第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第三節~

「目星?」

「蘇州の郊外に、しんじゃ浄光じょうこうどうという教団の本部となる大きな道観があるのですが、そこが怪しいのではないかと」

「妖怪が神の教えを説いてるんですか?」

「かもしれないということですよ。……いささか危険な思想の集団ですので、以前から警戒はしていたのですが、そこの八華楼主なる女が妖賊どもの首魁ではないかと」

 いわれてみれば、確かにあの文静とかいう男たちも、楼主がどうのと口走っていたような気がする。

「じゃ、奥さんの屋敷には?」

「朝夕と何度か張三郎を行かせましたが、やはり戻ってきていないようです」

「ふぅん」

「……大理星君どの? 何をなさるのです?」

 包帯をほどき始めた星秀に気づき、伍先生は慌てて剪定ばさみを放り出した。

「せ、せめてきょう一日は安静になさってください!」

「いや、そうのんびりもしていられないし、少しずつでも身体を動かそうかと思って。……とりあえず散歩してきますよ」

 包帯をほどきながら室内に入ると、星秀は手早く着替えをすませ、先生の屋敷をあとにした。

 星秀はあれからずっと考えている。

 黄珠は何者なのか、今どこにいるのか。星秀があの時目にした、黄珠といっしょにいた白衣の人物は誰だったのか――脳裏に浮かぶそんな疑問を反芻しながら、星秀は軽く右足を引きずるようにして黄珠の屋敷に向かった。

 下界の人々は清明せいめいせつに合わせて先祖の墓参りをするという。そのせいか、街のあちこちにある道観には法要をいとなむ人々が集まっているようだった。

「人はすぐに死ぬ。長生きしてもせいぜい七、八〇年……そう考えると、三〇年は短いほうなのかな? どっちにしても、僕には人の気持ちは理解できそうにないけど」

 春の陽射しのまぶしさに、星秀は扇子を広げてかざした。

「…………」

 その扇子からは、まだかすかに黄珠が焚き染めていた香が香っている。

「……少なくとも、すべて幻でしたってことはなさそうだね」

 街の喧騒とは対照的に、黄珠の屋敷は門が閉ざされたまま静まり返っている。星秀は屋敷の裏手の通用門のほうへと回り、何度か門扉を叩いた。

「……小間使いたちは戻ってきているって聞いたんだけど」

 何度叩いても門が開く気配はない。あたりをそっと窺い、人目がないのを確認してから、星秀はぽんと地面を蹴って高い塀を飛び越えた。

「――あらら」

 星秀が屋敷の裏庭へ音もなく降り立った時、ちょうど飛び石を踏んでこちらへやってくる小間使いと目が合った。

「あ……」

 勝手に忍び込んだことをどうやってごまかそうか、星秀がこわばった笑顔のままいいわけを考えていると、なぜか小間使いの少女は驚いた様子もなく、小さく鼻をすすって一礼した。

「……いらっしゃいませ、星秀さま。出迎えが遅れて申し訳ございません」

「いや、別にそれはいいんだけど……え~と、せいらんちゃん、だったっけ?」

 確かこの小間使いは、星秀が最初にこの屋敷に招かれた時に出迎えてくれた少女で、黄珠から清蘭と呼ばれていたのを覚えている。清蘭はあらためて頭を下げ、星秀を屋敷の中に案内した。

「その……奥さんは? まだ戻ってないの?」

「はい……」

「まさか本当にあの連中にさらわれたんじゃ――」

 思わず星秀が呟くと、清蘭は弱々しく首を振った。

「とりあえずそれはないかと思います。……たぶん奥さまは、ご自分の意志でお戻りにならないのではないかと」

「どういうこと? きみ、何か知ってるの?」

「…………」

 清蘭は何もいわず、星秀を屋敷の中の一番奥まった部屋へとみちびいた。おそらく、そこは黄珠の部屋なのだろう。黄珠が好きな香の香りがほのかにただよっている。屋敷の広さとくらべてずいぶんと簡素で、しかし趣味はいい。控えめな彼女の性格がよく表れているような気がする。

