第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第二節~
老君は踏み台からひょいと飛び降りると、虫干ししていた書物を屋敷の中に運び込んでいた
「……星秀が蘇州で出会った人間の女が、なぜか綺麗に三〇年ごとに生まれ変わりを繰り返しておると申したな、確か?」
大股で庭を横切り、お気に入りの
「――しかも冥府で時をすごすことなく死んですぐに生まれ変わり、そのたびに黄珠と名づけられておるとな?」
「その通りですわ。ふつうならありえないことです。偶然で片づけるにはできすぎておりますし」
「じゃからことの真相を突き止めるために協力してもらえるよう、ワシに冥府の王どもへ一筆書いてほしいと?」
「そうご説明したつもりですけど」
「そもそもなぜワシに持ってきたのじゃ、その話を?」
「同輩に勧められたからというのもございましたけど、何かと時間がかかるお役所仕事を飛ばしてすぐに十王に取り次いでもらうには、それなりに偉いおかたのお名前を借りる必要がございますので」
「それほど急いでおるのか?」
「現にその女を狙って
「あれを馴染みというのか? まあ、まんざら知らぬ仲ではないのは確かじゃが……」
「……よろしいでしょうか、老君?」
天香を老君に紹介するために同行してきて、ついでに虫干しの手伝いをさせられていた
「星秀が派遣されているのは蘇州だそうです。今の蘇州は下界でも有数の大きな街……山海の珍味が集まる豊かな土地と聞いております」
「む? 山海の珍味、珍味か……」
老君の真っ白な眉がひくりと動く。それを見て怪訝そうにしていた天香は、緑麗から何ごとか耳打ちされると、すぐににっこりと微笑み、
「とどこおりなく任務を終えた暁には、同輩の珊釵ともども、あらためてこちらへご報告に参上いたします。その際には、蘇州の銘酒と何か酒肴になるものを星秀に背負わせてまいりますわ」
「むほっ? ……あ、いや、うむ、そうか。……まあ、下界の安寧をたもつためとあらば、ワシも手を貸すのにやぶさかではないな、うむ」
思わず小躍りしそうになるのをこらえ、老君はわざとらしく咳払いし、大袈裟にうなずいた。
「えーと……天香と申したか?」
「はい」
「それではここで茶でも飲みながら少し待っておるがよい。十王どもにもケチのつけようがない美文をワシがすぐに書いてきてやろう」
「ありがとうございます」
ふかぶかと頭を下げる美女をその場に残し、老君はすぐにまた自分の部屋へと軽やかな足取りで駆け戻った。
「蘇州のあたりとなると、やはり魚がうまいのじゃろうか? ついでにワシが食べたいものを紙に書き出して、いっしょに渡してやるか……」
うきうきしながら墨をすっていた老君は、しかし、ここ一〇〇〇年以上も感じることのなかった不思議な気配を察してはっと顔を上げた。
「……引き際は肝心だぞ、
小さな中庭に面した窓の向こうに、白い衣をまとった少女が立っていた。淑芳よりもさらに幼く、小柄に見えるが、その瞳には深い英知の輝きがある。
筆に伸ばしかけていた手をかすかに震わせ、老君は呟いた。
「おっ……お、おま、もっ、もしかして、あっ、あなたは――?」
「人は人、神は神、川を間にはさんで交わることなく、かかわり合うことなく暮らしていくことはできぬものか……なあ、伯陽?」
伯陽とは老君の
老君は墨も筆も放り出し、慌てて窓辺へと駆け寄った。しかし、その時にはもう白衣の少女はいない。窓から身を乗り出して左右を見渡しても、そこにはただ静謐さをたたえた見慣れた風景があるだけだった。
「老師? お茶が入りましたけど?」
部屋を覗きにきた淑芳が、窓枠にしがみついている老君を見て首をかしげた。
「……どうなさったんです?」
「いや――」
渋い表情で振り返った老君は、足早に部屋を出て四阿で待つ天香のところへ向かった。
「おぬし、今すぐ行けるのか?」
「はい? 行く、とは……?」
「一筆書く間も惜しい」
老君は湯気の立つ茉莉花茶をひと息にあおり、茶菓子の月餅を懐に放り込んだ。
「――ワシもいっしょに行ってやる」
「え!? ろ、老君おんみずからが!?」
楚々として茶を飲もうとしていた天香が、らしくもなく狼狽気味に聞き返した。
「そうしていただければありがたいですけど、でも……よろしいのですか?」
「うむ、急ぐぞ」
口もとを袖でぬぐうなり、老君は光の雲に飛び乗った。
「ろっ、老君! それはいささか――」
「非常事態じゃ、誰にも文句はいわせぬ! おぬしもさっさとついてまいれ!」
「わ、判りました!」
天香をしたがえ、四方の門を通過するという原則も蹴飛ばして、老君は一気に下界へと向かった。
◆◇◆◇◆
日当たりのいい庭先の、木蓮の木陰に長椅子を出し、そこでのんびりとしていた星秀は、
「大事がなくて何よりです」
その言葉にいたるまでに先生が何をいっていたか、星秀はよく覚えていない。先生があれこれ話しかけてくれていたのを適当に聞き流していたのだろう。
星秀のかたわらに立って木蓮の枝ぶりを見上げ、先生は続けた。
「星秀どのの体力なら、あしたにはもう元通りでしょう」
「あしたを待つまでもなく、僕はもう完全に回復してますけどね」
肩をすくめ、星秀はふと思い出した。
「――そうそう、黄珠の話だったっけ」
「は?」
「いや、さっきまで何の話をしてたかなーって。……で、天香ちゃんが何を調べてきたんでしたっけ?」
「ええ」
先生があらためて説明してくれる。
「きっかり三〇年ごとに死ぬ人間って、そんなに珍しいですかね?」
「まあ……絶対にありえないわけではないでしょうが、それが連続で一〇回続くというのはかなりの低確率でしょうね」
「そういうもんですか」
「しかも、毎回かならず女に生まれ変わり、そのたびに親が黄珠と名づける確率となると、むしろ奇跡に近いでしょうね」
「待ち時間ナシで生まれ変われるっていうのは?」
「その文黄珠という女性が、世界最高の聖者か名君であればありえるそうです」
「いやいや、あの奥さんは違うでしょ」
「では逆にありえませぬな。ふつうの人間なら四、五〇年、場合によっては一〇〇年待たされることもあるようですから」
「張三郎みたいに城隍神を務めれば待ち時間が短くなるんじゃない?」
「それも可能ですが、あの男は転生までの期間の短縮よりも、転生先の配慮のほうを選びました。……そもそもここの城隍神の任期が最低五〇年ですからな」
「なるほど。……で、結局、彼女は何なんです?」
「それが判らないから、保命星君どのが今、冥府へ行って詳しい事情を聞こうとしているのですよ」
「そりゃまたご苦労なことで――」
星秀は深い溜息をつき、右の太腿に触ってみた。動かそうとするとかすかな疼痛が走るが、すでに傷はふさがっているようだった。胸の火傷ももうほとんど痛みは感じない。先生がいう通り、あしたには全快しているだろう。
静かに身体の具合を確かめていた星秀は、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。
「姉弟子はどこ行ったんですかね?」
「例の妖怪どもを捜していますよ。まあ、ほぼ目星はついているようですが」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます