第三回 魔蟲 ~第三節~
「――あれ?」
途中、玻璃の林の中の小道を歩いていた星秀は、きらきらと輝く木々の向こうの池のほとりに、真っ白な衣をまとった女がたたずんでいることに気づいた。
「黄珠ちゃん? ……いや、まさかね」
その女が黄珠に似ているような気がして、星秀は林を抜けて池のそばに走り出た。しかし、さっきまでそこにいたはずの女はどこにもいない。
「……?」
よくよく考えてみれば、ただの人間であるはずの黄珠が天界にいるはずもなかった。それに、黄珠よりももう少し背が低い――美女というよりは美少女と呼んだほうがよさそうな女性だった気もする。いずれにしろ、天界の住人は美女揃いだから、たまたま黄珠に面差しの似た誰かを彼女だと見間違ったのかもしれない。
……とも思ったのだが、たとえ別人だとしても、その美女が煙のように消えるというのは解せなかった。
「見間違い……はないな、うん、ありえない。この僕にかぎって」
美女に反応する感覚の鋭さなら人後に落ちないと自負する星秀である。そう自分にいい聞かせた時、星秀はかすかにただよう芳香に鼻をひくつかせた。
「この香りって……」
「触れるな」
「!?」
頭に直接響いてくるような唐突な呼びかけに、星秀はぎょっとしてあたりを見回した。
「探ろうとするな。今あるままに、放っておくがいい」
「だっ……!?」
その声がどこから聞こえてくるのか、星秀には判らなかった。やたら近くからの声のようにも、ひどく遠くからの声のようにも聞こえるし、上下左右、どこからかけられたものなのかもはっきりとしない。もしかすると本当に、耳ではなく頭の中にじかに届いた声――のようなものなのかもしれなかった。
「誰だ!? どこにいる!?」
星秀は衣の襟もとに刺しておいた縫い針を引き抜き、それを一瞬で
「…………」
いつでも応戦できる態勢のまま、星秀はあらためてゆっくりと周囲を見回した。やはりあたりには誰もいない。が、自分に向けられている視線は感じる。ほんのわずかではあったが、それは確かに、星秀を見据える何者かのまなざし、気配だった。
「いかに神仙とて人の心は無理には動かせぬもの……だが、思わぬことで揺れてしまうこともある」
「何の話だ!? 何をいってる!?」
「揺らすな。揺らさなければ何も起きない……世を捨てたわたしのせめてもの忠告、決して忘れるな」
そう告げたのを最後に、謎の声の主は気配を消した。
「な……何なんだよ、いったい……?」
頬を伝って垂れていく汗の雫をぬぐい、星秀は深い溜息をついた。
かなり漠然としていたものの、さっきの声が星秀に何かしらの警告を発していたのは理解できる。ただ、それが意味するところと相手の正体が判らない。
天界にいる神仙の多くは、格でいえば星秀よりも上で、その気があれば星秀を幻術で翻弄することもたやすい。だが、そもそも星秀に釘を刺したいのであれば、あんな曖昧なやり方をせずに、星秀を呼びつけてはっきりと命じればいいだけの話である。だから余計に相手の正体と、何よりもその意図が判らない。
蛇矛を針に戻してしまい込み、星秀は眉間にしわを寄せた。
「触れるな探るなって……何のことだよ? まさか、彼女のことを調べるなってことなのか――?」
今から戻って兜率宮を訪ねようかという考えがふと頭をよぎる。老君と、それに兜率宮に行ったはずの太白の知恵を借りれば、さっき星秀に警告を発したのが何者なのか、判るとまではいわないまでも、何かいい知恵を授けてくれるかもしれない。
しかし結局、星秀は兜率宮には行かなかった。
◆◇◆◇◆
蘇州の南東、大小の湖や池が点在するあたりに、
無数の信者たちからの寄進を受けて、現在も増築と改修が進む万寿宮は、いまや文字通りの宮殿と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。日がな一日、線香や紙銭が焚かれているために、遠くからでもはっきりと判るほど、この壮麗で巨大な道観からは幾条もの煙が立ち昇り、風にたなびいている。
