第四回 繰り返す女 ~第五節~

「大理星君どのに何かあったのですか? あの一件とおっしゃるのは――」

「……あやつ、先生には何もいっておらんのか?」

「はい、特にそれらしいことは何も……」

「一〇年ほど前、星秀の弟分とも親友ともいえる神将が下界に流されたのだ」

「一〇年前とおっしゃると……ラーフの叛乱と何か関係が?」

「うむ。詳しくはいえぬが、あの戦いの折、北斗破軍ほくとはぐん星君を拝命しておった神将が上からの命令に逆らってな。罰としてじんせき降下こうかとなったのだ」

「それはかなり重い罰ですね」

 神仙がその身分や神通力の大部分を奪われて下界に追放されることを、人籍降下という。死罪や永久懲役を除けばもっとも重い罰といえるかもしれない。

「その者の事情や苦悩を、星秀は誰よりも理解しておっただろう。だが、天軍の神将が上からの命令に逆らうというのはあってはならぬことなのだ。それを認めれば、天界、ひいてはこの世界すべての秩序を維持する絶対的な力がささえを失ってしまう」

「結果、星秀くんは親友が下界へ流されるのをただ見送るしかなかったのですわ」

「そのようなことが……」

「星秀が不真面目なのは昔からではあったが、それでも周囲の者たちは、星秀が親友と切磋琢磨して経験を積み、いつか一人前の大理星君に成長してくれるのではないかと期待しておったのだ。……しかしその一件以来、星秀は以前にも増して任務へのやる気を失ってしまったように思えてならぬ」

 珊釵は星秀にとっては同門の姉弟子である。星秀に煙たがられてはいても、そこはやはり師匠の息子、日頃から気に懸けているのだろう。珊釵が嫌っているのは星秀ではなく、星秀の怠惰さなのである。

「その女の件が片づいて、星秀がお役目に専念してくれるのであれば――」

 珊釵がそういいかけた時、いったんは消えたはずの張三郎がふたたび姿を現した。

「せっ、先生! こいつはちょいとばかり面倒なことになったかもしれやせん!」

「どうした、張三郎? 何があった?」

「例の未亡人の屋敷へ行ってみたんでやすが、星君さまはおられませんでした。……というか、そもそも未亡人のほうも行方不明だそうで」

「何?」

「小間使いたちが話してるのを聞いたかぎりじゃ、きょうの昼間、郊外の寺へ墓参に向かったらしいんですが、その時に蜂の群れに襲われたそうで――」

「蜂!? 蜂と申したか、今!?」

 今度は珊釵が頓狂な声をあげる。さっき珊釵の話を聞いたばかりの天香も、嫌な予感に眉間にしわが寄るのを感じていた。

「へ、へい、とにかく蜂から逃げ惑ってる間に主従が離れ離れになっちまったと……ただ、一度は逃げ散った小間使いたちが戻ってきたあとも、未亡人だけはいっかな戻ってくる様子がないとかで、それで今になって屋敷が騒ぎになってるようです」

「蜂……蜂か」

「どうなさいました、珊釵どの?」

「いや……きょう本官が出くわしたバケモノがな、おそらく蜂の妖怪であったのだ。蜂の群れをあやつることもできる。よもやとは思うが、あの女妖怪がかかわっているのだとすれば――」

「では、その妖怪が文黄珠をさらったということですの? でも、だとしたら何のためにそんなことを……?」

「詳しいことは本官にも判らぬが、あの妖怪にはほかにも仲間がいるはず。……たとえばの話だが、下界へ戻ってきた星秀が、さらわれた文黄珠を守るために、その仲間どもと戦ったのだとしたら――」

