第二回 きみの名は? ~第七節~

「――食事をしないのはともかく、酒の一滴も口にしないというのは、あの御仁にしては珍しいのでは?」

「まあ、あの小僧の中の優先順位でいえば、女、酒、遊びであろうからな」

 いったん部屋に入った珊釵は白玉を盛った瑠璃の鉢を卓の上に置くと、衣の袖をまくりながらふたたび庭に出た。

「少し喝を入れてやるとするか……」

「おっ、お待ちください、鎮嶽星君どの! ――珊釵どの!」

 腰から下げていた帯飾りを丸盾に変え、大きく振りかぶったところで、伍先生が慌てて珊釵を止めに入った。

「何かな、先生? 楼閣の修繕のことなら気にすることはないぞ? それも本官が責任をもって小僧に手伝わせるゆえ」

「い、いえ、ですから、そもそもいきなりこの楼閣が崩壊などしたら、大騒ぎになってしまいます! 近隣の住民たちにも迷惑になりますし……」

「ふむ。では楼閣は壊さぬよう、うまく小僧だけを狙って――」

「いや……まずはそのお考えからあらためてはいかがです?」

「とはいえ、ああも堂々となまけておるのを放置しておくわけにはゆかぬのでな」

「大理星君どのにもいろいろとあるのでしょう、いろいろと。……さあ、珊釵どのも、熱いうちにお茶を召し上がってください」

 珊釵は伍先生に手を引かれ、部屋の中に戻った。

「――それで、先ほどのお話の続きなのですが」

「すまぬ、何だったかな?」

「浄光道のことです」

 青く澄んだ茶を小さな碗にそそぎながら、伍先生はいった。

「ああ……古い神を祭る連中の話であったか」

 ここ一年ほどの間に、蘇州を中心とした長江流域一帯で広く信者を集め、急速に勢力を広げているのが、神蛇浄光道を称する集団だった。民衆が神にすがろうとするのは珍しくない話だが、伍先生にはどうにもそれが気になるのだという。

「だが、特に過激な連中でもないのだろう?」

「それはまあ……三国時代の黄巾党のような、宗教を核として集まった民衆が武装蜂起するようなことにはならないでしょうが――」

「では何が気になるとおっしゃる?」

「不満をかかえた民衆が、現状を打破するために決起するというのならまだ判りやすいのですが、彼らの教えというのが何とも後ろ向きというか……そもそも、彼らが祭っているのは女媧じょか神でして」

「ほほう」

 女媧は、天界に住まう神々たちが生まれる前から存在し、この世界そのものと人々を生み出したといわれる古い時代の女神である。世界が今の形になった時、女媧は世界の秩序の維持を若い神々たちに任せ、みずからはいずこかへ姿を消したという。そのため、今の天界にも、じかに女媧と会ったことのある神はほとんどいないという話だった。

「本官も女媧神にはお目通りしたことはないが……聞けば女媧神は半人半蛇の巨大な女神だとか。神蛇浄光道とはそこから名づけたものか」

「おそらくそうでしょう。彼らの教義は、この世界と人間はすべて女媧神によって生み出されたという神話をさらに一歩推し進めた、ある種の終末思想に基づいているようなのです」

「終末思想?」

 白玉に追加で砂糖を振りかけていた珊釵は、伍先生の不吉な言葉に思わず手を止めた。

「現在、この宋の国が内憂外患に揺れていることはご存じですか?」

「さほど詳しくはないが、一応はな」

「北方からは騎馬民族が押し寄せ、それを迎え撃つべき軍も朝廷も腐敗しております。この蘇州の繁栄だけを見れば、とてもにわかには信じがたいことですが、おそらくこの国もそう長くはもちますまい」

「それほどか」

「ええ。蘇州、杭州といった江南の大きな街がこれだけ栄えているのも、これまで国の中心であったはずの華北が荒廃し、否応なく人と物資が南へ流れてきた結果といえるでしょう」

 両手で包み込むように持った碗をじっと見つめ、伍先生は静かに呟いた。

 おそらくまだ人間として生きていた頃から、伍先生は多くの国々の治乱興亡を目の当たりにしてきているはずだった。だが、だからといって、そうした世の無常に慣れるわけでもないのだろう。伍先生の表情から珊釵が読み取ったのは、人の愚かさに対する何とも哀しげな諦念だった。

「……浄光道では、この混迷した状況を、世の終わりだと民衆に説いているのです」

「世の終わり? 別にこの世界は終わらぬが?」

「大きな不安をかかえる民衆がそのようなことをささやかれれば、その気になってしまう者も出てくるのでしょう。事実、貧しい人々を中心に、浄光道への支持は広がっているようですから」

「人間の考えというものが小官には判らぬな。そのような後ろ向きの教えが人心を集めるとは……夢も希望もないではないか」

 冷たい白玉をたいらげた珊釵は、熱い茶をすすって嘆息した。

「いかさま、夢も希望もない今の世ですから、それをすべてなかったことにできるという浄光道の教義が人を惹きつけるのでしょう」

「なかったことにできる……だと?」

「そうです。何でも浄光道では、そう遠くない将来、ふたたび女媧神が降臨し、穢れた大地とそこに住む悪しき者たちを大洪水によってすべて押し流したあと、あらたな世界を作り直してくださると教えているのだとか……」

「は? それでは悪しき者たちどころか信徒もみんな死んでしまうではないか」

「そうですな。ただ、浄光道の信徒だけは、あらたな世界に生まれ変わることができるらしいので……」

「都合のいい話だ」

 基本、死んだ人間は冥府で長い年月をすごしたあと、またあらたな人間として生まれ変わることになるが、それはまったく別の人間として生まれるのであって、浄光道が信徒たちに説いているような、生前と同じ人間として新しい世界に生まれ変わるという意味ではない。しかし、天界の住人である珊釵には、浄光道の教義が間違っているとはっきり判っていても、下界の人間ではそうはいかないだろう。

「そやつらの教義が正しいか間違っているかはさて置き、先生としては、そのような教えが広まるのは好ましくないということか?」

「いや、これがあからさまな邪教であれば話も違うのでしょうが……少なくとも浄光道では、貧しい暮らしをしている人々や病人、流民たちに対する炊き出しをおこなうなど、人助けのようなこともしておりましたし、そもそも人のすることである以上、我々が介入すべき問題でもないとは思います。ただ、どうにも気に懸かると申しますか……」

「ふむ」

 珊釵は顎に手を当てて少し考え込んだあと、椅子から立ち上がった。

「ならばお役目のついでに本官が少し見てこよう」

「お願いできますか?」

「ああ、先生には何くれとなく世話になっておるしな。……その浄光道とやらの本拠地は、ここからそう遠くないのであろう?」

「珊釵どのの尺度で近い遠いは判りかねますが、まあ、蘇州の郊外ですので遠くはないかと」

「では土地神にでも聞けば――」

 珊釵はそこで口を閉ざし、眉をひそめて庭先に出た。

「どうなさいました、珊釵どの?」

「星秀のやつ……本官にひと言もなく勝手に天界に戻っていきおった。いったい何を考えておるのだ、あの半人前は?」

 小声でぶつぶつと毒づいてしまったが、どのみち珊釵はさほど星秀のはたらきには期待していない。勝手に天界に戻ったところでそれでお役目から逃れられるわけでもないし、それどころか同僚にでも見とがめられれば上役から大目玉を食う可能性もある。むしろ星秀にとってはそのほうがいい薬になるかもしれない。

「……まあよいわ」

 飲みかけの茶を飲み干し、珊釵は供も連れずにただひとりで街に繰り出した。

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