第四回 繰り返す女 ~第六節~
「――さもなくば、手ぶらで戻ってきた時点で、三人とも淡い血煙になっておる」
ゆらゆらと羽扇を揺らしながら、楼主は呟いた。
「楼主……お怒りはごもっともながら、今後いかにすべきか、まずはそちらを」
「…………」
「単純にいえば、道はふたつ……このまま天軍と衝突するのを覚悟で突き進むか、あるいはほとぼりが冷めるまで、いったん地にもぐるか」
「ここまで大きくした浄光道を捨ててか?」
「傀儡を立てて楼主のお言葉を繰り返し唱えさせるだけであれば、そこはいかようにでもなりましょう。ひとまず天軍の目をごまかせればよろしいのですから」
「だが、回り道には違いない」
「それは……左様でございますが」
虚風祖師が小さな身体をさらに丸めるようにして頭を下げる。楼主は羽扇を動かす手を止めて立ち上がり、祖師にいった。
「師よ……わたしはこれまで充分に待った。充分に耐えてきた。もはやこれ以上がまんするつもりはない」
「では、天との衝突を覚悟で突き進む道を選ぶと……?」
「いうまでもない。あの女さえ手に入れば、そも天軍など恐るるに足らぬはず。……そうであろう?」
「確かに……」
「師よ、
「しかし……あの者どもは、目を放すとすぐに人を食おうとする厄介な連中です。御するのが難しいかと」
楼主と祖師のやり取りを聞きながら、文静は床を見つめたまま眉をひそめた。
自分たちのほかに、楼主や祖師が
文静が頭の中でめまぐるしく考えをめぐらせている間も、楼主は祖師とふたりで話を進めていく。もはや文静たちの意見を聞くつもりなどないようだった。
「……!」
ここまで浄光道をつつがなく運営できていたのは、何よりも自分の実務能力あればこそと文静は思っている。信徒を増やすための施策をいくつも立案し、実行し、浄光道の教えにしたがう者は蘇州近郊だけで三万を超えるまでになった。
その一方で、何かとぶつかりがちな峰児と穿山の間をうまく取り持ち、時には彼らの失態を取りつくろってやった。文静がうまく立ち回っていなければ、ふたりは時と場所もわきまえずに激突し、無関係の信徒たちすら巻き込んで、万寿宮を大混乱におとしいれていただろうことは疑いない。
その文静のこれまでの功績を酌むことなく、楼主と祖師は、文静を峰児や穿山と同程度の駒のように見なしている。少なくとも今後はもう、そういうものと見なそうとしている。
「おまえたちは女を捜せ」
祖師と何ごとか話していた楼主が、文静たち三人を見下ろして冷たくいい放った。
「……三日のうちにここへ連れてくればよし、さもなければ今度こそ殺す」
「はっ、はい! 今度こそ、命に代えてでも――」
床に額をこすりつけ、峰児が泣きながら答えた。だが、楼主は忠誠心の高い彼女の涙にも眉ひとつ動かさない。
「おまえたち自身に価値があるかどうか、はたらきでしめすがよい。――行け」
「は……」
文静たちはこうべを垂れたまま、楼主の部屋をあとにした。
「――テメーよ!」
回廊へと出てきたところで、峰児が唐突に文静の襟首を掴んだ。
「テメーのせいで……っ! う、ウチが、ウチが楽嬰サマに、しか、しかっ、られ、叱られちまったろーがよ! どーしてくれんだテメー!? さっきは大丈夫だっていったじゃねーか!」
「私は間違った策は立てていませんでしたよ。天軍の介入は想定外だったと、祖師もおっしゃっていたでしょう?」
「祖師が何をいったって意味ねーんだよ、楽嬰サマのご機嫌をそこねちまったんじゃよ! つーか、だったら誰が悪いってんだよ!?」
泣きながらわめく峰児を冷淡に見つめ、文静はいった。
「――しいていうなら運が悪かったのですよ。少なくとも私は悪くない」
「元をただせば……」
大仰に溜息をついた猫背の小男は、回廊の柱に寄りかかり、渋い表情で呟いた。
「最初にしくじった貴様が悪い。おかげで俺までとばっちりを受けた。誰が悪いかというなら貴様が悪い」
「は!?」
涙に濡れた峰児のまなざしが、今度は穿山のほうへ向けられる。
「テメーがしくじらなかったのはテメーが有能だからじゃねー! 単に何もしなかったからだろーが! しくじるのが怖くてはたらきもしねー臆病者がつまんねーこといってんじゃねーぞ!」
「……臆病者だと?」
穿山の頬がひくりと震える。この慎重居士は、臆病といわれることを何よりも嫌う。
「俺は貴様より思慮深いだけだ。それに、あたえられたお役目はちゃんとこなしている。……今のひと言、取り消せ」
「取り消すかよ、バーカバーカ! ほめられもしねー、叱られもしねー、ただずっと小せー身体をさらに縮こまらせて丸まってるだけのテメーなんかな、ここにいる意味ねーんだよ!」
「……叩き潰されたいのか、この虫ケラが……!」
呻きにも似た怒りの言葉をもらした穿山の手には、いつの間にか凶悪な
一方、峰児もまた簪を引き抜き、それを細剣に変えてすでに身構えている。その双眸に殺意はあってももはや涙はない。
「…………」
いつもなら、ここで文静が間に立って双方をなだめるところだった。
しかし、もはや文静に仲裁役を務めるつもりはない。それどころか、これまで自分が忠実に演じ続けてきた、さまざまに役に立つ便利な手駒という役柄からすら降りようとしている。
「……やりたいならお好きなようにおやりなさい。私ももう止めませんよ」
覇気のない声でそういい置き、文静は歩き出した。
楼主は文静たちに黄珠を捜せと命じた。だが、すでに文静にはその指示さえ守るつもりはない。
「……てめえらせいぜい派手に暴れてろ。それで楼主の逆鱗にでも触れてくれればなおいい」
ぼそりと呟いた次の瞬間、文静の姿は一羽の小さな雀に変じていた。
「そのほうが俺の仕事がやりやすくなるんでな」
春空には珍しくもない、人目につきにくい雀へと変化した文静は、ぐるりと大きく迂回して裏に回り、祖師の部屋へと向かった。楼主との話が続いているのか、祖師はまだ戻ってきていない。
開け放たれていた窓から室内に入り込んだ文静は、そこでもとの姿に戻ると、大量の書物に占拠されている質素な部屋の中を見回した。
「そもそも……そもそもが、だ」
文静は手近なところにあった書架に手を伸ばし、そこに積まれていた書物を片端からあらため始めた。
「楼主と祖師は何をやろうとしてる? 人間どもを集め、金を集め、地下にでけぇ祭壇を作らせて……おまけにあの女だ。どう見てもただの人間じゃねえか。なのになぜああもこだわってやがる?」
楼主の真の狙いについては、文静はもちろん、峰児たちも何ひとつ聞かされてはいない。おそらくその秘密を共有しているのは虚風祖師だけだろう。にもかかわらず、文静が楼主にしたがってはたらいてきたのは、ひとつには身の置き場が必要だったことと、そこに悪辣なもくろみの臭いを感じ取ったからだった。
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