第二回 きみの名は? ~第三節~
「先ほどはあやういところお助けいただき、まことにありがとうございました。お礼を申し上げるのが遅れて申し訳ございません」
「いやあ、別に礼をいわれるほどのことじゃないよ。朝飯前というか夕飯前というか晩酌前というか――」
前髪をさらっとかき上げていつもの調子でいう星秀に、黄珠はまたもやおだやかに微笑んだ。
「ご謙遜を……ともあれ、こちらへどうぞ」
「それじゃあ遠慮なく」
四阿の下の卓に着くや否や、星秀の前にいい匂いをさせる料理が次々に運ばれてきた。どれが何という料理なのか、詳しいことは星秀にも判らないが、いずれも手が込んだものだという気はする。
「まずは一献――」
黄珠みずからの酌を受け、星秀はひと息に酒をあおった。伍先生のところで出てくる、桃の香りのするややとろりとした酒と違って、この酒はさわやかな蓮の香りがする。蘇州に来てから何軒も酒家を回った星秀も、初めて口にするものだった。
「いいね、このお酒。あんまり飲んだことのない味だよ」
「おほめいただきありがとうございます」
そういってさらに酒をつぐ黄珠の横顔を見つめ、星秀は何ともいいがたい思いに駆られた。
張三郎の話では、黄珠は今年で一九歳――人の身の彼女にとっては、もしかすると、今がもっとも美しい瞬間かもしれない。人間の寿命はどうあがいたところで一〇〇年に満たない。何しろ古希という言葉があるくらいだから、七〇歳まで生きながらえる人間すらほとんどいないのだろう。大半の人間は、七〇どころか六〇まで生きられればいいほうだとも聞く。
とすれば、この黄珠の美しさにしたところで、数年後にはもうかげりを見せ始め、一〇年後にははっきりとおとろえ、二〇年後には見る影もなくなっているかもしれない。あるいは三〇年後には、すでに死んでいるということすらありえる。
天軍では女好きでだらしがないといわれる星秀が、いかに美しかろうと下界の女たちにあまり執着しないのは、そんな春の短さも理由のひとつだった。
「そうそう、忘れないうちにこれを――」
黄珠の言葉が星秀を現実に引き戻す。かすかな狼狽を隠して目線を戻した星秀に、黄珠は襟もとに差していた扇子を抜いて差し出した。
「あれ? もしかしてそれ、ぼくの扇子?」
「わたしどもの船の上に落ちておりました。とてもよい品のようですし、星秀さまのものではないかと思いまして」
「うん、ありがと。けっこう気に入ってるんだよね、これ」
受け取った扇子からは、馥郁とした香りがほのかにただよっていた。洒落者の星秀は自分が下界で着る衣服や小物に気に入った香を焚き染めているが、この扇子から感じるのは今の黄珠がまとう香りだろう。
扇子を開いてひとあおぎしてから、はたと星秀は気づいた。
「……僕、まだ名乗ってなかったよね?」
星秀のほうでは、相手の素性をすでに掴んでいたからうっかり聞き流しそうになっていたが、名乗ったのは黄珠だけで、星秀はまだ自分の名前を明かしてはいない。にもかかわらず、黄珠は扇子を返しながら星秀の名を口にした。
その疑問に対し、黄珠は団扇で口もとを隠し、静かに目礼した。
「いささか特技がございますので」
「え……? もしかして占い師だったりするわけ、本当に?」
「そういうことではございませんけど」
適当にはぐらかしつつ、黄珠は星秀の皿に肴を取り分けていく。やはりこの美女には、ただの人間とは違う何かがあるようだった。
がしかし、そこを根掘り葉掘りしつこく問いただすのは野暮というもの、少なくとも星秀の流儀ではない。疑問はいったん封印し、ひとまずこの宴席を楽しむことにした。
「それにしても、見事に手入れされた庭だねえ」
広く瀟洒な庭を見渡し、星秀はいった。
「これは亡くなった旦那さんの趣味かな? 二年や三年で造れる庭とも思えないし」
星秀のその呟きに、黄珠はくすっと含むように笑った。
「ん? 何かヘンなこといった?」
「いえ……星秀さまのほうこそ占い師でもなさっておいでなのでは? わたしのことをよくご存じのようで……」
「あー、いや、それはあれだよ、あれ! あなたはこの蘇州でもとびきりの美女として有名だからね! だからあなたのことも以前から噂で聞いて知ってたってわけ」
咄嗟にそう取りつくろい、星秀は料理に箸を伸ばした。
「星秀さまは、蘇州に住んでどれほどですの?」
「いや、ここへ来たのはつい最近だよ。今は知人の屋敷に居候してる」
「あら」
「ん? いいご身分だとでも思った?」
「いえ、それなら今は、見るものすべてが珍しく、さぞや楽しくていらっしゃるのではないかと……」
「あー……まあ、そうかな? 僕の故郷とは大違いだからね。こんなににぎやかでもないし」
「わたしは生まれも育ちも蘇州です。ここは美しい街ですけど、でも、こうやって同じところに二〇年も暮らしておりますと、ときおり、何もかも捨てて新しい土地でやり直してみたくなる時がございますわ」
そう呟く黄珠の双眸は、文字通りどこか遠いところを見つめているようで、それが嘘いつわりのない彼女の本音であることが窺い知れた。
「…………」
星秀は頬杖をつき、ぼんやりと黄珠の横顔に見入った。その視線に気づいた黄珠が戸惑いの声をあげる。
「何です?」
「いや、奥さん綺麗だなって」
「存じております」
黄珠は悪びれることなくにっこり笑った。もし彼女がここで星秀の言葉を否定していれば、謙遜がすぎて嫌味になるだろう。
「そこは母に感謝しております。母に似たので……」
そうつけ加え、黄珠はさらに星秀に酒を勧めた。
結局その夜、星秀は日付が変わる頃までもてなしを受け、客間を用意するという彼女の言葉を固辞して屋敷をあとにした。
「……星君さま」
盛り場まで歩いてきた星秀が運河端まで下りてくると、何もいわないうちから張三郎が姿を現した。
「ずいぶんとお召しのようで……」
「酔っちゃいないよ」
ふだん星秀が飲んでいるような天界の酒と下界の酒は、味はともかく、強さがまったく違う。天界の住人にとっては下界の酒は水のようなもので、いくら飲んでも酔うということはまずない。
星秀は扇子をぱちりぱちりと鳴らし、その場にしゃがみ込んだ。
「不思議な女性には違いないけど……やっぱり人間だよなあ」
この時間になっても、盛り場の酒楼には多くの客が出入りしている。店の軒先に吊るされた灯籠を眺め、星秀は首をかしげた。
「ちょいと下世話なことをお聞きしやすが、あの奥方とは……?」
「ほんとに下世話だな。ただきょうのお礼だっていって、お酒と料理をごちそうになっただけだよ」
いつの間にか隣にしゃがみ込んでいた張三郎の脇腹を、閉じた扇子で軽くつつく。
「おっと……」
そのままぼちゃんと運河に落ちそうになった張三郎は、いったん姿を消し、今度は星秀の反対側に現れてしゃがみ込んだ。
「はばかりながら、今はあっしも神仙のはしくれみたいなもんですし、老婆心ながら申し上げますが……あまり本気にならねえほうが星君さまのためだと思いやすよ?」
「は? ならないよ、なるわけないだろ? この僕が、そんな――」
「それがようござんす」
張三郎は笹の葉を水面に浮かべ、舟に変えて乗り込んだ。
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