第三回 魔蟲 ~第五節~
「……何か聞こえなかった?」
「は、はい」
後ろをついてきていたほかの小間使いたちも、足を止めて振り返った。
人気の少ない寂れた墓場は、昼間であっても独特の空気があって、決して明るく楽しい場所ではない。ただ、黄珠がここで感じたのは、この場所柄とはまったく無関係の、何とも説明しづらい胸のざわめきだった。
「お、奥さま! あれを!」
その時、小間使いのひとりが空を指差した。
「ひっ!?」
気丈でずばずばものをいう清蘭が、青空に不意に現れた小さな黒雲を見て、らしくもない短い悲鳴をあげた。
「あ、あれは……!」
「はっ、蜂です! 蜂の群れですよ、あれ!」
墓参りに来ていたほかの人々が、おびただしい数の蜂に襲われ、口々に叫びながら逃げ惑っている。騒ぎを聞きつけて出てきた寺の僧侶たちも、逆に蜂に追われて逃げ散るありさまだった。
「みんな、逃げて!」
逸早く狼狽から立ち直った清蘭が、上にはおっていた衣を脱いで黄珠の頭からかぶせた。
「――奥さま、これを!」
「でもあなたは……」
「わたしは蜂だろうと蜘蛛だろうといくら刺されても問題ありませんけど、奥さまはダメです! 刺されたら死ぬこともあるんですから!」
清蘭は蜂の群れを追い払おうと柄杓と手桶を振り回しているが、それがどれほどの効果を持つのかは怪しい。後ろ髪を引かれつつも、頭をかばいながら黄珠は駆け出した。今はほかの小間使いたちのことまで気遣う余裕はない。
「はぁ、はぁ……!」
息を切らせ、黄珠は寺から少し下ったところにある竹林へと逃げ込んだ。さっきまでの狂騒が嘘のように、ゆるやかに流れる風が緑の笹の葉を揺らすさらさらとした音が、静かに染み入ってくるような気がする。
散り散りに逃げたせいか、ほかの小間使いたちの姿は近くにはない。蜂の群れからもうまく逃げおおせたようだった。
「…………」
乱れた息を整えながら、あらためてあたりを見回していた黄珠は、さっきの寺のほうから誰かがやってくることに気づいた。
「清蘭……?」
仲のいい小間使いが追いついてきたのかと思って駆け寄ろうとしたが、すぐに黄珠の足が止まった。
「ぶんぶんぶ~ん……」
それは黄珠の知らない女だった。目が覚めるような橙色の男物の衣をまとっているが、目鼻立ちのくっきりとしたはたち前くらいの美女で、しかもその手には陽射しを跳ね返して輝く細い剣が握られている。
先日の夜、運河での川遊びで因縁をつけてきた男たちのような粗暴さは感じない。が、抜身の剣を振り回している時点でまともではなかった。しかもその女の頭上には、いったんは振り切ったはずの蜂の群れが、女に襲いかかるどころかおとなしくつきしたがっているのである。
「!」
黄珠は女に背を向けてふたたび走り出した。女が何者なのかは判らないが、少なくとも、あれは蜂の群れなどよりはるかに恐ろしい何かに間違いなかった。
しかし、走り出した黄珠の前に、唐突にまたあらたな人影が現れた。
「手荒な真似はするなとのお達しですので――」
「え――」
目を見開いて息を呑んだ黄珠の眼前で、浅黒い肌の男が軽く肩を揺する。その直後、男の袖の中から白い帯が飛び出し、まるで蛇のように黄珠に絡みついた。
「あ……っ!」
足首から肩のあたりまで巻きついた帯は、男が引っ張っているわけでもないのに、容赦なく黄珠を絞めつけていった。黄珠が息を吐けばそのぶんさらに胸の絞めつけが強くなり、肺に新しい空気を送り込むのがどんどん難しくなっていく。まさに大蛇に捕らえられてじわじわ絞め殺されていく小鹿だった。
「よー、やりすぎじゃねーのか?」
その場に崩れ落ちて息苦しさに喘いでいる黄珠のもとに、蜂の女がやってきた。
「大丈夫ですよ。骨が折れるほどではありません。せいぜい息苦しいだけです。楼主のもとへ運ぶまでに、うっかり暴れたり叫ばれたりしても面倒ですから」
男が冷ややかな目で自分を見下ろしている。こちらも黄珠の見知らぬ相手だった。なぜこの男女が自分を襲ったのか、黄珠には判らない。それぞれが見せた不思議な芸当から考えて、どちらもふつうの人間でないことは明らかだったが、ならばなおのこと、自分がこうして拉致される理由が理解できなかった。
