第三回 魔蟲 ~第一節~
ふと思い立って光の雲に飛び乗り、一気に天界へと戻ってきた
六人いる南斗星君たちは、実質的には少数精鋭の遊軍的な存在として天軍の一角をなしているが、名目上は、下界に住むすべての人々の誕生を管轄する役所――南斗星君府の管理職ということになっている。さらにいうなら、
そういう立場であるから、星君府の門番たちも、星秀に対しては最敬礼で出迎えた。
「これはこれは大理星君さま……急なお越しですが、きょうはまた何のご用でしょう? 確か今は、
長い石段を登る星秀のあとを、少しうろたえ気味に門番たちがついてくる。先代だった父の跡を継いで大理星君に就任した日に初めてここへ来て以来、ほとんど姿を見せることのなかった星秀が、何の予告もなく突然現れたせいで驚いたのかもしれない。
「あー、気にしない気にしない、きみたちはきみたちのお仕事がんばって」
「は、はあ……」
門番たちにひらひらと手を振って中に入ろうとした星秀は、つけ足すように、
「――あ、きょうは
「
「ふ~ん、了解。じゃ、きみたちはお仕事戻ってね。ほらお仕事お仕事♪」
小躍りするような足取りで星秀が飛び込んだ星君府の中は驚くほど静かで、床から天井まで届く書架が無数に立ち並ぶ間を、数多くの文官たちが無言で行き来していた。肩書だけとはいえここの長であるはずの星秀だが、ここでどんな仕事をしているのかは、星秀も具体的にはよく知らない。ただ、下界で生まれた人間について何か調べたいのなら、真っ先に当たるべきなのはここだということだけは判っている。
「あー……そうそう、そうだったそうだった、こんな感じだったっけ。思い出したよ、うん、そうだそうだ」
「あなた何をぶつぶつほざいているのかしら? いまさら職場見学というわけでもないでしょうし……どちらにしても真面目な職員たちの邪魔ねえ、とっても」
冷ややかなその言葉に振り返ると、小さな銀縁の眼鏡をかけた黒髪の美女が星秀を睨みつけていた。
「やあ、天香ちゃん、ひさしぶり!」
美しい同僚を前にして、星秀は満面の笑みとともに無から生み出した薔薇の花を差し出した。しかし、当の同僚はにべもない。
「邪魔といったわよね? ひょっとして耳の穴に松脂でも詰まってるのかしら? だとしたら少し風通しをよくしたほうがいいのかもしれないわね」
美女はそういって、自分の髪をまとめていた簪を一本、慣れた手つきで引き抜いた。
「ごっ、ごめん、ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
星秀は咄嗟に薔薇を放り出して両耳を押さえ、光の雲に乗って高い天井近くへと舞い上がった。星秀の同僚に当たる南斗保命星君の
「……で?」
天香は髪に簪を戻し、腕組みして星秀を見上げた。
「天界内では緊急時以外は光遁を使うことは禁止よ? そんな基本的なことも忘れたの? ……後頭部に強い衝撃をあたえれば思い出すかしら?」
「わ、判った! お、おお、下りる! 下りるから、下りるとも! だっ、だからきみも、へっ、平和的に、おだやかに僕とお話ししよう? ねっ?」
「わたくしにはあなたと話すことなどないのだけど? そもそもあなたは珊釵どのといっしょに任務で下界に派遣されているはずよね? まさかあなた、その大事な任務を放棄して――」
「あっ、いや、違う! 違います! 違いますとも! きょ、きょうはその任務にかかわることで、天香ちゃ……天香先輩にお聞きしたいことがありまして! それでこうしてまかり越した次第でして――」
「任務にかかわること? そうなの。……もし口から出まかせだったら潰すけどいいわよね?」
眼鏡を軽くくいっと押し上げ、星秀の意志を確認するというより決定事項を告げるかのように天香がいう。何を潰す気なのかは、怖くて星秀も聞けなかった。
「……本当に職員たちの邪魔になるから、奥の部屋で聞くわ」
「う、うん」
六人の南斗星君たちが全員一度に軍人として出動するのは、よほど差し迫った緊急事態の時だけであり、ふだんは誰かひとりが持ち回りでこの星君府で職員たちを監督している。ただ、星秀は退屈な業務が嫌いということもあって、これまでずっとあれこれ理由をつけては監督業務を回避してきた。
だから、本来ならこの役所を統括する大理星君――つまりは星秀のために用意されているはずの奥の部屋にも、ほとんど立ち入ったことがない。ましてや執務用の机になど着いたこともない。
「――それで、聞きたいことというのは? わざわざわたくしの業務中に訪ねてくるくらい重要なことなのよね?」
さも当たり前のように星秀の机に陣取り、椅子をかすかにきしませ、天香は静かに嘆息した。しかし、綺麗に磨かれた爪が並ぶその指先は、机の右のほうに置かれている硯に添えられ、その表面のなめらかさを確かめるかのように、つねにさわさわと動き続けている。
黒くしっとりした艶を放つ硯は、滝から流れ落ちる水と池とを彫刻によって描き出した見事な逸品で、どっしりと安定感があり、いかにも墨をすりやすそうな大きさをしている。だが、どうにも星秀の目には、それが破壊力のある鈍器にしか見えなかった。
「……星秀くん?」
「え? ――ああ、はい! ごめんなさい! おっ、お話ですよね、お話! 判ってます、判ってますとも! 忘れてなんかいませんよ、ええ、もちろん!」
「手短に願いたいのだけど」
「あ、うん」
呼吸を整え、星秀はあらためて切り出した。
「……
「人間?」
「うん。名前は
星秀は机に歩み寄ると、自然な動きで天香の手もとにあった硯を引き寄せ、筆を一本手に取った。
「……こういう字を書くんだけど」
すったばかりの墨を筆先に含ませ、白い紙に黄珠の名前を書く。それと星秀の顔を交互に見くらべ、天香は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「この名前からして女かしら?」
「うん。確か今年で一九歳、それがもうとっても美人で――」
「……あなた、以前から節操のない子だったけど、ついに下界の女にまで手を伸ばし始めたの? おまけに女遊びの相手の素性をここで調べさせようだなんて――」
「ちっ、違うから! 違うよ、違いますー!」
硯を引き戻して鷲掴みにしようとする天香の手を押さえ、星秀はいった。
「こっ、これはお役目にもかかわることだから! ほ、本当だから! ほら、僕の目を見てよ! この純粋な輝きを見れば、僕がでたらめをいってるわけじゃないってことがぶぐお!?」
軽く触れる程度の目潰しを食らった星秀は、顔面を押さえて床に転がった。
「どさくさにまぎれてわたくしの手を握るだなんていい度胸ね、星秀くん」
「だ、だってきみ、この硯で僕を殴ろうとしてたんじゃないの? だから咄嗟に――」
「そんなことするはずがないでしょう? ここの硯は
「け、結局は僕をブン殴ろうとしていたんじゃないか!」
「ふだんのあなたのおこないが悪いから誤解されるのよ?」
「にしたって、最後まで話を聞いてくれてもいいじゃないか、まったく……」
赤く充血した目をこすりながら、星秀はようやく立ち上がった。
「――それで、この女が何なの?」
「美人なんだよ」
「――――」
「あ、いや、それだけじゃなくてね」
今の天香にはほんのわずかな冗談すらいってはならないらしい。星秀は机の縁に寄りかかり、大仰に嘆息した。
「その美女はさ、間違いなく人間なんだけど、でもどこか妙なんだよね」
「何が妙なの?」
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