第二回 きみの名は? ~第六節~

「どうなさいました、星秀さま?」

「あ、別に何でもないよ。……それよりごめん、何かいってたよね? よく聞いてなかった」

「いえ、あくまで私事なのですけど……ちょうどあしたは母の命日で、朝からお寺のほうにまいりますから、申し訳ございませんけど、屋敷のほうにいらしていただいても」

「あー、うん、了解」

 さすがに親の法事を放り出して自分の相手をしてくれとはいえない。あしたは久しぶりに黄珠と顔を合わせない一日になるだろう。

 そう思うと、なんだか不思議な感じがした。すでに星秀の中では、黄珠は自分の隣にいるのが当たり前のような感覚になっているのかもしれない。


◆◇◆◇◆


 もうもうと立ち込める線香の煙の中、金糸銀糸をふんだんに使ったお揃いの道袍に身を包んだ女たちが、祭壇の前で拝礼を繰り返していた。こうした儀礼に慣れている様子の者もいれば、見るからにまだ戸惑っている者も多くいる。ただひとつ共通しているのは、いずれも若く美しい娘ばかりだということだった。

「……本来、こうした儀礼ではげきが神を降ろすことが多いのですが、我々が奉ずるのは女媧神――ならば神を降ろすのも女がよかろうということで、信者たちの中からこれはと思う者たちを集めてあれこれと学ばせております」

 少し離れたところから女たちの動きを見守っていた八華楼主こと王楽嬰に、虚風祖師がうやうやしく説明する。

「儀式の当日までに、あの者たちの中から特にすぐれた者たちを選び出していくここになりましょう。楼主にはかならずやご満足いただける人選になるかと……」

「師のなさることに間違いはあるまい。信頼している」

 女たちが身にまとうものよりもさらに豪奢な道袍の裾をひるがえし、楽嬰は羽扇を片手にきびすを返した。

「――しかしな、師のおっしゃりようで解せぬのは、あの女の拉致を峰児に任せよということだ。師の推挙でわたしの護衛につけたはよいが、峰児は短慮で激しやすい。酷薄なのはともかくとして、万が一あの女を死なせるようなことがあれば――」

「楼主のご懸念はごもっとも……ですが、峰児のあの酷薄さがよいのです。あの女の心胆を寒からしめ、死ぬほど震え上がらせることができねば役には立ちませぬゆえ……」

「それは判る。判るが……」

「人の心とはままならぬもの……なだめすかしても、おそらくあの女は我々のいうがままにはなりますまい。ならばその逆をためすのがよいかと」

「それで峰児か?」

「慎重に慎重を重ねる穿山にはできぬでしょうし、文静は賢い男ですが、それゆえにいまだに信を置けぬところがございます」

ごくせんごくではなおさら話にはならぬ、か――」

 自室に戻ってきた楽嬰は、長椅子に腰を下ろして嘆息した。虚風祖師は孫娘の前で拱手し、

「儀式に必要なものは揃いつつあります。祭壇はすでに完成しておりますし、たい輿さんの珊瑚はじきに穿山が持ち帰ることでしょう。八人のも、先ほどの女たちの中から選び出せばよろしい」

「…………」

「まだ何かおありですかな、楼主?」

「おおむねすべてが順調に運んでいる……が、どうにも気に懸かる」

 肘掛に寄りかかり、楽嬰は眉間にしわを刻んで目を伏せた。

 自分たちの悲願の成就に日一日と近づくにつれ、楽嬰の胸中の黒雲は次第に大きくなっていく。自分が幼い頃からいだいていた理想の世界までもうすぐだと判っているのに、いいようのない不安に襲われるのである。

「……このまま突き進めば、我らの頭上に大いなるわざわいが降りかかるような気がしてならぬのだ、師よ」

「そのような卦が出ましたか?」

「いや――考えすぎといえばそれまでだが」

 卜占は楽嬰の得意とするところである。神蛇浄光道が多くの信徒を獲得するにいたったきっかけも、幼い少女だった頃の楽嬰が、その卜占によって近い未来のことを予言し、次々に的中させてきたからだった。

