第二回 きみの名は? ~第五節~
「――峰児どのも二度に渡って同じあやまちは繰り返しますまい。非才の身ながら、今回は私もともにまいりますゆえ」
「…………」
祖師は無言で楼主の顔を見やった。祖師としては、ここは楼主の判断にゆだねるといいたいのだろう。
「よかろう」
手にしていた羽扇をかかげて峰児に向け、楼主はいった。
「――次はないぞ。よいな、峰児?」
「は、はい! トーゼンです!」
「おまえは腕は立つが直情にすぎる。ことにおよぶ前にまずは文静に尋ねよ」
「そーします! ――頼んだぜ、色男!」
「お任せください、峰児どの」
おだやかにうなずき、文静は内心ほくそ笑んだ。
「穿山には別に役目をあたえるゆえ、しばしここへ残るがよい」
「……は」
虚風祖師が穿山に向けた言葉に聞き耳を立てながら、文静は拱手して深く一礼すると、峰児に引きずられるようにして楼主の部屋をあとにした。
浄光道の中核をなすこの場に居合わせた五人のうち、文静がもっとも新顔で、しかも祖師に見出されることなくみずから売り込んだ。おそらく楼主と祖師は、文静の人となりを完全には掴んでいないだろう。
そしてまず間違いなく楼主たちは、今回の峰児のしくじりにかこつけて文静に大きな仕事を振り、それにどう対応するか観察する気でいる。
「ま、俺もそっちを値踏みしているわけだから、逆に値踏みされても文句はいわん。せいぜい高値をつけてくれればそれでいい」
「あ? 何かいったか?」
「何でもありませんよ。……それより、まずは策を練りましょう」
おだやかな笑みを浮かべ、文静は峰児に自分の腹案を説明した。
◆◇◆◇◆
細く開けた窓から風が吹きこんでくる。星秀はわずかに目を細め、黒白の石が並ぶ盤面を見つめて杯を手に取った。
「意外……といったら失礼だけど、強いね、奥さん」
「いえいえ、それほどでも」
ぺこりと頭を下げ、黄珠はぱちりと白石を置いた。
意外と、どころではない。きょうは昼前から黄珠ともう四、五局ほど碁を打っているが、星秀は一度しか勝てていない。あとはすべて黄珠が勝っている。しかも、そのただ一度の勝利にしても、黄珠が手を抜いて勝ちをゆずってくれたことは明白だった。
おまけに、黄珠が勝つにしても、毎回ほんのわずかな差で勝つのである。傍目には、ふたりの実力は伯仲していて、たまたま今は星秀のほうが負けが込んでいるとうに見えるだろう。
ただ、実際にはそうでないことは、ほかならぬ星秀が一番よく判っていた。
「……それにもうひとつ、意外に意地悪だね、奥さんは」
「あら」
「別にぼくは碁が大の得意というわけじゃないけど、小うるさい父親に尻を叩かれて、子供の頃からそれなりに勉強してきたつもりなんだ。あなたがかなり手加減して、ぎりぎりのところで競り勝った体をよそおってることくらいは判るよ」
両手を挙げて投了の意を伝えた星秀は、さっさと
小間使いの
「……加えていうなら、奥さんは何をやらせても玄人裸足だ」
「恐れ入ります」
あの夜以来、星秀はたびたび黄珠のもとを訪れている。向こうが来てくれといって訪ねていったわけではなく、こちらから行くといって訪ねていったわけでもない。星秀が唐突に屋敷を訪ねても、黄珠は嫌な顔ひとつせず、みずから出迎えて歓待してくれた。もし星秀がいちいち伍先生の屋敷に戻らず、このまま居候させてくれと頼み込んだとしても、おそらく黄珠ならふたつ返事で応じてくれるだろう。
そうして黄珠とすごす時間が増えるにつれて星秀が知ったのは、彼女の多才ぶりだった。
時に手ずから琴を弾き、書を書き、絵を描き、刺繍をし、碁を打つ――さして裕福ではない家に生まれた黄珠に、こうしたものをたしなむ余裕があったとは思えない。それができるようになったのは董家に輿入れしてからのことだろう。わずか三年ほどの間に、よくもこれだけの技術や教養を身につけられたものだと感心する。
「今のわたしには、これといってほかにやるべきこともございませんから……」
