第二回 きみの名は? ~第四節~

「――星君さまが本気になったとしたって、相手は結局、下界生まれの人間の女でやすからね。星君さまがちょいと何かの任務で世界中を飛び回って戻ってきたら、あちらはもう墓石の下、なんてことになりかねねえ」

「……そうそう、そうだよね」

 最初から判っていた。そういうことがありえるからこそ、星秀もこれまで下界の美女には手を出さずにきたのである。張三郎の指摘で本来の自分の信条を思い出し、星秀は小さく笑った。

「別に本気じゃないよ。ただまあ……美女の好意を無下にするのもね」

 肩をすくめ、星秀は舟に飛び乗った。

「――どこかで濃い茶を一杯飲んでから戻ろう」

「茶……ですかい? この夜更けに?」

「酒の匂いをさせて戻ったんじゃ、遊んできたって丸判りだろ? 一日中見回りをしてきて、でも残念ながら成果はありませんでしたって顔をして戻るにはさ、そのくらいの小細工は必要なんだよ」

「そんな小細工じゃあ、ちんがく星君さまは納得なさらねえと思いやすが……まあいいでしょう。その体であっしも口裏を合わせますよ。成果がなかったってぇのは嘘じゃありやせんし」

「うんうん、それでいい」

 春の夜風に吹かれていると、黄珠のところで飲んだ酒が静かに抜けていく気がする。扇子で自分の眉間をかきながら、星秀は無言で星のきらめきを見上げた。


◆◇◆◇◆


 りゅうぶんせいはここの空気が好きではない。より正確にいうなら、ここの空気に染みついた匂いが好きではない。

 このまん寿じゅきゅうには、毎日、数百人からの信徒たちが集まってくる。彼らの日々の暮らしからすれば決して小さくはない額の金を払い、ここで売っているただの線香をありがたがって買い求め、それに火をつけて女神をかたどった塑像に祈りを捧げていく。

 彼らは像の前にひざまずく権利を得るために線香を買う。いい換えるなら、いくら問うても応えない女神にかしずく無駄な時間を得るために、文静たちが用意した線香を買うのである。その線香にしたところで、彼らと同じ信徒たちを使って作らせている安価な粗悪品だったが、それも承知の上で、彼らはただ燃えて灰に変わるだけのものに金を出すのだった。

「線香の煙なんぞ腹の足しになりゃしねえのに……心も弱けりゃ頭も悪い連中だぜ」

 やや日に焼けた、どこか野性味のある端整な顔をわずかにゆがめ、文静は本堂の前に列をなす人々の群れから視線を逸らした。

 奥の院に向かう途中、すれ違う者たちはみな文静にふかぶかと頭を下げる。この浄光じょうこうどうにおいて、文静の席次は教祖であるはっろうしゅとその相談役であるきょふうに次ぐ第三位――一般の信徒にとってはもちろん、教団内ではたらく者たちにとっても尊敬の対象だった。

 赤い蝋燭が並ぶ広間を抜け、文静は楼主の部屋を訪れた。

「お呼びでしょうか、楼主?」

「よーやくのお出ましかよ」

 おどけたように応じたのは楼主ではない。文静と同じく楼主を師と仰ぐ女――峰児だった。あざやかな橙色の男物の衣をまとい、逆向きに椅子にまたがってぎこぎこと揺らし、あからさまに苛ついた表情を浮かべている。

「おっせーんだよ。どれだけ楽嬰サマを待たせるつもりだっつーの」

「申し訳ございません」

 挑みかかるようなまなざしを向けてくる峰児の言葉を受け流し、文静はひとり長椅子に腰を下ろしている楼主に頭を下げた。

 本堂とは違って、ここの空気には線香の匂いはほとんどしない。代わりにかすかに感じるのは白檀の控えめな香気だった。おそらくそれが八華楼主――おう楽嬰の好む香りなのだろう。

