第一回 蘇州の春 ~第七節~

「――おまけに夫差は、その美女からあれこれ吹き込まれたのでしょうが、ついには私をうとんじるようになりましてな」

「……要するに、暗愚な二代目にとっては、有能な先代の腹心は何かと煙たい存在だったということか」

 つんと鼻に来る辛みをほんのり桃の香りのする酒で押し流していた珊釵は、そんな自分の言葉に、ふと星秀のことを思い出した。

 思えば星秀も親の跡目を継いだばかりの頼りない大理星君であり、珊釵は先代の薫陶を受けた、星秀にとっては非常に煙たい姉弟子である。おまけに、夫差が酒色にふけって身を持ち崩したところも星秀と重なる気がして、珊釵は二重の意味で溜息をついた。

 いつの間にか日は完全に沈み、蘇州の街にはその繁栄を物語る無数の灯籠の明かりがともり始めている。この楼閣の上から眺めるその光景は、さながら赤い蛍が群れているかのごとくだった。

「結局、先生はそのまま首でも斬られたわけか?」

「斬られたというより斬らされました」

 伍先生は自分の首に手を当てて苦笑した。

「――うとまれるだけではなく、ついには私が他国と通じているという讒言まで飛び出してきましてな。ただ、私は父の代から仕えてきた功臣なので刑に処すわけにはいかない、だから自刎せよと、それはもう見事な剣を賜りまして」

「まったく嬉しくない贈り物だな。必死に国に尽くした結果がこれでは浮かばれぬのではないか」

 珊釵も苦笑で応じ、先生の杯に酒をそそいだ。

「――そこですよ。私の死後、呉の人々が口々に噂し始めたらしいのです」

「噂?」

「自決の直前、私の骸をなまずの皮で縫った袋に入れて長江に投げ入れるよう、私が息子に指示したとか何とか……」

「は? ……鯰の皮?」

「はあ。死したのちも朝な夕なにこの長江の波間にただよい、呉の滅亡をその目で見届けてやろうと呪いの言葉を吐いた――と」

「先生らしくもない……なにゆえそのような物騒なことをいい残したのだ?」

「いやいや、私は決してそのようなことは申しておりません。天に誓って!」

「にもかかわらず、そのような不穏な噂が立ったということは、よほど恨みがましい死に顔でもしておったのではないのか?」

「自分ではよく判りませんが、案外そうだったのかもしれませんなあ」

 他人ごとのようにあっけらかんと笑う伍先生は、確かに誰かを恨んで呪いの言葉を残していくような人間には思えない。しかし、恬淡としたこの風情も、あるいはもしかすると、神仙となって俗世のしがらみから脱したからこそのものなのかもしれない。

「……そんなこんなで、この地の人々にとっては、私はこのあたりで生じる長江の高潮をつかさどる神となって、今でもこのあたりをただよっておるらしいのです」

「鯰の皮の袋に入ってか?」

「人々にとってはそのようです。いずれにしろ、そのような逸話を持つ私を、今頃になって本当に長江流域の潮神に封じたのは天界のお歴々ですからな。おかげで悠々自適にすごさせていただいておりますよ」

「ということは……本当に毎日遊んで暮らしておるのか、先生は?」

「そうしようと思えばできるのでしょうが……それではあまりに申し訳ないのと、遊び暮らすというのがどうにも性分に合いませんので、こうして近隣の土地神や城隍神たちの取りまとめや相談役のようなことをやらせていただいております。天界からのお客人たちをおもてなしするのもその一環というわけでして――」

「そうであったか……」

 珊釵が任務のために下界へやってくるのはこれが初めてではないが、ここまで待遇がよかったことはない。もし彼女たちを出迎えたのが城隍神や土地神たちだけであれば、ここまでいたれり尽くせりとはいかなかっただろう。

「――しかしそう考えると、先生は本官などよりよほど長生きで人生経験も豊富ということになるのだな」

「亡者上がりの神の端くれを捕まえて、長生きだの人生経験豊富だのというのも妙な話ですが……ただ、人として生き、今は神として生きている立場でいわせていただけるのであれば、下界の人間たちの中で暮らしてみるというのも悪くはございませんぞ?」

「……そういうものか」

「あなたにしろ大理星君どのにしろ、さして下界の人間に興味をお持ちではないようにお見受けいたしました。確かに人間たちは、神仙とくらべればはるかに短い寿命しか持たず、ゆえに取るに足りない存在と思えるかもしれませぬ。……ですが、そのぶん神仙たちよりよほど濃密な人生を送っているともいえます」

「濃い人生……か」

「失礼ながら、あなたはすでに天界で数百年ほどおすごしなのでしょうが、それでもわたしから見れば、あなたの心持ちは少女のそれと同じように思われます」

「それは……そうかもしれぬ」

 珊釵も自分がもう一人前の大人だとは思っていない。生きてきた年月は長くとも、精神面での成熟という意味では、確かに珊釵はまだ子供だった。見た目に合わないこんなしゃべり方をしているのも、そもそもは隠居した父を真似てのことであって、実際には星秀より数十年ほど年嵩なだけにすぎない。

 ただ、珊釵や星秀のような子供にも、大なり小なりお役目が課せられるのが天界の住人のつねなのである。

 珊釵はかぶりを振って杯を差し出した。

「話は戻るが……照妖しょうようきょうで捜せないのであれば、こちらから動いて捜す以外になかろうな」

「ラーフ軍の残党のことですかな?」

「奏上してきた土地神たちにはすまぬが、朽ちかけた廟を荒らして回る賊とラーフのもとで悪事をかさねてき賊、どちらを優先して捜すかといえば、考えるまでもなく後者であろう? それこそこの地に住む人間たちのことを思えば、そうした凶賊どもこそ真っ先に討伐せねばならぬ」

「いかさま――ですが、どのようにして捜すおつもりで?」

「星秀にもその点は釘を刺してあるが、迂闊に空から捜すわけにはいかぬ」

 神将たちの乗る光遁こうとん呪の雲はよくも悪くも目立つ。塵埃にまぎれている妖怪たちがもしそれを目撃すれば、警戒を強めて身をひそめ、発見はさらに困難になるだろう。

「あまり気は向かぬが、地を這って捜すほかないであろう」

「自分の足で捜す、ということですか」

「うむ……本官たちの管轄では、この蘇州での探索が一番の難事と判った。確かに正体を隠した妖魔どもが潜伏するには都合がよいようだ」

「それは何よりです。もしこの街ごと賊どもを殲滅するなどといわれたらどうしようかと……」

「さすがにそのような雑なことはせぬ」

 伍先生の安堵の表情に珊釵は思わず笑いそうになったが、しかし、規模は違えど、天界には場合によってはそういった犠牲をよしとする側面があるのも事実だった。

 たとえば、ラーフが天界に反旗をひるがえした時、もし戦場がこの大陸の真上だったとしても、天軍は頓着することなくラーフと戦っただろう。万単位の人間たちがその戦いに巻き込まれて命を落とすと判っていても、ラーフを放置しておけばそれに数倍、数十倍する人間がいずれ死ぬと判断すれば、ためらうことなくその選択肢を選べるのが天界なのである。

「……星秀の弟分が下界に流されたのも、結局はそれが原因であったな」

「は?」

「いや、何でもない」

 ついついもれた繰り言をごまかし、珊釵はさらに杯を重ねた。

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