第三回 魔蟲 ~第四節~
「あ? どーしたんだ、オメー?」
「いえ……申し訳ありませんが、それでは騒ぎが大きくなりすぎます。そもそも、今回の策については、先日ご説明したはずですが」
「あ? そうだっけか?」
「騒動の陰に我ら浄光道がいるというような噂が立っては、楼主のお立場が悪くなってしまいます。ですから隠密裏にことを進めなければいけないのですよ」
「そういや前に楽嬰サマもそんなことおっしゃってたよーな……」
「……思い出していただけて何よりです」
前もって今回の手順を念入りに説明していたのがほとんど無駄だったと悟り、文静は内心の苛立ちを圧殺して小さく微笑んだ。
「きょうはあの女の亡母の命日であること、すでに調べがついております」
そういって、文静は長い竿を川底から引き抜き、北のほうを指ししめした。
「――両親の墓は蘇州郊外の小さな寺にあるそうです。おそらくあの女はその墓前に来るでしょう。そこならば、蘇州の城内よりも人目ははるかに少ないはず」
「そこをかっさらえばいーんだよな? 思い出したぜ、あー、そーだそーだ!」
峰児を相手に詳しい段取りを説明したところであまり意味はない。それこそ小さな子供を相手にする時のような、無駄を削ぎ落してできるかぎり単純化した指示でなければ守れないだろう。
それを踏まえて文静が策の続きについて説明すると、峰児はあからさまに不服そうな顔をした。
「……えー? そんなにあれこれやらなきゃなんねーのかよ? メンドーじゃねーか、それ? ガッと突っ込んで女さらってほかは皆殺しでいーじゃねーのよ」
「おっしゃりたいことは判りますが、先ほどもご説明したように、万が一にも浄光道や楼主に疑いがかかってはいけませんし、何より、天界の連中に怪しまれることだけは避けなければなりませんから」
「楽嬰サマのためってんなら……まー、仕方ねーか」
「そういうことです。それに、あなたは面倒といいますが、本当に面倒なのは私のほうです。あなたがやることは非常に単純だ」
「まー、ここはオメーの策に乗ってやるよ」
峰児にいうことを聞かせるには、適度に楼主のためといい聞かせればいい。
文静たちは小舟で湖を渡り、蘇州近くの岸辺にたどり着いた。
「――くだんの寺はこの先およそ一里ほどのところにあります。峰児どの、今の様子を調べていただけますか?」
「あ? ああ。ちょい待っとけ」
峰児が軽く短く口笛を吹くと、彼女の頭の上に一匹の蜂が飛んできた。
「……でもよー、よく考えてみたら、偵察も何も、ウチらが自分で飛んでったほうが早くねーか?」
頭上で何度か旋回してから飛び去っていった蜂を見送り、峰児はいまさらのようにいった。
「ですから、目立つことは避けたいのです。雲で飛んでいったのではこの地の
「そいつらもブッ殺せばよくねー?」
「それはあくまで最後の手段にしてください。土地神や城隍神は天界とのつながりがありますから、ことによっては天軍が出てくることにもなりかねません」
すぐに暴力性を発露させようとする峰児をなだめつつ、文静は墓地への道を歩き出した。もっとも、手ぶらで歩いていくこのふたりを見て、墓参の途中と思う者はまずいないだろう。
「――お」
ほどなく、峰児のもとへと舞い戻ってきた蜂が、彼女の耳にそっとたかった。
「その墓地にゃほとんど人はいねーとよ。例の女と、その連れらしい娘どもが五、六人いるだけだ。あとは寺の坊主どもが二〇人くれーかな? 三〇はいねーと思う」
「そうですか。やはり街中で狙うよりはやりやすそうですね」
「なー、やっぱ目当ての女以外は皆殺しでいーんじゃねーか?」
「……穏便にお願いしますよ」
大仰にかぶりを振り、文静はもう一度釘を刺した。
やがて、ふたりの行く道がゆるやかな上り坂となり、その行く手に慎ましやかな山門が見えてきた。その先には一〇〇段にも満たない石段が続いている。文静も実際に訪れるのは初めてだが、思っていたよりも小さな寺のようだった。山門のところに停まっている牛車と男たちは、おそらく女たちをここまで乗せてきたものだろう。
「さーて」