「大理星君どのがここへ戻ってこないのはそのせいだと……?」

「ありえぬ話ではない」

 珊釵は碗を置いて立ち上がると、ひとつとんぼ返りをして紅玉の鎧姿に変じた。

「――張三郎、貴様はこのあたりの土地神にも命じて、星秀と文黄珠の行方を捜索させよ。本官もすぐに出る」

「珊釵どの、でしたらわたくしもまいりますわ」

「いや、貴様には一度天界に戻り、そつきゅうに行ってもらいたい」

「兜率宮というと……太上たいじょうろうくんのところにですか?」

「うむ。老君に一筆お願いできれば、文黄珠のこと、十王たちに問いただすこともできるやもしれぬ」

「ですけど、まずその老君にお願いするというのが――」

 太上老君は天界でも第一級の重鎮である。一介の神将が何のつてもなしに出向いていって、すぐに目通りがかなうとは思えない。

「いや、星秀は老君のところの侍女とかねてより昵懇の仲と聞いておる。星秀の一大事と聞けば、よもや門前払いにされるということはあるまい。もし老君にお会いできぬようであれば、たんろう星の小娘を頼るがよい」

「北斗貪狼星君のちょうりょくれいですか? 確かに彼女とは顔馴染みですけど……」

「あの娘はぶんしょうていくんの妹御だ。うまく頼んで取りなしてもらうとよい」

「判りましたわ。ともあれ文黄珠の件、ただちに調べてまいります」

 眼鏡を押し上げ、天香はいきおいよく四阿を飛び出すと、そのまま虚空を蹴って雲に飛び乗った。すでにその時には、下界の雑踏に溶け込むような濃紺の衣ではなく、珊釵と同じ紅玉の鎧に身を包んでいる。

「……やはり星秀にはまだ大理星君の名は荷が重かったのではないかしら? いまさらいっても遅いでしょうけど――」

 天香にとって、星秀はできのよくない不真面目な弟のようなものである。自身のしくじりで星秀が命を落とすようなことになるなら、冷たいいい方だが、それも自業自得というものだろう。

 しかし、彼が持ち込んできた文黄珠なる女にまつわる謎は、ここへ来て、不気味とも思える広がりを見せ始めていた。星秀の行方ともども、このまま放置しておくわけにはいかないだろう。


◆◇◆◇◆


 はっ楼主から命じられた仕事をしくじって万寿宮に戻った時、りゅう文静がさほど焦りを見せていなかったのは、あとがない峰児と自分とでは、そもそも教団内での価値がまるで違うと考えていたからだった。

 いってみれば峰児は、こうした後ろめたい仕事にしか使い道のない凶器のようなものだった。誰かを傷つけるのには役に立つが、それ以外では出番などなく、あつかい方を間違えれば使うほうまで傷つけかねない厄介な“道具”といえる。

 対して文静は、凶器として峰児におとるところはないという自負を持つのに加え、峰児には絶対にできない内向きの役にも立てる。浄光じょうこうどうを小さな国に例えるなら、峰児は――それに穿山も――戦しか能のない武官だが、文静は武官であると同時に文官の役割もこなせる。将軍であり軍師であり、あるいは宰相役も務めることができる。

 いかようにでも使える便利で有能な自分を、楼主がただ一度の失敗でうとんじるはずがないといううぬぼれが、文静にはあった。

 そして、それは確かにうぬぼれであった。

「……せめて、ふだんから大言壮語を口にしていなければな」

 長椅子の肘掛をこなごなに砕いて怒気とともにまき散らした直後、楼主は何度も深呼吸を繰り返してみずからを落ち着かせ、窓の外を見つめたまま呟いた。

「それだけに期待はずれもはなはだしい。そのよく回る舌先の半分も実力があれば、まだましであったろうに」

「――――」

 峰児や穿山とともに楼主の前に平服していた文静は、しばらくはそれが自分に向けられた言葉だということに気づかなかった。やがて、楼主が淡々と自分をなじっているのだと気づいた文静は、目を見開いて顔を上げ、思わず口を開こうとした。

「楼主」

 それを制するかのように、楼主のかたわらの虚風きょふう祖師がいった。

「この段階で天軍の神将、それも南斗星君が出てくるとはひんどうとて想定していなかった事態……こたびの失態のすべての責がこの者らにあると断ずるのは、いささか酷ではないかと……」

「であろうな。……だから殺さずにおいてやっている」

 冷ややかな楼主の言葉に、隣にいた峰児がびくりと肩を震わせたのが判った。

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