第五回 御しがたき獣の名は嫉妬 ~第一節~
どこかで見たことのある白い人影が立っていた。
はっきりと目撃したわけでもないのに、
そしてその前には、萌黄色の衣の美女がひざまずいている。
「まだ一一年の時をあましている」
白い影が黄珠にそう告げる。その声は、やはり星秀が天界で耳にした謎の声によく似ていた。
「――だが、今回ばかりはいつものように三〇年まで待つことは難しい。無論、すべてはわたしの力でいかようにもできるが……もはやわたしは些事にかかわりたくはない。ただ川の流れを眺めていたいだけなのだ」
「それは……判っております」
「わたしがおまえにしてやれるのはここまでだ。これ以上は……わたしは踏み込むつもりはない」
「はい」
黄珠は泣きながらうなずいている。ふたりの会話は漠然としていて、それが何を意味しているのか星秀にはよく判らなかったが、黄珠がひどく哀しんでいることだけは確かだった。
「わたしがおまえにいえることはただひとつ……決して人であることをやめるな」
「え……?」
「おまえが人であることをやめてしまえば、この世界を大きなわざわいが襲うことになるやもしれぬ」
「そ、それはどういう――?」
「人であることをやめるな」
「おかあさま!」
もともとぼんやりしていた白い影が、さらに朧に溶けて消えていく。それにすがりつこうとした黄珠は、空を掴んだ手をついてうつむき、声を殺して泣き続けた。
星秀は立ち上がろうとした。すぐそばに泣いている美女がいるならそれをなぐさめるのは自分の義務だと思う。しかし、手を伸ばそうと思っても身を起こそうとしてもまったく身体が動かない。かろうじて首をねじったり、目を動かしたりするのが関の山だった。声さえ絞り出すことができない。
「……あ」
無理矢理に身体を動かそうとしたとたん、あちこちに激痛が走り、一気に気が遠くなった。
「そ、そもそも……ここ、どこだよ……?」
「湖の底でございますよ、星君さま!」
「……んあ?」
いったんは遠のいた意識が、老人のしわがれ声で現実に引き戻された。
「
星秀が薄く目を開けると、視界いっぱいに
「わあ!? ったたたた……」
驚きにあとずさろうとした瞬間、またあらたな痛みが走って、星秀は思わず胸を押さえた。
「無茶はいけやせんぜ。応急手当はしてあるようですが、深手だってことには変わりないんで」
「つぅ……」
そういわれて自分の身体を見てみると、胸の火傷はもちろん、太腿や肩口に刺さっていた針も引き抜かれ、そのすべてに細く引き裂いたような布が包帯代わりに巻かれている。星秀は顔をしかめながら張三郎を見やった。
「これは……おまえが?」
「は? 星君さまがご自分でなさったのでは?」
「そ、そんなわけないだろ……っていうか、おまえの後ろに雁首並べてる老人軍団は何なんだ?」
張三郎の後ろには、三人のじいさんばあさんが心配そうな表情でつきしたがっている。張三郎は彼らをかえりみて、星秀にいった。
「ああ、この三人は
「ああ……そういうことか」
冷静になって見回してみると、どうやらここは湖の底のようだった。泥土の上に、避水呪の大きな泡に守られる形で横たわっていた星秀を、土地神のひとりが発見して張三郎を呼んできたらしい。
そこでようやく、星秀ははっと目を見開いた。
「そ、そうだ……っ! 黄珠、黄珠は!?」
「へ? あ、あの未亡人ですかい? あっしどもは見ておりやせんが――」
「何だって?」
「少なくとも、わたしが星君さまを見つけた時には、星君さまはここにおひとりで横たわっておられましたが……」
星秀を見つけたという土地神の老婆が、おずおずとそう告げる。
「それじゃ……これは黄珠が? でも、だったらどうして彼女はいないんだ?」
あの妙な連中にさらわれたのかとも思ったが、もしそうなら、星秀は今頃生きてはいないはずだった。
「と、とにかく先生のお屋敷に戻りましょう。ちゃんと治療をしませんと」
「ああ……」
老人たちの肩を借りて立ち上がり、星秀は水面へと浮上した。
すでに日は沈んでおり、夜空には美しい星々が輝いている。遠くにちらつく明かりは、川鵜を使う漁民の
「連中に見つかったらまずい――」
「連中ってのは、星君さまをこんな目に遭わせたヤツらのことでやすか?」
「ああ、厄介な連中だ……まあ、僕ほど強くはないけどね――」
弱々しく笑った星秀のもとへと、光の雲が急速に接近してきた。
「何の連絡もなく行方不明になりおって……さぞや中身のある報告を聞かせてもらえるのであろうな?」
鎧姿で近づいてきた
「そりゃまあ……あとでね」
あまりに珊釵らしいいいように、星秀は溜息交じりに苦笑した。珊釵がそれきり何もいわずにあたりを見回しているのは、敵の襲来に備えているからだろう。
いっしょに光の雲に乗って星秀をささえていた張三郎が、小声でこそっと耳打ちしてきた。
「……あんな感じでやすが、鎮嶽星君さまだって心配なさっておいででしたよ。大理星君さまが行方不明と判った時には、あっしたちに捜すよう命じて、ご自身も雲に乗って真っ先に飛び出していきやしたからねえ」
「僕は彼女にとっては師匠の息子だからね……心配するふりくらいはするさ」
「あれは本気だったと思いやすがねえ? たとえるなら、弟を心配する姉ってところじゃありやせんか?」
「……知るかよ」
ほっともらした吐息が熱い。全身の傷が炎症を起こして熱が出てきているのかもしれない。屋敷に戻れば天軍御用達の傷薬で治療できるが、それでも数日は寝込むはめになるだろう。正直、星秀が神将になって以来、これほど手ひどくやられたのは初めてのことだった。
果たして黄珠はどこへ行ったのか――星秀にとってもっとも重要なのはそのことだった。
◆◇◆◇◆
事務方の仕事に慣れているというだけあって、確かにその女の手際はよかった。ことさらこちらから指定しなくても、書物の傾向ごとにきちんとまとめてひとつところに積み上げてくれるし、どれを寄越せといえばすぐに手渡してもくれる。くらべては可哀相だが、正直、
しかし、とにかく口うるさい。うるさいというか、手を動かすのと同時に休むことなく口も動き続け、その並行作業をこちらにも強制してくる。
「申し訳ございません、これでご理解いただけたでしょうか? よろしければ、もう一度最初からご説明いたしますけど?」
「あー、もう判ったわかった、おぬしのいいたいことはもう判っとる!」
踏み台に乗って書架に書物を戻していた
「――というか、おぬし、ここへきたのはきょうが初めてじゃったな?」
「はい」
「ワシとこうして話すのも初めてじゃったな?」
「はい」
指示通りの書物を差し出した姿勢のまま、
要するに、この女はとても図々しい。
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