第二回 きみの名は? ~第一節~
ずぶ濡れになって戻ってきた男たちを見て、
「……どーゆーこったよ?」
暗い路地の奥に転がっていた底の抜けた手桶を蹴ってこなごなに粉砕し、峰児は限界まで押し殺した声で尋ねた。尋ねはしたが、彼らがどう答えようと、その中身はどうでもいい。峰児にとって重要なのは、彼らが仕事にしくじったという事実だけだった。
ずぶ濡れの男たちは、ばつの悪そうな顔をたがいに見合わせ、何やらもごもごいっている。峰児の静かな怒りの前に完全に委縮していた。
「ウチ、オメーらにそんなメンドーな仕事頼んだか? 頼んでねーよな? 素手で虎を捕まえてこいとか頼んだか? 頼んでねーよな? そーだよな?」
「へ、へい……」
「虎じゃねー、熊でもねー、野犬ですらねー、相手は女ひとりだよな? 女ひとり捕まえてこいって頼んだだけだよな? 女を一〇〇人さらってこいって頼んだわけでもねーよな? ひとりだよな? なー?」
「へ、へい……」
「へいじゃねーんだよ! だったら何で失敗したんだよ!? 女ひとりに図体のでけー男どもが五人も六人もかかってってよ、どーしてしくじってんのよ、オメー!? たっぷりと前金渡したよな? 受け取ったってことはやり遂げる自信があったってことだよな!? ならどーしてしくじってんのよ!?」
「そ、それは……」
「答えは聞いてねー! ってか永遠に黙ってろ!」
峰児の右手が髪から簪を引き抜いた次の瞬間、正面にいた男の口が裂けた。
「……ウチがこーやってわめいてんのはオメーらのベンメーを聞きてーからじゃねー。わめいてねーと大騒ぎを起こして
彼女の右手にあった簪は、いつの間にか細身の剣へと変貌していた。左右の口角をつなぐ線で頭部を輪切りにされた男が、悲鳴をあげる間もなくその場に崩れ落ちる。それを見た周りの男たちが、一瞬遅れて身も世もない叫び声を放った。
「うるせーんだよ!」
薄暗い路地から逃げ出そうとする男たちの頭上を軽やかに飛び越え、その行く手に立ちふさがった峰児は、素早く右手の剣を振るった。
「んがっ……!」
くぐもった悲鳴に続いて、どさどさと重いものが地に落ちて転がる音、そして静けさが戻ってくる。
「……どーしてくれんだよ、オメーらよー……?」
六人の男をわずか数秒の間にバラバラに切断した峰児は、地面に剣を突き立て、その場にしゃがみ込んで顔をおおった。
「オメーらのせいで楽嬰さまに怒られるじゃねーかよ……クソッ、オメーら死んで詫びろよ、マジ許さねーからな!」
仕事に失敗した男たちへの怒りはもはや薄れつつある。それよりも今は、楽嬰からの叱責が恐ろしい。と同時に、楽嬰の役に立てなかったことが哀しい。
「どーすりゃいーんだよ、もー……
声をあげて泣きながら、峰児はまた剣を手に取り、あたりに転がる男たちの残骸にざくざくと斬りつけた。
◆◇◆◇◆
「このへんはアレかな、お金持ちばっかりが住んでるところかな?」
誰に問うでもなく星秀が口にした呟きに、すかさず
「そうでやすね……あとは宮中のお偉いさんの別宅とか、大きな道観とか――ま、結局は金持ってる連中の住む場所ですが」
「例の奥さまはこの界隈の住人てこと?」
「へえ。
「一九かぁ……」
「いいところの娘さんなら、親同士の話し合いで子供のうちから許嫁を決めるなんてのはふつうにありやすし、一五、六で輿入れってえのも珍しくはないと思いやす。はたちをすぎて独り身だと行き遅れといわれかねねぇご時世ですしね」
「彼女、子供とかは?」
「おりやせん」
張三郎がいうには、この死んだ旦那には、正妻と妾を合わせて何人もの妻がいたらしいが、子供にはめぐまれなかった。子供を産めない妾たちは暇を出され、そのたびに別の若い妾をもらったりもしたのだが、それでも子供は生まれなかったという。
「――それでまた新しく妾を捜そうってところで、正妻が死んじまったんですよ。旦那が六〇、正妻はそれより年上の六二だったっていうんで、まあ、決して短命だったってわけじゃねぇですがね」
「六〇……六〇? え!? 旦那って六〇だったの!?」
人間の六〇歳というのがどのくらいの年齢なのか、しばらく考え込んでからはたと察して、星秀は思わず頓狂な声をあげてしまった。
「へえ。旦那は六〇で新妻は一六、祖父と孫娘ほど年が離れてたわけですが、旦那としちゃあ是が非でも男児を産んでもらいたいってことで、できるだけ若くて器量のいい娘を捜してきたようです。……ところが、祝言を挙げた翌年には、先妻のあとを追うようにぽっくりと逝っちまいやして」
「へぇ……でもこういう場合って、先立たれた妻のほうは、喪が明けたら実家に戻って再婚話を捜したりするもんじゃないの?」
「それがですね、この美女、実家の両親ももう亡くなっておりやして、天涯孤独の身といいますか」
「そりゃまた……運がないね」
「さて、どうなんでやすかねえ?」
そう呟いた張三郎の口ぶりには、何か含みがあるように思えた。
「――確かに身内はいなくなりやしたが、考えようによっちゃこの文黄珠さん、亡き旦那の財産をひとりで受け継いだってことですからね。憐れまれるかうらやましがられるかでいやあ、あっしはうらやむ人間のほうが多いんじゃねえかと思いやすぜ。……ほら、ご覧なせえ」
弧を描く石造りの橋の陰で舟を止め、張三郎は運河沿いの通りを縁取る白い壁を指ししめした。
「あのお屋敷、あれだってくだんの奥方の旦那が遺したモンでやすからね」
「あれが彼女のお宅ってわけ? かなり大きそうだな……」
「でやしょ?」
「けどさぁ、最愛の人との別離と引き換えに莫大な財産を手に入れることって、そんなのホントにうらやましいかな? 僕だったら美女との別れのほうがはるかにつらいけどねえ」
「そりゃあアレだ、こう申し上げちゃ何ですが、星君さまが生まれついての神仙だからこそ出てくるお考えですぜ?」
「は?」
「――この下界にゃ、その日を生き延びることにさえ四苦八苦する人間が驚くほど多いんでさぁ。そんな連中にとっちゃ、恋だの愛だのなんてのは二の次、まずは食うもの、住むところをどうにかしなきゃならねえ。ですが星君さまは、生まれてこのかた、そんな心配なぞしたことはござんせんでしょう?」
「それは……うん、まあね」
「それに、くだんの奥方にしたところで、本当にその旦那と好き合ってたかどうかは判りゃしませんぜ? そもそも奥方の両親はこの旦那にかなりの額の金を借りていて、それをチャラにする代わりに娘を嫁に出したんでやすからね」
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