舌なめずりせんばかりの呟きにふと隣を見ると、峰児が親指一本分ほどの幅しかない細身の剣を手にして、にやにやと凶悪に微笑んでいる。ついさっき穏便にといった言葉を早くも忘れたのかと、文静は人知れず舌打ちした。
「……ま、不幸な事故で死ぬ人間なんてのは珍しくもねえしな」
「あ? 何かいったか?」
「いえ。……それではお願いしますよ、峰児どの。できるかぎり穏便に」
「おー、オンビンにな!」
子供が折り取った木の枝を振り回して遊ぶように、峰児が剣を振り回しながら石段を上がっていく。その白銀の刀身が風を切るたび、虫の羽音を思わせる唸りがあたりに響き渡った。
山門のところで見送っていた文静は、峰児の頭上にまたあらたに蜂が飛んできたことに気づいた。だが、今度は一匹ではない。それははっきりとした群れだった。それも、ふつうならありえないことに、さまざまな種類の蜂が混在している。針すら持たない小さな蜜蜂から、たったひと刺しで人を殺しかねない毒を持つ雀蜂、さらには決して群れをつくることのない鼈甲蜂までが、まるで峰児の剣の唸りに呼応するかのように集まってきていた。
「あんなのに襲われるんじゃあ、まさに不幸な事故、だな……」
文静はにやりと笑って懐に手を差し入れると、牛車のそばでおしゃべりをしている男たちにそっと向き直った。
◆◇◆◇◆
母が亡くなって七年になる。区切りとしてはちょうどいいかもしれない。少なくとも黄珠は、いつも七回目の命日をひとつの区切りにしている。
「……こういう考え方はおかしいのかしら?」
黄珠の呟きに、並んで歩いていた
「おかしいかどうかは判りませんけど、わりと珍しいほうでしょうね」
「そう?」
「死んだかたのことなどすぐ忘れてしまう人もいらっしゃいますけど、おおむねこの地には先祖をうやまう気持ちが強い人が多いので、七年たったらそこですっぱりやめるという人は、どちらかといえば少数派だと思います」
黄珠にとって、自分の本音をいえる相手は小間使いの清蘭だけだった。小間使いというより、妹のような存在といったほうがいい。屋敷にはほかにも多くの小間使いがいるが、黄珠がもっとも信頼しているのがこの清蘭で、それはもう他人とはくらべようがないものだった。
「――ただ、奥さまがその“ふつう”にならう必要もないのではありませんか? 奥さまご自身が“ふつう”ではないので」
「親不孝……なのかもしれないわね、わたしは」
「さあ、どうでしょう? 下には下がおりますし」
清蘭が冗談めかして笑う。黄珠がこんな会話ができる相手も清蘭だけだった。
苔むしたり傾いたり、角が丸くなった墓石が無数に立ち並ぶ中を行く黄珠の一行は、女主人と小間使いの女たちが六人ばかりで、あたりには人影もまばらだった。もともとこの寺は――いい方は妙だが――あまり流行っているとはいいがたく、墓参に来る人々もさほど多くはない。清明節の当日になれば、それでもかなりの人が集まってくるだろうが、ここ二年ほどは、黄珠は清明節よりも前に母への墓参をすませることにしていた。清明節の当日は、屋敷で盛大に亡き夫を弔わなければならないからである。
「毎年こうして墓参りをしているだけで充分だと思いますよ?」
黄珠の胸中を酌み取ったかのように、清蘭が小声で呟いた。
「――奥さまのご両親が、お金に困って奥さまを売ったことには変わりないんです。お墓や位牌があるだけでも感謝すべきところですよ。……あの世で」
そう続けた清蘭は唇をつんととがらせている。ずっとすぐそばで黄珠の生きざまを目の当たりにしてきた清蘭は、黄珠の親のやりように今も腹を立てているようだったが、黄珠自身は特に腹を立ててはいない。
「……でも、人間てそういうものでしょう?」
「奥さまはあきらめがよすぎます。人間は人間はっておっしゃるなら、もう少し欲深くなったっていいんですよ? いえ、なるべきなんですよ! もっと強欲に! なさりたいことをなさるべきです!」
「……わたしはもう、充分にわがままをかなえてもらっているから」
自分の代わりに荷物を持ってくれている清蘭の頭をそっと撫でた黄珠は、浮かべたばかりの笑みをふと収め、遠くから聞こえてきた人の声に振り返った。
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