第四回 繰り返す女 ~第一節~




 それに気づいたのはまったくの偶然――眼下にきらめく雲の軌跡を見たからだった。

「あれは……姉弟子かな?」

 天界でのことをあれこれ考えながら、光の雲の上にあぐらをかいてとろとろと下界に下りてきたせいしゅうは、激しく交差する二条の雲を見て眉をひそめた。一方は星秀が乗っているのと同じく明るい金色に輝く雲だが、もう一方はどす黒い黒雲で、たいていその手の雲は外道の妖仙、妖怪が乗るものと決まっている。

「さてはラーフ軍の残党でも見つけたか」

 激闘を繰り広げる両者に気づかれないよう、充分な高度をたもったまま、星秀はその戦いを見守った。星秀がいかに毒づこうが、さんは彼の姉弟子であり、その実力が星秀におとるということはない。もし彼女が苦戦しているなら助太刀にいくべきだが、星秀の見たところ、珊釵にはまだ余裕があるようだった。

「……お相手のおねえさんを生け捕りにしようとしてるのかな? まあ、どっちにしてもここで僕が首を突っ込む必要はないだろ」

 そう判断し、星秀は雲の上に横になった。万が一、珊釵が苦境に立たされることがあったり、さもなければあの雀蜂のような女妖怪を取り逃がしそうになった時だけ、さも急いで駆けつけてきたかのような顔をして手伝ってやればいい。そうすれば自分の手柄にもなるし、何より小うるさい珊釵に大きな恩を売れる。

「……あれ?」

 ふわぁと大きなあくびをもらして寝返りを打った星秀は、珊釵たちの戦いから遠ざかっていく奇妙な影があるのを目撃した。鷲か、鷹か、とにかく姿形こそどこにでもいそうな猛禽だったが、ふつうならありえないほどに大きい。周囲に比較対象がない空のことだから断言できないが、翼を広げた時の大きさは、ふつうの鷲の倍どころではなさそうだった。

 しかもその猛禽は、何かを掴んだまま飛んでいる。

「……!」

 その猛禽が運んでいるものが何なのか、人ならぬ身の星秀の目をもってしても、この距離からでははっきりとは判らない。だが、胸の奥に生じた小さな不安は押しとどめようもなく急速に成長していく。

 星秀はすぐさま立ち上がると、愛用のぼう――雷閃らいせんを引き抜き、巨大な猛禽に向かって光の雲をすべらせた。

「おい、そこの鳥! おまえ、ただの鳥じゃないだろ!」

 言葉が通じるのを前提で、大声で叫びながら突っ込んでいくと、猛禽はそれこそ人間のようにびくっとして星秀を振り返った。いざ接近してみれば、やはりその猛禽は星秀などよりはるかに大きく、その爪に掴んでいるのはれっきとした人間だった。

「――えっ? お、奥さん……?」

 白い帯でぐるぐる巻きにされているのがおうじゅだと気づいた星秀は、なぜそんなことになっているのかという原因や過程を考えることをすべて放棄し、瞬間的に撃発した。

「何なんだよ、おまえは!?」

 激怒の叫びよりも速く、星秀の矛が猛禽の翼を突いた。

「てめェは――っく!?」

 猛禽の口から明確な人間の男の声がもれた。

「どこの不良仙人が化けてるのか知らないけど、今すぐ奥さんを放せ! 放せよ、放せってば!」

「ばっ……」

 卒塔婆のようなサイズの羽根を散らして姿勢を崩した猛禽の爪から、身動きの取れない黄珠の身体が転げ落ちた。

「あ!? このバカ! いくら放せっていったからって、ホントにこんな高さで放すヤツがいるかよ!?」

 早口でののしりながら、星秀は落下していく黄珠を追いかけた。

「くっ……!」

 眼下に広がるのは江南の湖沼地帯だが、たとえ下が地面ではなく水面であっても、この高さから落ちれば命はない。星秀は雲をあやつって黄珠の下に回り込むと、両手を広げて彼女を抱き止めた。

 その瞬間、星秀の足下の雲が消え去った。

「!? ――わっ、忘れてた!」

 光遁の術で空を飛べるのはそれ相応の修業をした神仙や妖怪だけで、ただの人間は雲に乗ることなどできない。星秀のような神将がただの人間を連れて雲に乗ろうとすれば、こうして光遁の術が解除されてしまうのである。

