第四回 繰り返す女 ~第七節~

 一〇年ほど前、文静は猛火元もうかげんせいと称して数百の妖怪たちを率い、ラーフの叛乱に加担していた。この世界のすべてを我が物顔で支配している天界の連中がどうにも気に入らなくて、そのすべてをひっくり返そうとするラーフのもとに馳せ参じたのである。

 しかし、その乱もあえなく鎮圧され、文静は一転して敗残の徒となった。そこから始まった天軍による残党狩りに辟易していたところ、腕利きの妖怪魔仙を集めていた虚風祖師の知遇を得て、みずから進んで楼主の配下になったのである。楼主や祖師も、素性は知れないものの、人間でないことは明らかだった。そんな連中が上に立つしんじゃ浄光道という集団は、外面さえよくしておけば、身を隠しておくのに都合がいい。それに、楼主たちがまた大きなことを――おそらく天界にとっては頭痛の種となるであろうことを――もくろんでいそうだったことも、文静には好ましかった。

 ただ、それもきょうまでだった。

「魔神ラーフ配下の十怪仙じゅっかいせん筆頭、この猛火元聖をあなどるような女にも老いぼれにも用はねえ。……だが、奴らが何をしようとしてたのかってことは気になる。まさか浄光道のお題目通り、本気でこの世界に大洪水を起こそうなんて腹じゃねェだろうな?」

 もし本当に楼主たちが天界の鼻を明かすような計画を持っているのなら、それを横取りして自分の手で実行し、猛火元聖の名を天下にとどろかせるのも悪くない。もともと文静は、従順な配下を演じて楼主たちの信用を得たあと、頃合いを見て浄光道を乗っ取るつもりでいたのである。ならば、その予定が少し早まっただけといえなくもない。

「これは……?」

 書架の上に漆塗りの大きな文箱がいくつかあることに気づいた文静は、卓の上にそれを並べた。文箱は全部で七つ、どれも中身が書物とは思えない重さで、動かすとごとごとと妙な音がする。

「……何だ? 石でも入ってんのか?」

 文箱の中に納められていたのはただの石ではなく、どうやら古い石碑か何かの一部のようだった。

「……そうか、確か峰児のヤツが、少し前にあちこちの古ぼけた廟を回って、何やら調べてたっていってたっけか。その時に集めたモンか?」

 長い年月の間に摩耗した文字をなぞるように読み始めた文静は、次第に眉間のしわを深くしていった。

「何……? まさか、それじゃあの女は、ただの人間じゃねェってのか? あいつらはあの女を使って、本気でこの世界を――!?」

「冗談ではできぬな」

「!」

 ぎょっとして振り返ると、いつの間にか虚風祖師が立っていた。足音どころか近づいてくる気配すら感じなかった。もし祖師がやろうと思えば、背後から急所をひと刺しされていたかもしれない。

 文静は卓を蹴倒して祖師との間合いを取った。

「ちっ……」

 懐から取り出した筆を鉞に変えた文静は、左右に素早く視線を走らせた。しかし、楼主や峰児たちの姿は見えない。ここに来たのが祖師ひとりなら、むしろこれは好機かもしれなかった。

 祖師を始末し、楼主を傀儡とし、逆らうようなら峰児や穿山も片づける。楼主たちが呼び寄せようとしているほかの連中も、したがわないのであればすべて打ち倒し、浄光道の実権を握る――多勢に無勢となれば難しいが、一対一なら浄光道の誰にも負けない自信が文静にはあった。

「詳しい話はあとで楼主に聞く! てめェらのたくらみはそのまんま俺が引き継いでやるから安心して死にやがれ、老いぼれ!」

 文静が鉞を振るうと激しい炎が噴き上がり、あたりの空気を一気に上昇させた。触れてもいないのに書物の山が燃え始め、炎の渦が祖師へ殺到する。

「そういえば、そなたはかつて猛火元聖と名乗っておったな。ラーフに逆らえずに諾々としたがっていたような男が、今になって大それた望みをいだいたか?」

「何だと……!? おい、ナメるなよ、老いぼれ! てめェらにゃラーフほどの器がなかっただけだろうが! 火焔山の業火の中から生まれたこの俺が、てめェらごときの風下にいつまでも立ってるわけねぇだろうが!」