「何見てんのよ、オメー?」
川面に竿を差していた
「いえ……楼主と祖師は、たった数年であれほどのものを築き上げたとお聞きし、あらためて感じ入っていたものですから」
「つまりアレか、
「……まあそうですね」
「オメーも判ってんじゃねーの、へへっ……」
文静に舟の舵取りを任せ、峰児は呑気に笑っている。峰児の楼主に対する入れ込みようはなみなみならぬもののようで、自分が褒められたわけでもないのに、気分よさげにうなずきながら、干し肉を肴に瓢箪の酒をあおった。
「峰児どの、これから大事なお役目があるのですよ?」
「といったって、人をひとりさらうだけだろ? 簡単じゃねーか」
「その簡単なお役目を、峰児どのはすでに一度しくじっておられるのでは?」
「それは――」
文静の言葉に、峰児は肩越しに振り返った。口もとをぬぐった女の顔は不機嫌そうに曇っている。
「あの場では楼主のお怒りに触れずにすみましたが、これでもしまたお役目にしくじるようなことがあればどうなるか……楼主も二度目はないとおっしゃっていたではありませんか」
「だ、だからよー、最初のは余計な邪魔が入ったからで――」
「楼主も祖師もあえておっしゃらなかったのでしょうが、最初から峰児どのがみずから動いていれば、邪魔が入ったとてお役目はこなせていたのではありませんか?」
「ぐ……!」
峰児がこういう理路整然とした説教を何より嫌うことを文静は知っている。しかし、彼女がいつものような癇癪を起さず、ぐっと唇を噛み締めて押し黙っているのは、文静の指摘が正鵠を射ていたからと、何より、本当にもう失敗が許されないと承知しているからだった。
とはいえ、あまり峰児をいじめるのもよろしくはない。語気をややゆるめ、文静は一拍置いて尋ねた。
「……そういえば、峰児どのがお役目を任せたという男たちはどうしたのです?」
「え? あ、ああ……いや、全員ずぶ濡れで手ぶらで戻ってきて、しくじったとかぬけぬけといいやがるから、ついカッとなって細切れにしちまった」
そういって、峰児は軽く舌なめずりをした。彼女がそういうのであれば、それはまさしく言葉通りの意味なのだろう。
葦の林の中を縫って静かに舟を北へ進めながら、文静は嘆息した。
「……その前に話は聞いたのですか?」
「え? ハナシ?」
「つまり、どんな邪魔が入ったのか……邪魔に入ったのは何者だったのかというようなことです」
「あ」
「…………」
峰児は楼主に対する忠誠心と強さにおいては疑うべくもないが、文静からすれば救いようがないほど頭が悪い。想像力がないといったらいいのか、あるいは短慮というのか、実際に行動に移す前にその後どうなるのかをまったく考えようとしないところが、この危険な女のもっとも危険な部分だった。
さらに溜息をかさね、文静はいった。
「……どちらにしろ、ふだんから安酒を飲んで管を巻いているような連中では、武術の達人が用心棒についているだけで手も足も出なかったでしょう。相手はそれなりの資産を持っているのですから、そのくらいは想定しておくべきでしたね」
「で、でもよー、武術の達人とかいったって、ウチにかかりゃ……」
「そうですね。だから最初から峰児どのが動くべきだったのです」
「う」
「まあ、用心棒の数や質は判りませんが、峰児どのと私が出向く以上、今度こそ問題ないでしょう」
「そ、そーだな! 要はウチが用心棒どもを皆殺しにしてかっさらえばいーんだろ?」
「…………」
そもそも楼主がこのお役目を峰児に振ったこと自体が間違いの始まりだったのではないかと、文静は眉間にしわを寄せて無言でかぶりを振った。
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