手ずから碁盤と碁笥を片づけていた黄珠は、ふと星秀を見やって目を丸くした。
「星秀さま……それは?」
「ん?」
黄珠の視線が碁石に向いているわずかな間に、星秀は赤い薔薇の花を自分の髪に差していた。
「それじゃ奥さんにも一本」
きょとんとしている黄珠の目の前に差し出した右手に、突然、あらたに赤い花が咲く。
「今のは……どうやって?」
「きょうはあんまり奥さんにいいところを見せられなかったからね。僕にも特技のひとつやふたつくらいあるって判ってほしくてさ。僕、こうやっていくらでも薔薇の花を咲かせられるんだ。……どうやってやるのかは秘密ね」
そういいながら、今度は左手にまた赤い薔薇を咲かせる。女性を口説く時くらいにしか使えず、同僚からは神通力の無駄遣いとよくいわれるこの特技だが、少なくとも黄珠は感心してくれたようだった。
「……でも、少し判る気がするな。奥さんがこの前いったこと」
「はい?」
さっきよりも強く吹きつけてきた風が、どこからか柳絮を運んでくる。運河の水面に跳ね返った陽光が、画舫の中にいる星秀の目を軽く刺した。
「前に、どこかよその土地でやり直したいっていったよね? その気持ち、今ならちょっと判るよ。ほんのちょっとね」
張三郎と話して、星秀にも黄珠に科せられた見えない足枷が徐々に判ってきた。
素封家の夫が遺してくれた家屋敷と財産があれば、生きていくぶんにはなにひとつ不自由はない。ただ、そういう家に嫁いだ貞淑な妻としての身分が、逆に黄珠を縛っていた。出戻る実家のない彼女は、この先死ぬまで董家の女主人であり続けなければならないのである。当然、かるがるしくほかの男に嫁ぐことはできないし、この地を離れることもできない。加えて、いずれどこからか養子を取って、董家の跡取りとして育て上げることが義務となる。
裕福ではあっても自由はない――いわば黄珠は、透明な籠に入れられた美しい鳥のようなものだった。
「ぜいたくな望みですわ」
星秀から受け取った薔薇を髪に差し、黄珠はいった。
「――この生き方を選んだのはわたし自身です。いまさらそれが不満だなどというのは虫のよい話だとは思いません?」
「そうかな?」
頬杖をつき、星秀はじっと黄珠を見つめた。
「人って成長するにつれて見た目も中身も変わるよね? 変わるよ、変わってくものなんだよ。だったら生き方だって変わってくのが自然なんじゃない? 僕はそのへん融通利かせてもいいと思うよ?」
「そう……でしょうか?」
「うん。――たとえばあなたがある日突然どこか遠くに逐電したとして、それって何か問題ある? 何かの罪になるわけ?」
「罪には……ならないと思いますけど。でも、よくない噂は立つでしょうね」
「嫁いだ以上は婚家に尽くせ、その義務を果たさずに逃げ出すなんてとんでもない、とかって? でもそれ、遠くに逃げたらあなたの耳には届かないよね? 幸か不幸か、この土地に残って後ろ指を指されるような親類もいない」
「……ええ、そうですね」
「なら何も気にする必要ないんじゃない?」
もしこの時、黄珠が星秀に、どこかよその土地へ連れていってほしいと頼んでいたら、きっと星秀はその願いをかなえていただろう。
しかし、黄珠はついにそんな願いを口にはしなかった。何かしらの葛藤をかかえているのはその表情を見ていれば明らかだったが、あいにくとそれを打ち明けてもらえるほどには、まだ星秀と黄珠の距離は近くないらしい。
そう考えて星秀はふと気づいた。
初めて会った夜にごろつきから救って助け起こした時を除けば、星秀はまだ一度も黄珠に触れていない。すぐに張り倒されると判っていても、天軍の女性神将たちが相手なら、隙あらば肩を抱こう、腰を抱こうとするような星秀が、一介の人間である黄珠の手すらまともに握っていないのである。
「……僕、熱でもあるのかな?」
自分の手の甲を額に押し当て、星秀は小さくぼやいた。
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