 それゆえにかの三蔵法師は、斉天せいてん大聖たいせいという天下無双の用心棒をしたがえていながら、天竺まで雲でひと飛びすることができず、地道に自分の足で往復したのだ――というような話を、りょくれいから聞かされたことがあったことをいまさらのように思い出し、星秀は歯噛みした。

「だ、だからあいつ、わざわざ鳥に化けてたのか――」

 黄珠を抱きかかえたまま自由落下していく最中も、星秀は四方八方に視線をめぐらせ、さっきの猛禽の姿を捜した。

「! あいつか!?」

 すでにあの巨大な鳥の影はどこにもなかったが、代わりに、こちらに向かって黒い雲を飛ばしてくる男の姿があった。おそらくあの男が猛禽に化けて黄珠を運んでいたのだろう。

「僕も薔薇の花を出す術だけじゃなくて、変化の術のひとつくらいは覚えておくんだったな――」

 不勉強だったことを後悔しつつ、星秀は直下に迫る小さな湖を一瞥した。

ちんこくちんがくせいめいれんこんだい――」

 口の中で祭文を素早く唱え、星秀は湖に向かって蛇矛を差し向けた。

「――なんこうらいげき!」

 その穂先からほとばしった赤い稲妻が、周囲の空気さえ焦げつかせて地上へと降りそそいだ。赤い鱗をきらめかせる大蛇のごとき雷光が湖面を直撃し、膨大な量の水を一瞬で煮えたぎらせる。

「むぷ――!」

 瞬間的にふくれ上がった蒸気が熱い突風に変わり、しっかりと黄珠を抱き締めた星秀を吹き飛ばした。

「ぶっ!?」

 肌をひりつかせる熱風によってあらぬ方向へと飛ばされた星秀は、背の高い竹林へと突っ込み、咄嗟に手に触れた枝を掴んだ。

「ぼ、僕としたことが、こんな、カッコ悪い……!」

 肌をあぶられる痛みに顔をしかめながらも、薄目を開けて確認すると、それでもまだ地上まではかなりの高さがある。よくしなる竹のかんを伝ってすべるように減速し、うまく衝撃を殺して地面に降り立った星秀は、その場に黄珠を横たえ、その身をいましめる帯を切り裂いた。

「は――」

「奥さん、しっかり! 大丈夫、ねえ!?」

 よほどきつく絞めつけられ、ずっと息苦しい思いをしていたのか、黄珠は大きくのどをのけぞらせ、何もいわずに荒い呼吸を繰り返している。星秀は彼女の背中をそっと撫でながら、あたりを油断なく見回した。

 吹き飛ばされた距離や方角から考えて、さっきの湖からそう遠くはない。鳥に変化できるあの謎の男なら、星秀たちが熱風にまぎれてここへ飛ばされてきたことにすぐに気づくだろう。

 だが、人間である黄珠を連れていては、星秀は雲に乗れない。雲に乗れない以上、男の追撃を振り切ることは不可能だった。

「……やるしかないか」

 溜息交じりの星秀の呟きが終わる前に、笹の葉が舞い散る竹林へと、あの男が舞い降りてきた。

「ふざけるなよ……いいところまで行ってたってのによ」

 粗暴な口調で吐き捨てた男は、懐から一本の筆を取り出し、眉根を寄せて星秀を睨みつけた。

「おまけにそのド派手な鎧……さてはてめェ、南斗星君だな?」

「それが判ってるのにそれでも僕の前に立つつもり? ……はー、やれやれだ、やれやれだよ、本当にやれやれって感じだ。身のほどってものを知ってもらいたいね」

 相手を小馬鹿にしたような冗長な台詞の間に、星秀は冷静に相手を観察していた。この鎧をひと目見て南斗星君と見抜き、なおかつこうして逃げずに追いかけてきたということは、男はそれなりの実力を持っているということだろう。もしかするとこの男も、珊釵が戦っていた女と同じく、ラーフ軍の残党なのかもしれない。

 男が手にしていた筆をひと振りすると、一瞬でその大きさが変わり、巨大な斧――えつになった。星秀の蛇矛と同じく、男の鉞もまたほうの一種なのだろう。

「叩いて砕いて黒焦げにしてやる……!」

 男は鉞を振りかざして打ちかかってきた。

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