「あ!? テメー、楽嬰サマに対してそんだけかよ!? 詫び方知らねーとか――」

「峰児」

 がたっと椅子を鳴らして立ち上がった峰児を、静かな老人の声が制した。

「……ちっ」

 楼主のかたわらにつねに持している虚風祖師は、それこそ風が吹けばどこかに飛んでいってしまいそうな痩せこけた老人だが、向こうっ気の強い峰児もさすがに祖師には逆らえないようで、小さく舌打ちしただけですぐにまた椅子に腰を下ろした。

 虚風祖師は楼主の祖父に当たる人物で、逸早く楼主の才を見抜き、幼い頃からさまざまな学問や道術を教え込んできたと聞いている。いわば楼主にとっては、育ての親であると同時に師匠でもあった。孫娘を浄光道の教祖として立て、みずからは第二席に着いているのも、そのほうが人心を集めるのに都合がいいと考えたからだろうし、老いたりとはいえ、その力はおさおさ楼主にもおとるまい、と文静は考えている。

「……文静」

 卓の上の水を張った盆を凝視したまま、それまでずっと押し黙っていた楼主は、顔を上げて文静に尋ねた。

「先日、わたしが峰児に指示を出した一件……おまえも聞いておるはずだな?」

「無論のこと、存じております」

「……子供のつかいだ」

 部屋の隅で床に座り込み、凶悪な狼牙棒ろうがぼうを磨いていた猫背の小男が、陰気な低い声で笑った。穿山――人々を教えみちびくこの浄光道には、峰児と並んでもっとも似つかわしくない人材といえるだろう。

「何だテメー、ウチをバカに――」

 峰児が穿山に何かいおうとして口を開きかけた。しかしそれも、虚風祖師の一瞥で立ち消える。

 文静は深く溜息をつき、

「……うまくいかなかったのですか?」

「予想外の邪魔が入ったようじゃが」

 祖師はそういったが、特に峰児をかばうようなものではなく、単に事実を述べただけのようだった。

「……お言葉ながら……予想外というより、むしろ最初から予想できたことです……仕切りが悪い……」

「は!? テメー、ウチをバカにしたか? したよな? テメー死なすわ!」

 今度こそ峰児は椅子を蹴倒して立ち上がり、黒髪に差した簪に手をかけた。

「峰児どの、どうか落ち着いてください。楼主の御前ですので」

「…………」

 文静になだめられ、峰児は指を震わせながらも簪から手を離した。

 峰児は気が強くて喧嘩っ早く、おまけに向こう見ずで、一方の穿山は慎重居士だが陰気で皮肉屋――ふたりとも虚風祖師が捜してきた楼主の護衛役だが、性格的には水と油、相性は最悪だった。楼主や祖師がこの両人を教団の運営にじかにかかわらせないのもむべなるかなというところだろう。

 文静は軽く嘆息し、

「……私をお呼びになったということは、それでは次はそのお役目を私に、ということでしょうか?」

「それも手ではあるな」

 枯れ枝のような手で長い白髭をしごき、虚風祖師はうなずいた。

「無論、無論のこと、楼主のおおせとあらばしたがいますが……ひとつ、よろしいでしょうか?」

「何か考えがあると?」

 怜悧な瞳で文静を見据え、楼主が赤い唇を開く。巷では八華楼主を慈悲深く美しいしんじゃ浄光道の教祖というが、そういう人間は真正面から彼女の瞳を覗き込んだことがないのだろう。そこにともっているのは、慈悲の二文字からは遠くかけ離れた冷たい輝きだった。

 胸の奥がざわめくのを鎮め、文静はいった。

「ここは峰児どのに汚名をそそぐ機会をおあたえになってはいかがでしょう?」

 文静がそう口にすると、不貞腐れたようにそっぽを向いていた峰児が、急に目を丸くしてまた立ち上がった。逆に穿山は、あからさまに不愉快そうに眉間にしわを寄せている。

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