 そんな楽嬰の直感が、遠からず何かが起きると告げている気がする。ただ、それがどういうことなのか、漠然としていて言葉にできない。

 虚風祖師は深く頭を下げ、低い声でいった。

「……おそらく楼主は、多くの民草に訪れるであろう悲劇を、我がことのようにお感じなのではありますまいか?」

「悲劇……か」

「我らが目指すあらたな世界を現出させるためには、今の世界に住む民たちのほとんどは死なねばなりませぬ。そんな彼らの絶望を、楼主が我知らずのうちに読み取ってしまったのでは?」

「そのようなことがあるものなのか?」

「楼主にはそれほどの才がございますゆえ、そうしたことがないとはいえませぬ」

「…………」

「ともあれ、どうも楼主はお疲れのご様子……しばしお休みになられては?」

「そう……だな。そうさせてもらおう」

「それでは、また何かございましたらお呼びくだされ」

 あくまで楼主とその補佐役という立場を崩すことなく、祖父は孫の部屋から姿を消した。

「…………」

 侍女たちを呼びつける気にもなれず、ひとりで装飾の多い道袍を脱ぎ捨て、寝台に腰を下ろした時、視線を感じた。

「……誰だ?」

 浄光道に、楽嬰の部屋に無断で入ってくるような礼儀知らずな者はいない。祖父である虚風祖師でさえ、立ち入る前にはきちんと伺いを立てる。それ以外の者ならなおさらだった。

 しかし、楽嬰は確かに自分以外の何者かの気配を感じていた。

「名乗らぬ気か?」

 先ほどよりも語気を強めた楽嬰は、立ち上がると同時に羽扇を取ってひと振りした。その瞬間、柄から離れてふわっと散った八枚の羽根が、風もないのに楽嬰の周囲をゆらゆらとただよい始める。虚風祖師が作って献上したはっきょくぜつせんは、その羽根の一枚一枚が鋭利な刃であり、楽嬰が敵と見なした対象へ容赦なく襲いかかる恐るべき武宝具なのである。

「……?」

 周囲に八枚の刃の護衛をしたがえたまま、楽嬰は広い部屋の中を歩き回った。だが、刃は反応しない。何者かの気配を明確に感じながらも、それがどこにいるのか楽嬰には判らなかった。

「余計な真似はするな」

「!?」

 唐突に聞こえてきた声に、楽嬰は振り返りざまに羽根のない羽扇を振るった。楽嬰の周囲の羽根が一枚、その動きに応じて高速で飛び、窓際に飾られていた花瓶の首をあざやかに切断する。

「その声は、まさか……?」

 床に落ちて首が砕け、澄んだ音が響き渡る中、楽嬰はあたりを見回した。だが、やはり楽嬰のほかに誰もいない。それに、先ほどまで感じていた気配もいつの間にか消えていた。

 ここ何年もかいた覚えのない冷や汗が、静かに頬を伝って流れ落ちていくのが判る。凍りついたように身動きできずにいた楽嬰は、柳眉を逆立て、やにわに首のない花瓶を払いのけた。

「なぜ……なぜわたしを認めないのです!?」


◆◇◆◇◆


 きのうの夕暮れ時、珊釵さんさと伍先生がそうしていたように、きょうは朝から星秀が楼閣の屋根の上に登り、蘇州の街並みを眺めながら、ずっとぼんやりしている。

「……何をやっておるのだ、あの半人前は?」

 冷やした白玉をもぐもぐと食べつつ、珊釵は楼閣を見上げた。

「朝からあの調子で、何も食べないのですよ」

 庭に向けて扉が開け放たれた一室で、伍先生は熱い茶を淹れている。

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