、天香が太上老君の供として冥府を訪れた時、その応対に出てきたのは、十王を束ねる席次一位のしんこうおうであった。老君の来訪は、冥府にとってそれだけ重大なことだったのだろう。

 だが、この調子なら黄珠についてもすぐに聞き出せるだろうという天香の予想に反し、秦広王の口は重かった。

「文……黄珠、ですか」

 老君を前に、秦広王は汗を拭きながら反芻した。

「そうじゃ。三〇年ごとに死に、そのたびに時を置かずすぐにまた黄珠という名の女に生まれ変わっておる人間のことじゃ」

 静かな執務室で、巨大な机をはさんで秦広王の向かいに座った老君は、出された茶にも口をつけることなく身を乗り出すようにして問い詰めた。

「――ワシとてそう詳しくはないが、死後すぐに生まれ変わりが許される者はそう多くはないはず。少なくとも、そのような死者が冥府を訪れれば、十王がじかに審議をするはずじゃろ? ならばそなたが知らぬということはあるまい?」

「それは……」

「知っておるのじゃな?」

「……は、はい」

 秦広王は力なくうなずいた。

「そのような特殊な転生を繰り返す人間はふつうはおらぬ……いったい何者なのじゃ、文黄珠とは?」

「わ、判りませぬ……」

「判らぬ!? 判らぬはずはあるまい! そもそもそなたらの審判を受けねば、その娘とてすぐには生まれ変われぬはずであろう? 下手に隠し立てするでないぞ?」

「ろ、老君に対して隠しごとなど、誓っていたしません! 本当に、我々はその人間については何も知らないのです!」

「何も知らぬ――?」

 老君は腰を浮かせ、天香と顔を見合わせた。荒げかけた声を鎮め、あらためて尋ねる。

「……どういうことじゃな、それは?」

「その人間についてはこれこのようにせよと……そう決まっているのです」

「いつ、誰が決めたのです?」

 思わず天香が口をはさんだ。

「そ、それを他言することは許されておりませぬ……たとえ相手が老君やぎょくていに対しても、です」

「ワシにもか!?」

「は……」

「……そう命じたのが誰であるかも、語ることは許されておらぬのだな?」

「どうかご容赦くださいませ……その娘については、このまま未来永劫、冥府が続くかぎり、そのようにせよとのことなのでございます」

 平伏する秦広王を見て静かに深呼吸し、老君は立ち上がった。

「忙しいところを邪魔したな。……答えは得られなかったが、そなたのかたくなな態度からおよその見当はついたわい」

「…………」

 床に額を押しつけたままの秦広王をその場に残し、老君は執務室をあとにした。

 天香はすぐさま老君を追いかけ、低い声で尋ねた。

「……どういうことですの? 老君や玉帝に対しても答えられないだなんて、そのようなことがありえるのでしょうか?」

「確かに今の天界の支配者は玉帝じゃ。その言葉は絶対……まあ、それに逆らって無事なのはワシくらいのものじゃろ。いうまでもなく、十王たちとて玉帝には逆らえぬ」

 暗い通路を歩きながら、老君はいった。

「――じゃが、それ以上に優先されるべきものもないではない」

「それは何なのです!?」

「古き神の言葉じゃ。天地開闢の神話の時代の神々……何もなかったこの世界に万物をもたらした神々の言葉には、ワシらとてしたがわねばならぬ。ワシらとて、彼らがいなければ存在しなかったからじゃ」

「それは、盤古ばんこ女媧じょかふつといった神々のことですの?」

「ほかにもおるが、ま、そのあたりと思っておけば間違いあるまい」

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