第二回 きみの名は? ~第二節~

 おそらくそれも、人間の世界ではよくあることなのだろう。そこに愛があるかといわれれば、少なくとも娘から男に対しての愛はなさそうに思える。なら、旦那に先立たれたこともさほど哀しくはないのかもしれない。

 星秀がじっと無言で屋敷の塀を見つめていると、張三郎はいぶかしげに、

「……それにしても、星君さまはなぜそこまでくだんの奥方のことをお気になさるので? さっきもお聞きしやしたが、まさか下界の人間に本気で……ってことはねえんでしょう?」

「まあ、天界には彼女くらいの美女はいくらでもいるからね」

 内心の動揺をうまく押し隠し、星秀はしたり顔でうなずいた。

「その、黄珠さん? とやらも、たぶん下界ではかなりの美女ってことになるんだろうけど、僕はふだんから天界の美女たちを見て目が肥えているからね。というより、僕自身がたぐい稀な美少年だし。美の絶対値でいえば、明らかに僕のほうが彼女より上だからね、うん、僕のほうが上だよ、上さ、上」

「はあ……ではなぜあっしに文黄珠を調べろとお申しつけになったので?」

「それは――」

 星秀は船底であぐらをかき、頬杖をついて考え込んでしまった。

 あらためてそう問われると、星秀にもうまく説明できない。一番真実に近いのは、彼女が気になったから――だろう。ただ、なぜそこまで気になるのか、そもそもその理由が星秀自身にも判らないのである。

 彼女を助けた時には、なぜか彼女のそばにいてはいけないような気がして、逃げるようにその場から立ち去った。だが、そのくせ彼女のことが頭から離れない。こうしてその日のうちに彼女の住まいを調べさせ、近くまで様子を見にきてしまうというのは、星秀自身も矛盾を覚える行動だと思う。

「……星君さま?」

「ねえ」

 こちらの表情を窺う張三郎に言葉を継がせず、星秀は尋ねた。

「――彼女、本当に人間かなあ?」

「は? そりゃあつまり……幽霊じゃないかって話ですかい?」

「幽霊だろうと仙人だろうと、とにかく人間以外の何かって可能性はないかってことなんだけど」

「そいつはないと思いやすがねえ。そいつぁあの奥方を間近でご覧になった星君さまのほうがよくご存じでやしょ?」

「そうなんだけどさあ」

 張三郎は竿を引き上げ、星秀と向かい合うように座り込んで声をひそめた。

「――少なくとも、あっしが問い合わせたかぎりじゃ間違いなく人間ですぜ? 死んだ両親も人間でやした。逆にお聞きしたいんでやすが、それをごまかす方法なんてあるんですかい?」

「そこなんだよなあ……」

 下界で生きている人間の生死は天界ですべて管理されている。誰がいつどこで生まれたのか、どこで何歳で死んだか、管轄の役所で調べればすぐに判るようになっているし、張三郎が蘇州の住人の情報を調べられるのも、こうした役所に問い合わせる権限をあたえられているからだった。そして、人の出生を管理している役所こそ、ほかならぬなんせいくん――名ばかりとはいえ、星秀が長となっている役所なのである。

 そこからの情報を手に入れた張三郎が人間だと断言するからには、あの美女は正真正銘の人間で間違いない。

「星君さま」

 無言で考え込む星秀に、張三郎がいった。

「ん?」

「あれを」

 見ると、屋敷の裏手の通用門が開いて、中から提灯を手にした娘が出てきた。

「もし……」

 小間使い風のなりをした少女は、運河の縁までやってくると、星秀たちに向かってうやうやしく頭を下げた。

「もし人違いでしたら申し訳ございません。そこにおいでなのは、当家の奥さまが先ほどたちの悪い男たちに絡まれていたところをお助けくださった、勇ましい若さまではございませんか?」

「え? ああ……まあ、助けたといえば助けたけど」

 星秀はうなずきつつも、しかし、なぜ自分たちがここにいると判ったのか、内心ではそのことに首をかしげていた。

「やはりそうでございましたか。うちの奥さまが、ちょうど若さまが屋敷の裏の運河をお通りになるはずだからお声をかけて、もしご都合がよろしければお招きするようにとおっしゃいまして――」

「よ、よく判ったね、そこまで……」

「星君さま」

 張三郎がこそこそと耳打ちしてきた。

「――こいつぁ勘がいいなんてもんじゃねぇですぜ? 前に先生からお聞きしたことがございやすが、世の中にゃ妖怪だの神仙だのの正体も一発で見抜く凄腕の占い師もいるって話です。もしかしたら……」

「あの奥方が占い師?」

「ありえなくはねぇでしょう? あの奥方が人間だってことに間違いはねぇわけですし、人間でそこまで察しがいいってのは、人間なりに何かしらの特技があるってことじゃねぇですかい? 天下のしょかつこうめいも、十日後の天気を正確にいい当てたって聞いたことありやすぜ?」

「……誰だよ、諸葛孔明って?」

 下界の人間をたとえに出されても、下界に興味のない星秀には今ひとつピンと来ない。とはいえ、文黄珠が気になっている星秀には渡りに船の申し出だった。

「そんじゃまあ、お邪魔しようかな?」

「いいんですかい、星君さま?」

「彼女が人間なのは間違いないんでしょ? なら、仮に僕の正体が見抜かれたって何も問題ないだろ? ないよね? お役目には何の支障もない、うん」

 勝手にそう納得し、星秀はひと飛びで小舟の上から少女の隣へと移動した。彼女のことが気になって、そして張三郎にあれこれ聞いても何も判らないのなら、思い切って本人と話してみるのも手かもしれない。

「――それじゃきみはどこかそのへんで時間潰しててくれる?」

「へ、へい……」

 何ともいえない表情でうなずく張三郎を残し、少女の案内で星秀は屋敷に足を踏み入れた。

「それにしても、きみのところの奥方……黄珠さんだっけ? いいの? こんな時間に若い男を屋敷に招き入れちゃっても?」

「奥さまのおいいつけですので」

 提灯の明かりを頼りに、少女は瀟洒な裏庭を先に立って歩いていく。伍先生のところにはおよばないまでも、この屋敷もかなり広く、そして贅を尽くした造りであることは星秀にも判った。四季の移り変わりが存在する下界で、いつ見ても美しい花や緑であふれる庭園を設計するにはかなりの努力が必要だということを、つい先日、伍先生から聞いたばかりの星秀である。

 庭と庭とをつなぐ洞門をくぐり、池に架かる朱塗りの橋を渡った星秀は、そのほとりに鎮座する石造りの四阿あずまやに、古風な団扇を持つ萌黄色の衣の美女がいるのに気づいて袖口に手を差し入れた。

「――あれ?」

 愛用の扇子を取り出そうとした星秀は、それがないことに気づいて眉をひそめた。

「わざわざご足労いただき、ありがとうございます」

 ほのかな灯籠の明かりに淡く照らし出された美女――文黄珠は、やってきた星秀に対し、四阿を出て慇懃に一礼した。

「――この屋敷の主人、文黄珠と申します」

 あらためて見ても美女だった。俗にいう蒲柳の質、強く抱けば折れてしまいそうなたおやかな立ち姿に一瞬見惚れそうになってしまうが、正面から顔を合わせてみれば、その双眸からははっきりとした強い意志を感じる。たおやかに見えつつも、芯の強い女のようだった。

 かといって、目つきがきつい、気が強そう、という感じはしない。しゃらしゃらと髪飾りを鳴らして頭を上げた黄珠は、男心を鷲掴みにするようなやわらかい微笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る