「――で、どーやって運ぶよ? 確か凡体肉眼の人間てのはよ、光の雲に乗せられねーんだよな? まさかさっきの舟のとこまでかついでくのか?」
「いえ、それでは万寿宮に運び込む際に、一般の信徒たちの目にも触れかねません。楼主のお部屋に一気に送り届けたほうがよいでしょう」
「だからどーやってだよ?」
「私が」
言葉少なに応じた男がふたたび肩を揺すると、ぼふりと黒い煙を発し、その姿が巨大な猛禽に変じた。
「……!」
「お! 器用じゃねーのよ、オメー!」
男の変貌を目の当たりにして驚く黄珠とは対照的に、蜂の女は手を叩いて無邪気に喜んでいる。
「なるほどな、そーゆーことか。雲に乗せていけねーから、オメーがこのまま掴んで運ぶってことなんだな? だろ?」
「そういうことです。一気に高度を上げてしまえば、人間の目では空を飛ぶ鳥の大きさなど正確には判りませんから、意外に目立たず戻れますし」
猛禽の姿でうなずいた男が大きな翼を広げると、それだけであたりに散り積もっていた笹の葉が巻き上がった。
「……あれ? んじゃウチはどーすりゃいーんだ?」
「さすがに峰児どのまでいっしょには運べませんから、申し訳ございませんが、あの舟を使ってお戻りください。決して雲に乗ったり余計な騒ぎなどは起こさぬようにお願いしますよ?」
「ちぇっ……まーいーや、これで楽嬰サマも喜んでくれるだろーしな!」
「そういうことです」
猛禽に変じた男は翼をはばたかせてふわりと浮かび上がると、凶悪な両脚の爪を開いて黄珠を鷲掴みにした。
「――それでは峰児どの、私は先に戻ります」
「おー! またあとでな!」
蜂の群れを引き連れ、峰児と呼ばれた女はのんびり歩いて去っていく。その間にも、黄珠は異様な猛禽によって空へと運ばれつつあった。
「いっておきますが、むやみに暴れないでくださいよ?」
どうにか身をよじって逃れようとする黄珠に、猛禽が警告した。
「――うっかり落ちればさすがに命がありませんからね。潰れた柿のようにはなりたくないでしょう?」
「……!」
黄珠はびくっと身体を硬直させた。確かにこの高さから落ちれば、地面に叩きつけられて即死は免れない。死の恐怖に身を縮こまらせ、黄珠はただ風を切る音を聞くしかなかった。
そんな黄珠の視界が、不意に回転した。
◆◇◆◇◆
竹林をあとにし、古ぼけた寺の墓場まで戻ってきた峰児は、自分が呼び寄せた蜂たちを追い散らすと、細身の剣を一本の簪に変えて自身の髪に差した。
「あー、めんどくせー」
雲に乗って飛んでいけば万寿宮までものの一〇秒もかからないのに、これから舟のところまで戻って、おまけにそれを漕いで帰らなければならない。峰児にはそれがどうにも面倒だった。
とはいえ、一度はしくじった仕事がうまくいったのは文静の手伝いのおかげだし、これで斜めになった楼主の機嫌も直るだろう。少し癪だが、しばらくはあの男のいうことにしたがっておいたほうがいいかもしれない。
そう思って小さな不満を押し潰し、峰児は鼻歌交じりに歩いていた。
「奥さま! 奥さま!? どこですか!」
途中、黄珠が連れていた小間使いたちが、主人の姿を捜して声を張りあげている。逃げ惑ううちに蜂に刺されたのか、寺の僧侶たちの手を借りて手当を受けている娘もいるようだった。
「ふん」
文静のいいつけ通り、死人は出していない。峰児は人知れず唇の端を吊り上げて笑うと、少女たちをよそに石段を下りていった。
「――ん?」
来た時には、確か山門のところに牛車があって、数人の男たちがそのそばで休んでいた。だが、戻ってきてみると男たちの姿がない。代わりに、ほんのわずかだが、焦げ臭い独特の異臭がただよっている。
「文静のヤロー……ウチにはオンビンにとかいってたくせに、自分はやることやってんじゃねーか」
臭いのもとを捜してあたりを見回してみると、焼け焦げた靴が片方だけ転がっている。男たちの死因を看破した峰児は、軽く舌打ちしてきびすを返した。
「あいつのことだ、女に逃げられねーよーにしといたとかっていうつもりだろ。あのヤロー、ひとりだけいい思いしやがって……」
ぶつぶつぼやきながら視線を上げた峰児の前に、幼い少女が立っていた。
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