「なるほど……道理で金槌なわけじゃ。炎の邪精に泳げとは酷な話であったな」

 激しい炎に巻かれても、虚風祖師に動じた様子はない。馬鹿にされたように感じた文静は、真っ向から鉞で斬りかかった。

「――黒焦げになるかまっぷたつになるか、好きなほうを選びやがれ!」

「選ぶのは貧道ではなくそなたのほうだな」

 腰の曲がった老人が片手でかざした杖の先端が、火焔山の炎で鍛えられた柳文静の鉞――しゃっごうをたやすく受け止めていた。

「!?」

「……さあ、選ぶがよい」

 しわだらけの顔にさらにしわを増やし、祖師はにっと笑った。

「貧道に生きたまま食われるか、殺されてから食われるか」

「何だと――っ!?」

 ふたたび鉞を振り上げて次の一撃を打ち込もうとした時、文静は気づいた。静かに息を吸い込んでいる老人の口に、周囲の炎が吸い込まれていく。息を吐くことなく吸い込む一方で、あっという間に文静が生み出した炎はすべて消滅してしまった。

「な……えっ?」

 不意に強い力で引かれたような気がした直後、文静の手から鉞がすっぽ抜けた。しかし、文静の手を離れた鉞はもうどこにもない。慌ててあたりを見回した文静の耳に、老人がもらす小さなおくびが聞こえた。

「……まあまあじゃな」

 虚風祖師は軽く嘆息して腹のあたりを撫でている。その瞬間こそ見えなかったが、灼火轟がどこに消えたのかはすぐに見当がついた。

「てめェ――てめェは、いったい……?」

「そなたはな、自分で思うほど賢くも強くもなかったのじゃ。おとなしく貧道の指示通りにはたらいていれば、もう少し長生きできたであろうに――」

「ナメるんじゃねェっていっただろうが!」

 虚風祖師に対して感じた得体の知れない畏怖を怒りが駆逐した。文静の両手に炎がともり、室内の気温がまた急上昇していく。

「大事な書物をあらかた灰に変えられては困るのでな」

 そういって、虚風祖師は大きく口を開けた。


◆◇◆◇◆


 床に落ちた石碑の断片を文箱に戻していると、峰児と穿山が部屋に駆け込んできた。

「祖師サマ! 何かすげー悲鳴が聞こえたんですけど、何かあったんすか!?」

「……そなたらのほうは喧嘩はすんだのか?」

 肩越しに振り返って皮肉交じりに告げると、峰児たちはばつの悪そうな表情を浮かべた。

「いや、それは……」

「……それよりも祖師さま、何があったのです?」

 部屋の中には無数の書物が散乱し、椅子が転がっている上に、そのいくつかは真っ黒に焦げついていた。穿山ならずとも、ここで何が起こったのか疑問に思うだろう。

「ま、いささかな。――峰児、この文箱を書架の上に置いてくれぬか。穿山はがらくたを運び出してくれ」

「はい。……ですがこのありさまは――」

「あ! まさか文静のヤローが何かしやがったんすか!? そーいやあいつどこ行きやがった!?」

「あの男ならもうおらぬ」

「は? それはどういう……?」

「もはやここにはいられぬと思ったのじゃろう。貧道の編み出した術のひとつも盗んで逐電しようとしていたようだが、世の中そう甘くはないでな」

「では、文静は祖師さまが……?」

「ただ逃げ出すだけならまだしも、欲をかきすぎた結果じゃ。楼主には貧道のほうから報告しておくでな、そなたらは楼主のおいいつけにしたがってお役目に精を出せ。……でなくばどうなるか、さすがにもう判っておろう?」

「――は、はい」

 峰児と穿山が硬い表情でうなずき、そそくさと部屋から出ていった。

「……そろそろ信徒たちの中からよき者を選び出さねばな」

 そうひとりごち、虚風祖師はまた小さくおくびをもらした。

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