 勧められた椅子に腰を下ろした星秀は、卓の上に広げられたままの刺繡道具を一瞥し、ここにいない主人の顔を思い浮かべた。

「星秀さまも、すでにうすうす感づいていらっしゃることとは思いますけど」

「何の話?」

「奥さまがふつうのお生まれではないということにです」

 星秀の前によく冷えた茶を出し、清蘭はぽつりぽつりと語り始めた。


◆◇◆◇◆


 神蛇浄光道の総本山である万寿游仙宮まんじゅゆうせんきゅうは、ちょっとした宮殿を思わせるほどの広さを持ち、その敷地内には大小無数の道観と墓地が存在する。いうまでもなく、ここに墓を持てるのは、浄光道へ目覚ましい貢献をした者だけであり、信徒だからといって、誰もがここで先祖を祭れるわけではない。

「……要するに、どれほどお布施をしたかってことで決まるんだそうで」

「なるほどな。何とも生臭い話よ」

「あっしが生きていた頃は、このへんはまだ何もねえ、ただ一面の葦原だったんでやすがねえ……」

 珊釵につきしたがっている張三郎が、万寿宮のにぎわいを遠目に眺めて溜息をついた。

「――一〇年とかからずに万を超える信徒を集めてあれだけのモンを作っちまうんですから、噂のはっ華楼かろうしゅてェのは、それこそ小国の王も同然でやしょうねえ」

「まあ、放っておいても信徒どもが浄財を持ってくるのであれば、どんなぜいたくも思いのままであろうな」

 目立たないよう、珊釵は雲を使わず、湖上に浮かべた舟の上に立っている。あの万寿宮に今どれほどの信徒たちが集まっているのかは判らないが、清明節の時期ということもあるし、おそらく一〇〇〇や二〇〇〇どころではすまないだろう。

「今すぐ踏み込んでやりたいところだが、数千からの人間がいるところで、しかも昼日中から派手にはやれぬ」

「ですが、まだ浄光道が妖怪どもの巣窟と決まったわけじゃねぇでしょう?」

「確かにそうだが、星秀が戦った妖仙どもは、楼主がどうのといっておったらしいぞ? それに、貴様の知り合いの土地神はなぜ戻ってこない?」

「そりゃあ……」

 すでに珊釵は、このあたりの土地神のひとりを浄光道の内部を調べるために送り込んでいた。が、半刻たってもいまだに戻ってきていない。浄光道を取り仕切っている八華楼主がただの人間であれば、土地神が内部を調べ回っていても気づくことはないだろうが、そうでなければ即座に発見される。

「……もしあそこに本官が出くわしたあの女がいれば、たとえ姿を消していたとしても、土地神ごとき一瞬で見つかり、消し飛ばされるであろうな」

「は、薄情な……」

「犠牲になった土地神には、いずれ本官のほうからも奏上して、生まれ変わりに際してさらなる便宜を図るようお願いするつもりだが……しかしもどかしいものだな。今のままでは手が出せぬ」

「ひょっとして、こういう時のことを考えて信徒たちを集めたってことも――?」

「なくはなかろうな。もし本官が悪辣な妖怪どもの首魁であれば、天軍が攻め込めぬよう、昼夜を問わずに法要などを開いてあそこに信徒たちを集めておく。どんなに堅牢な城門も城壁も神将が相手では意味がないが、あそこに信徒たちがいるかぎり、思い切った攻めはできぬ。数千の人質を取られているも同然だ」

 それでも最終的にやらなければならないとなれば、天界は犠牲が出るのを承知で行動するだろう。しかし珊釵としては、それは本当に最後の選択肢としておきたい。

「……ですが、どっちにしろ、あそこに踏み込むのは大理星君さまが本復なさってからでやしょう?」

「そうだな……本官と星秀、あとは天香と、ほかにも援軍を請うてはいるのだが」

「援軍でやすか?」

「今、天界の神将たちは、叛乱軍の残党狩りのために大陸の各地に派遣されておる。ここにとびきりの大物がいるという確証があれば別だが、そうでないかぎり、要請したとてさほどの大軍は回してもらえぬ。……が、何も神将をかかえておるのは天軍ばかりではないからな」

「は……? それはどういう――」

「ちょうど来たようだ」

 珊釵が振り返ると、張三郎も釣られて振り返った。

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